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Act24.「ある男の独白」

 ――これは、いつの記憶だろうか。

 心地よい木漏れ日と水のせせらぎ。こんなにも美しい風景には見覚えがなかった。恐らく夢の中だけの幻想なのだろう。しかしそこに立つ少女の輝きは、夢でも現でも変わりない。純白のドレスに身を包んだ少女は女神か、天使か、妖精か……そのどれでもない、俺の最愛の妻だ。


「ねえ、アタシたちって、親子みたいよね」

 彼女は天使の顔で悪魔みたいな事を言った。俺はその言葉をよく覚えている。それは……俺達の結婚式の日に橙が言った言葉だ。


 何もこんな日に、そんなことを言わなくてもいいだろうと、何度思い出しても思う。心に浮かんだことがすぐに飛び出す、喧嘩の火種を撒きがちなその口を、純真無垢と捉える俺は流石に盲目過ぎるだろうか? しかし彼女とは喧嘩をする位がちょうどいい。出会った当初の橙は心を閉ざしており、怒らなければ笑いもしない少女だったのだから。


「ねえ、怒った?」

「怒らせるつもりだったのか?」

 そう訊き返せば、橙は「そうじゃないわよ」と決まりが悪そうにする。そんな顔をするなら最初から余計なことなど言わなければいいものを。俺はまだ幼さの残る少女に溜息を吐いた。こういうところが、傍から見たら子供に手を焼く父親に見えるのだろう。先程彼女が言った“親子みたい”という言葉を、どこまでも気にしている自分がいる。


 親子ほど年が離れ、外見も決して若くは見えない俺が、瑞々しい彼女の隣に夫として立つこと。それには後ろめたさがあった。だが、十分な言い訳はある。最初からそうではなかったのだ。彼女と出会い恋をした俺は、年が離れているとはいえまだ二十代の若い男だった。


 俺だけが急速に老いてしまった背景には――“時間くん”という悍ましい存在がいる。橙がアリスネーム持ちのキャラクターであるからか、それ以上に何か理由があるのか、時間くんは彼女を特別視していた。俺が橙に結婚を申し込んだことが相当気に食わなかったのか、時間くんは明らかな悪意をもって“俺の時間を急速に進めた”のだ。


 それに気付いた橙は激怒し、時間くんに歯向かった。時間くんという存在は神に近く、一キャラクターが敵う相手ではない。しかしキャラクターでもない俺が二人の間に介入することはできなかった。橙が時間くんに会うためバックグラウンドに姿を消していた間、俺は生きた心地がしなかったのを覚えている。あの心労が一番老いを早めたに違いない。


 その後幸運にも彼女は無事に帰還し――敵う筈もない相手に勝利しただけでなく、どういう訳か時間を管理する“ゼンマイ”の所有権の一部を、彼から奪っていたのだった。


 橙が手にしたゼンマイは、彼女の周囲一帯の時間を管理するものだという。橙がそれを最初に利用したのは、俺の時間を止め、老いを食い止めた時だ。初めて力を使ったからか、そもそも時間操作自体が心身に大きな負荷を与えるのか、橙はそれから三日間眠り続けた。


 俺は自分の事などどうでもいいから、そんな危険な物は手放して欲しかった。しかし目覚めた橙はそれを聞き入れなかった。ゼンマイの力を使って俺や領を守るのだと言い、時間の管理がしやすいよう、媒介となる時計塔の建設に着手し始めたのだ。


「橙……」

 俺は目の前の愛しい顔を見つめる。夢の中の橙は、俺が思考に潜っている間は飾られた絵画の如く黙って微笑んでいるだけだ。その穏やかな空虚に寂しさを抱くも、今は安堵の方が大きい。彼女の自我が、彼女をいつも手の届かないところへと連れて行ってしまうのだから。だがその“彼女自身”を何より愛しているのも事実だった。


「橙、すまない。俺がお前を愛さなければ、お前はそんな力に苦しめられることもなかっただろう」

 俺の存在が彼女に時間の力を与えてしまった。そして、橙にとって唯一無二の存在である……“もう顔を思い出せない女”を、彼女に引き合わせたのも俺だ。俺は彼女を苦しめる原因ばかり作っている。


