Act21.「オレンジ色(前)」
夕焼けに佇む侯爵邸は、古い写真を思わせるセピア色に静まり返っている。檻のような柵に囲まれたその洋館は、まるで映画やゲームに出てくる“呪いの館”だ。来る者を拒み、それでいて誘いこむ不気味さがある。
夢子を追いかけて来たピーターが「君は、本当にどうかしてる」とぼやいた。
「ねえねえ。さっきこっちから、何か声が聞こえなかった?」
「何も聞こえなかったけど……走り出す前に、何か一言くらい言えないの?」
「それは、ごめん」
夢子は自分のことを落ち着きがある方だと思っていた。しかしピーターには、相当無鉄砲な危険人物認定されているに違いない。
あの日、路地裏でピーターを見かけた時。そして今。
夢子は理性を上回る本能に、突き動かされている。
「ここって、侯爵様のお屋敷だよね? バグが起きて入れなくなってるっていう……。どんなバグだか知ってる?」
『入ってみれば分かるよ』
夢子の問いに答えたのは、無邪気な時間くんの声だった。ピーターが少し焦った様子で「時間くん」と彼を諫める。
夢子は、ピーターが自分の事を意図的に危険に晒すことはないと理解していた。そんな彼が良くない反応をするということは、この先が危険だということだろうか? しかし、時間くんの導きで青バラ退治やワームホールからの脱出が出来たのは事実である。
夢子は時間くんのことを、物語進行のお助けキャラクターみたいに思っていた。
「分かった。入ってみるしかないってことだね」
そう言った夢子に、ピーターが大袈裟に溜息を吐く。「あなたはここで待っていてもいいよ?」と夢子は強がりを言ったが、実のところ付いて来て欲しかった。中で危険に遭遇してしまった時、自分だけで生き残れる気がしないからだ。
「勿論、付いてきてくれても……」と言いかけた夢子の前を通り過ぎ、ピーターは門に近付いて行く。
「今度は勝手な真似はしないこと。出来るだけ僕から離れないでね」
それが、回答であるらしい。夢子は「はーい」と返事をした。
厳重に鍵でもかかっていそうな鋳物の門扉は、あっけないくらい簡単に開く。敷地内に人気は無い。石畳が続く殺風景な道の先に、ひっそりと構える洋館。立派ではあるが、華は無かった。噴水や花壇で優美だったジャックの館とは違い、ここは無機質に美を見出しているようである。鈍色で無骨な印象のキルクルスの街にはよく合っていた。
呪いの館というのもあながち外れていなかったのか、一歩進む度に寒気に似た、何とも言えない嫌な感じが圧し掛かってくる。それに耐え、侯爵邸の分厚い鉄扉の前に辿り着いた時、夢子の耳をまた声が掠めた。
――「まだ……また駄目」
先程よりはっきりと聞こえる声。夢子はピーターの様子を窺うが、やはり彼には聞こえていないらしい。
――「もう……」
ピーターが鉄扉に手をかける。声が徐々に大きくなる。
(この声は、橙は一体何を言ってるんだろう? わたしに何を伝えようとしてるんだろう?)
――「もう一回よ」
扉が開かれる。
その瞬間、夢子の意識はバラバラとビーズの糸を解いたみたいに“散らばった”。
意識が定まらない。
どこに立っているのか、何を見聞きし、何を感じているのか。
自分が掴めない。
自分という一つが、百にも千にも別れてしまった。
落ち着かない。痛い。苦しい。悲しい。寂しい。恋しい。愛しい。無数の感情があちこちでせめぎ合う。こんな感覚は初めてだったが、この感覚をどこで誰が感じているのかも、もう不明瞭である。
それが一瞬だったのか永遠だったのかは分からない。ただある時、散り散りになった意識は突然何かに引っ張られた。まるで強力な磁石にくっ付くように、一つにまとまりはじめる。しかしそうして出来た集合体は、元の自分ではなく別の誰かだった。
――足が痛いなと思った。息も切れている。ああ、長い階段をお茶の乗ったトレーを持って登って来たばかりなのだから、当然か。
ポットの中身はすっかり冷めているだろうが、それに文句を言う相手ではない。空いているもう一方の手で、時計塔の上階にある作業部屋のドアをノックし……返事がないまま何度かそれを繰り返し……諦めて、開けた。
ドアの先には燃える黄赤色の髪。いかにも作業場らしい雑多な部屋の真ん中で、少女が床に座り込み、何やら複雑な図案が描かれた紙に向かってブツブツ言っている。その顔は作業用のゴーグルで覆われており、表情が掴めない。
「これは……でしょ、だから……」
「おはようございます」
声を掛けると少女は相当驚いたのか「わっ」と弾かれたように顔を上げた。ノックの音もドアを開ける音も決して小さくは無かったが、今の今までこちらに気が付かなかったらしい。
「もしかして、また徹夜されたんですか?」
「し、してないわよ」
その目は隠れていても、泳いでいるのがありありと分かる。物でごちゃごちゃの机の端に何とかトレーを置くと、少女に近付き、「こら!」とゴーグルを強引に外した。露わになった猫みたいな茶色の瞳。その下にはどんよりと隈が出来ている。
(……橙?)