 それでも彼女との出会いを、後悔することができない。どのような形でも橙を傍に置いておけるなら幸せだった。


 彼女は後悔しているのだろうか? 俺と出会ったこと、結婚したことを。


 ……分かっていた。彼女が本当は誰を一番愛していたのか。俺との結婚に承諾したのは、時間くんの件での罪悪感からだということを。彼女が頷いてくれたのは、いざこざの後だったのだから。




 *




 アドルフは惜しみながら目蓋を開けた。彼を迎えたのは輝く庭園ではなく、見慣れた埃っぽい部屋である。重たい体をベッドから剥がし、水差しのぬるい水を一口飲むと、深く息を吐いた。


(……ああ、目覚めてしまったのか。勿体ない)

 目を閉じればまだ花嫁姿の残像がある。あの時橙が言った『親子みたい』という言葉が、今となっては彼女の本当になってしまった。アドルフは記憶を失った橙に、老いた自分を夫だと告げることが出来なかったのだ。


 今眠ればもう一度、彼女が自分の妻だった頃の世界に戻れるだろうか? しかし朧な夢の残像は、瞬きと共に室内に立ち込める闇に溶けていった。その暗闇に“数回前”に現れた目障りな少女の瞳を思い出し、アドルフは忌々しげに眉を寄せる。


 夢子とピーターが初めてこの家に来た時は、それこそ夢かと思った。勿論悪夢である。繰り返しを続けてきた約六年もの間、大きな変化の無かった日常を壊した異物。それは平穏な日々の終わりを予感させるものでしか無かった。


 外野の内の一人、ピーターのことは、アドルフも少なからず知っていた。自領に引きこもりがちなアドルフだが、侯爵という立場上、必要最低限の社交は要される。王城で行われる式典などの大きな催しで、王の傍らに控えている目立つ男を知らずにいることは不可能だった。だが、言葉を交わしたことは数える程しかない。


 “補佐官は気ままで身勝手なところはあるが、有能な人物である”というのが人々の共通認識。気ままで有能な人物など、関わらないに越したことはないのだ。


 そんな彼が何故、どのようにしてこの街にやって来たのか。周囲から“無愛想で失礼な男だ”と認識されているアドルフは、相手が誰であってもそのペースを崩すことなく、ピーターを問い詰めた。事故、というのが彼の答えだった。


 アドルフは、それを素直に受け取るほど愚かではない。閉鎖されたこの時空間に、ワームホールというイレギュラーな道を使いキャラクターが現れるなど、とても偶然の事故とは思えなかった。恐らく誰かが、この不安定な平穏を壊そうとしているに違いない。その誰かの正体も目的も分からなかったが……始終うんざりした顔のピーターが、何かを企んでいるようには見えなかった。


(誰であっても、今日を終わらせることは、許さない)


 橙に時間を止められていることが影響しているのか、アドルフはループの中でも記憶を維持できた。変わり映えの無い一日を見続けているアドルフは、誰よりもこのループに絶望を抱いている。だがそれでも終わりを望むことはできない。その先に絶望より大きな不安があるからだ。


 過去、時間を操作した時の橙の負荷を考えると、ループという大規模な時間操作の負債は計り知れない。現段階で目に見えてそれが現れていない分、橙がループを自覚し、または終えてしまった時に、一気に押し寄せてくるのではないか。そしてその時、彼女の身に何が起こるか……アドルフは恐ろしくて考えていられなかった。


 だから、このループを維持しなければならない。

 だが、あの少女がそれを妨げようとする。


 夢子と出会ってからの橙はおかしかった。これまで一日の殆どを家の中で過ごし、夕方に少し散歩に出るだけだった橙が、あの少女と出会ってからは散歩ではなく“待ち合わせ”のように家を出ていき、毎夜共に街へ繰り出して行くのだ。


 アドルフは嫌な予感を抱きつつも、長いこと見ていなかった橙の活き活きとした笑顔に、強引に引き留めることはできなかった。しかし今ではそれを後悔している。昨晩夢子におぶられて帰って来た橙を見た時、彼は思った。初めから、徹底的に切り離し隔離すべきだったのだと。



「ちょっと、開けてよ!」

 耳に刺さる甲高い声が、アドルフを現実に引き戻した。二階からドンドンと、橙が部屋の戸を激しく叩く音が聞こえてくる。怒りか悲しみか、混乱した彼女の声を聞いていると罪の意識がこみ上げた。


 アドルフは今、橙の部屋のドアに開かないよう細工をし、閉じ込めているのである。もし強行突破でドアを開けたとしても、トラップは二重に張られていた。アドルフは家の周りに、彼女が苦手とする犬を模した機械犬を侍らせている。彼女の犬嫌いは度を超えており、四足歩行で唸りを上げているものを相手にすると、身動きが出来なくなる程なのだ。


 何もアドルフは、橙をずっと閉じ込めておくつもりは無い。橙が夢子に会いに行く時間帯、前夜祭が終わる頃までのつもりだ。一日でも二日でも、橙が夢子に会いに行かなくなるまで切り離し――たところで、相手からやってくるかもしれない。元凶である少女にはどう手を打つべきか。アドルフは、現白ウサギと元白ウサギの二人に太刀打ちできる気はしなかったが、それでもどうにかしなければならなかった。


「すまんな」

 アドルフは小さく呟く。彼女の友人を、また失わせてしまうのだ。


(俺はいつも邪魔者だな)


 彼の悲しい独白を打ち破ったのは、二階の窓の割れる音だった。




 *




「こんなことって、あるのかなぁ」

 コーヒーを飲み終えた夢子が、すっかり冷えたカップを握りしめながらポツリと言った。独り言にするつもりだったそれをピーターが拾う。


「何の話?」

「うーん……偶然出会ったカフェの店員が、橙の大切な人の妹さんだったり。そもそも、ここに来て初めて出会ったのが橙だっていうのも……何故かわたしの事は覚えているっぽいところも……なんていうか全部、」

「都合が良すぎる?」

「そう、それ。誰にとっての都合かはさておき」


 今となって考えると、全てが出来過ぎていて、違和感があった。

 腑に落ちない様子の夢子に、時間くんが明るく笑う。


『世界にとっての都合だよ。君がこの世界の駒――キャラクターである以上、無駄な偶然なんて存在しない。全てが物語の展開のためにある必然さ』

「必然? 展開?」

『そう。起承転結のない物語は誰も楽しくないからね。ほら、この間“君を飲みこんだ本”もそうだよ。君を物語に連れて来た』

 ……本の話は時間くんにしていなかったと思うが、ピーターに話した時に聞いていたのだろうか。


「連れて来たって、誰が? 何のために?」

『不思議の国が。物語を紡ぐために』


 夢子は童話の『不思議の国のアリス』を思い出した。物語の序盤で、主人公アリスは“私を食べて”と書かれたクッキーや、“私を飲んで”と書かれた小瓶の液体の力で、体を伸び縮みさせて話を進めていく。それはもしかすると、メルヘンの皮をかぶった一種のシステムだったのだろうか。少なくともこの世界では。


『今更驚くなんておかしいよ。第一章からそうだったでしょ』

「第一章ってなに?」

『君の物語を区切ってみただけ』

 時間くんが笑う。


「……白ウサギって、いつもこんな感じなの? 大変だったんだね」

「いや、別に。寧ろ白ウサギの役を手放してからの方が……ずっと大変だ」

 ピーターのその嫌味のような言葉が、そうでは無く聞こえて、夢子は彼の顔を確かめようとする。ピーターはその視線から逃れ、夢子の手から空のカップを取り上げると自分のカップと共に片付け始めた。


「ねえ、物語が自分からやって来てくれるなら、待ってた方が得策だったりしない?」

「……みたいだね」

 ピーターがすっと、夢子の後ろに視線をやる。夢子は「えっ」と振り返った。


 緑色の闇が広がる夜の林、その奥から聞こえてくる荒れた息遣い。草の上を走る無数の足音。そこに現れたのは――


「夢子っ!」

「橙!?」


 橙が夢子の胸に飛び込んでくる。突然の事に驚く夢子だったが、橙を追って来たのだろう気配が姿を現すと、咄嗟に彼女を背に庇った。そこにいるのは、時計塔付近に屯していたものと同じ機械犬と……アドルフだ。


「また貴様か……橙を返してもらおうか」

「返すも何も、橙は誰の物でもないでしょう」

 夢子には事情は分からなかったが、橙が彼から逃げて来たのだということは分かる。彼に対してか、機械犬に対してか、怯えているということも分かる。だから返す訳には行かない。