見知った人物の登場に、夢子の意識が“彼女”から分離した。しかし意識を取り戻すことが出来ても肝心の体が無い。あると言えばあるのだが、それは別の誰かのものなのだ。体も、体を動かす意識も他人のもので、自分はそれをごく近いところから客観的に見ている。
まるで憑依霊にでもなってしまった気分だ。もしかして死んでしまったのかもしれない……と、夢子は不安になる。侯爵邸の扉を開けただけなのに、何故こんなことになってしまったのだろう。ピーターや時間くんはどこに行ってしまったのだろう。この体は誰のもの? 目の前にいるのは本物の橙?
「またこんなに隈を作って……少しは休まれてください。時計塔はもう完成したのでしょう?」
「一応、形になったというだけよ。手直しの余地しかないわ。まだ鐘の音が届く範囲くらいの時間しか管理できないし、時々狂うのよね。何か問題は起きてないかしら?」
「問題?」
「楽しい時間が一瞬になったりだとか、夜が明けたのに眠った気がしないだとか……」
「どうでしょう。“寝ていた気がしない人”なら、目の前にいますが」
「もう。心配し過ぎよ」
橙は決まりの悪そうな顔で、ボサボサに乱れた頭を掻く。これまで夢子が見てきたどの橙よりも幼く見えた。やり取りや表情から、何となく橙と彼女の関係の深さが窺える。
彼女は優しい溜息を吐いて、テーブルの上でお茶を注いだ。カップに揺れる茶色い液体に、砂糖をひとかけ、ふたかけ。ぬるくなった液体は砂糖を溶かし切らなかったが、スプーンで手早く混ぜるとある程度誤魔化すことが出来た。橙に差し出すと、その疲れた顔が綻ぶ。夢子にはそれが、あの甘い麦茶のような飲み物だと分かった。
「ありがとう。これ、本当に美味しいわよね」
「我が家の定番の味ですから」
「料理好きの妹さんのレシピでしょ? 今度、妹さんのカフェにも行ってみたいわ」
「街に行きたいだなんて珍しいですね。人が多いところは苦手でしょう?」
「それはそうだけど……妹さんには会ってみたいもの」
「似てませんよ?」
彼女に躱されたと思ったのか、橙は分かりやすくむくれる。しかし彼女が「まあ、いいですけど」と言うと、すぐに嬉しそうな笑顔を輝かせた。彼女は橙の素直な反応に肩を竦め、その隣に腰を下ろす。床に無造作に広げられている図案や計算式は、夢子にも彼女にも、何一つ理解できなかった。
「どうしてこんなに頑張るのですか?」
「したいことをしてるだけよ。アタシは時間の力を使って、全部自分勝手に、思い通りにしたいだけ」
「あなたの自分勝手は、いつも他人のことばかりなんですよ」
時計塔に関しても、他のあらゆる発明に関しても、橙は領民の利便性、安全や幸せを第一に考えている。どういった方法で時間管理の力を得たのかは分からないが、橙がそれを使って外からやってくる脅威……最近噂の消失現象からセブンス領を守ろうとしていることだけは確かだ。――と、夢子の中に彼女の思考が流れ込んでくる。
「そんなことないわ。アタシはいつだって自分のことばかりよ。アタシはね、ただ辛い時間をなくして、いつまでも幸せな時間だけを続けたいの。ずっとアンタとこうしてたいのよ、“オレンジ”」
橙が深い親愛――恋心と間違える程に熱の籠った瞳でこちらを見る。オレンジというのが、この彼女の名前らしい。甘酸っぱく美味しそうな名前だな、と夢子は思った。つい最近、誰かの名前に似た感想を抱いた気がする。
「ずっと幸せでいたいなら、まずは健康第一ですよ。奥様はもっとご自分を大切になさってください」
(奥様……?)と引っ掛かりを覚える夢子だったが、その思考を遮るように、橙が「あー!」と嫌そうな声を出した。
「駄目! 二人の時は、名前で呼んでくれる約束でしょ?」
「……橙。ほら、約束を守ったんだから……橙もちゃんと休むと約束してください」
「ふふ、考えておくわ。今日の昼食のメニュー次第ね!」
「まったく調子が良いんだから。何がいいんですか?」
「決まってるじゃない」
「ああ、オレンジタルトですね。でも、デザートですからね?」
オレンジは食事の支度をする為に腰を上げる。あの長い階段を下りるのかと思うとうんざりしたが、同じように立ち上がった橙と一緒なら、退屈することは無いだろう。
二人の姿が、窓ガラスに映し出された。オレンジの視点で世界を見ている夢子は、その時ようやくオレンジ自身の姿を見た。
年頃は二十代前半くらいだろうか。すらりとした細身にメイド服を品良く着こなしている女性だ。シャープな輪郭にスッと通った鼻筋が涼やかな美人である。銀色に輝く髪を編み込み、カチューシャのようにしていた。頭の後ろで結ばれたオレンジ色の大きなリボンは、彼女の落ち着いた雰囲気には少し幼すぎる気もするが、似合っている。
夢子はオレンジの姿を見て、先日知り合ったマーマレードを思い出した。先程オレンジの妹がカフェを開いているという話が出たが、もしかすると彼女達は姉妹なのではないだろうか? マーマレードが言っていた“しっかり者のお姉ちゃん”が、オレンジなのではないだろうか?
マーマレードがすぐに“姉などいない”と否定したことと、祭りでマーマレードに会った時の橙の反応から、夢子は何か嫌な予感がした。
「昼食は庭でピクニックにしましょうよ」
「かしこまりました。昼食に旦那様はお呼びしますか?」
オレンジが橙に尋ねる。――そう、先程オレンジが橙のことを“奥様”と呼んだのが、夢子はとても気になっていた。もしかすると“旦那様”とは橙の? いや、橙は自分より年下だし……この世界においてそれが問題ではなかったとしても、彼女の夫の姿は見たことが無い。影さえ感じたことが無い。記憶喪失の橙の傍に寄り添っていたのは、彼女の父親であるアドルフだけだ。……夢子の中で、“旦那様”とアドルフが結び付こうとする。
(いやいやいや、まさかまさか。父親だって言ってたし、歳が離れ過ぎてるし……でも)
時計塔を作った、発明家の、侯爵邸の奥様。
夢子の中でいくつかのパーツが綺麗にはまっていく。
(橙は、侯爵夫人で……きっと“公爵夫人”なんだ)
橙はセブンス領の侯爵夫人であり、恐らくアリスネーム“公爵夫人”を冠する特別なキャラクターなのだと、夢子は思い至る。公爵夫人は『不思議の国のアリス』に登場する、存在感のあるキャラクターの一人だ。夢子は橙の持つ強いオーラの正体に、ようやく合点がいった。
「あの人、今日はこんな時間に家にいるの?」
「ええ。今夜は前夜祭ですから、工場をお休みにしたそうです」
「ふうーん……。でも、呼ばなくていいわよ。折角のピクニックにあんなむさい男がいたら邪魔でしょう?」
橙がカラカラ笑う。その時、オレンジの感情が大きく波打ち、夢子は頭の中にコンクリートを流し込まれたような、重たい眩暈を覚えた。そしてそれが何なのか知る前に――視界がぶれる。まるで故障したモニターの如く、目の前の映像がガガッと乱れ、時計塔も橙の姿も見えなくなる。
(今度は一体、何なの!?)