「夢子、助けて」と橙が小さく言った。


「……あれ? 橙、なんでわたしの名前、」

 夢子は緊迫した状況で気付くのが遅れたが、橙に名前を呼ばれるのはおかしかった。今日はまだ、橙に出会っていないからだ。


 もう橙は、夢子のことを完全に覚えていた。


 アドルフが、握った拳を震わせる。2,221回のループで自分の事を一度も覚えていなかった橙が、出会ったばかりの少女のことは覚えている。その事実に、彼は全身の血が沸騰しそうになった。衝動的に夢子に掴みかかろうとしたその手を、ピーターが止める。


「邪魔をするな!」

「邪魔者は、あなたの方では?」

 ピーターは肩越しに振り返って、夢子に目配せをする。橙を連れて行けということだろう。しかし夢子には、四方を囲む犬達を突破する手段がない。


「お前達に何が分かる! 俺が守って来たものの何が分かる!」

「説明を拒んで理解を乞うのは、いかがなものかと」

「うるさい! とにかく橙から離れろ、これ以上その子に踏み込むな!」

 鼻息荒く捲し立てるアドルフ。夢子は静かに橙を見た。

 大きな悲しみと、大きな力を抱え込んだ橙。そんな彼女に踏み込む勇気。覚悟。情熱。今の自分にそれはあるだろうか。


「……橙、聞いて欲しいことがあるの。とても大切なこと」

「おい、やめろ! 何を言うつもりだ! まさか、」

「あなたはやっぱり、知っているんですね。なら橙にとってそれが、とても大切なことだというのも分かっている筈ですよね」


 アドルフの中で、まさかが確信に変わる。彼はさっと青ざめた。


 夢子は、自分の中に静かに怒りが燃えているのを感じていた。大切な友人を忘れてしまうということ、それを隠されているということ、思い出せないということ、その全てが許せない。(わたしだったら、わたしと紫だったら……そんなの絶対に嫌だ)


「大切かどうかなど問題ではない! 事実はこの子に耐えられるものではないのだ! 貴様は、橙の心を殺す気か!?」

(彼と話していても埒が明かない)

 夢子はアドルフの言葉を無視し、彼らに背を向け橙と向き合う。巨体の男に怒鳴られ、唸りを上げる機械犬に囲まれながら、その背は一切震えていない。

 肝の据わった子だな、とピーターは思った。


「橙、聞いて」

 夢子は橙の肩に手を置いて、彼女の視界を支配した。


「なに……こんな時に……何の話?」

 橙は目に見えて困惑している。しかしそれは、何かに気付き逃れようとしているみたいに見えた。夢子は言うべき言葉を用意しきれていなかったが、その茶色い瞳を見ていると自分の中に残っている“彼女”の感覚が蘇り、背中を押される。


 ……そうだ、彼女から受け取ったものがあった。夢子はポケットの中からオレンジ色のリボンを取り出し、橙の手に握らせる。


「思い出して、大切な人のこと。……オレンジさんのこと」

 夢子はその名を口にした瞬間、鍵穴に鍵を差し込んだような、パズルのピースが噛み合ったような、スイッチが押されたような、そんな感覚を覚えた。橙は目を見開き、固まっている。


「ちゃんと向き合って。何度繰り返しても、過去は変えられない。助けてくれたオレンジさんの為にも、橙は前を向かなくちゃ」

「オレンジ……」


 夢子は内心、第三者の立場で説教垂れている自分が嫌になってきた。全て本心ではあるが、あまりに勝手である。橙は虚ろな目で何度かオレンジの名を繰り返し――突然、夢子を突き飛ばした。「夢子!」「橙!」二人の男の声が重なる。


「オレンジ……どこ……嫌、嫌嫌嫌嫌! 嫌っ!」

 錯乱状態の橙が叫んだ。視界がぐにゃりと歪んだ。夢子は呆然と立ち尽くし、場違いにも目の前の光景に“溶けた時計の有名な絵画”を思い出していた。


 橙を中心に世界が溶け、渦を巻き、彼女の姿を飲み込んでいく。手を伸ばす暇さえなく、橙は跡形もなく姿を消してしまった。

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