Act20.「変化の兆し」
図書館から出ると、中での出来事は全て夢だった気がした。滞留した空気、図書館特有の静寂。そして不可思議な“時間くん”との出会い。とても、現実味の無い時間を過ごしていた。……夢子は込み上げる欠伸を噛み殺す。
(そっか。昨日の夜が早送りされちゃったから、寝てないんだ)
隣のピーターを見ると、彼も眠そうな様子に見えなくはなかったが、いつもそんな感じだった気もした。
街の人々はというと、いつもと何ら変わりない。いつも通り元気でどこか疲弊している。事情を知らない彼らからすると、昨日も今日もごく普通の一日なのだろう。彼らが一睡もしていなかったとしても、それを認識していなければ、そこにそのような事実は存在しない。
……それにしても眠い。少し休んでから時計塔に向かわない? と提案しようとした夢子を「あっ」と幼い声が遮る。それはお決まりの聞き覚えのある声。いつもここで風船を飛ばしてしまう少年だ。
夢子のすぐ後ろ、母親に手を引かれた幼い少年の手から風船が飛び立つ。
夢子は咄嗟に手を伸ばし、風船の紐を掴もうとするが、あと少しのところで届かない。
「ああ」と悔しそうな声を漏らすと同時に、その風船はすっと戻って来た。何の気まぐれか風船を捕えたピーターが、感情の読み取れない顔で、それを夢子の手に持たせる。直接渡せばいいのに……と思いながら、夢子はそれを少年の手にしっかりと握らせた。少年は人見知りした様子で「ありがとう」とごにょごにょし、母親は何度もお辞儀をして、親子は去っていく。
「意外と優しいところがあるんだね。一回くらい変えても、何も変わらないんじゃなかったっけ?」
「ただ君につられただけだよ。脊髄反射」
「何それ」
そっぽを向くピーターに、夢子は小さく笑い……思い出した。風船が飛ぶと、次に起こるのは――。
夢子は視界の端にふらつく“本の山”を捉え、もうじき崩れ落ちるだろうそれらを拾うために、踏み出した。バサバサという音がした瞬間、その青年――ユリリオが困り顔を浮かべる間もなく、夢子は本を拾い上げて彼に差し出す。
「大丈夫ですか? 手が塞がっているようなので、バッグに入れておきますね」
「あ、ありがとう」
ユリリオは恥ずかしそうに、恐らく手が塞がっていなかったら頭を掻いていただろうという顔をする。それから彼はそわそわと何か言いかけたが、ピーターが「何してるの、早く行くよ」と夢子に声をかけると、見るからに暗くなった。夢子がユリリオから離れる瞬間、彼は小さく呟く。
「また時計塔に行くなら、気を付けてね」
(えっ?)
夢子は驚いて振り返るが、そこにいるユリリオはいつもと変わらず、気弱そうな柔らかい笑みを浮かべているだけである。聞き間違いだろうか? ピーターに「知り合い?」と訊かれ、夢子は「今日は違う」と答えた。
ユリリオの元を離れた夢子はまた、今度は見間違いかと思うものを見つけた。マーマレードの店の様子が、これまでと明らかに違っているのだ。
カフェは客入り上々だが、その賑わいは穏やかなものである。ガシャンと食器が割れることもなければ、客が怒鳴り声を上げることもない。よく見ればテーブルの上には番号とメニューが書かれたメモ用紙が置いてある。それは夢子が“昨日”取り入れたシステムだ。客席のいくつかはしまわれており、店先のボードには『本日はおすすめメニューのみとなります』の文字。メニューを絞った方がいいという、夢子の提案も採用されている。
料理を運ぶマーマレードは、てんてこまいには違いないが明るい顔をしていた。一瞬だけ目が合った時、彼女が微笑んだように見えたのは、夢子の気のせいだろうか。
「……ねえ、あれ、どう思う?」
首を傾げて見上げてくる夢子に、この子は驚きも恐怖も薄いな、とピーターは思った。普通、あんなあり得ない光景を目にしたら、もっと不気味がるものだろう。可愛げがない。(別に可愛さを求めてはいないけど)
「時間のループ……つまり変化を遮っている力が、弱まっているのかもしれない。原因である“彼女”の不調が、昨晩から続いているのかもね」
ピーターはそう答えたが、口にしたのは思考の一部でしかなかった。
――青バラの幻覚に囚われず、ヴォイドに妙な反応をさせ、時間くんに特別扱いされている、目の前の少女。夢子は異世界人と呼ぶに相応しく異端である。この街に変化が生まれ始めているのは、橙の力が弱まったというよりは、夢子の力が……。
「橙、大丈夫かな」
「理由も分からないのに、心配しても仕方ないでしょ」
「そうだよね。まずはその理由を探さなくちゃ」
夢子は目にした数々の変化に、前向きになっていた。
早送りで乱れた時間。重要ヒントキャラクターの時間くん。ユリリオとマーマレードの様子。間違いなく、この物語は進んでいる。きっと繰り返しから抜け出せる時も近い。
二人は休みもせず、そのまま時計塔に向かっていった。
*
林の奥、夢子は地面の上でバラバラになった機械犬を見下ろす。
少しの躊躇いもなくライフルで撃ち抜き、足蹴にし、それを壊したピーターは「なんかいつもより、数が少ないな」と呟く。
「えっ? それって物足りないってこと?」
「君は……僕を何だと思ってるの」
はは、と夢子は笑った。本気でそう思っていたら、決して言わなかった軽口である。邪魔者のいなくなった道を進み、二人は時計塔の前に辿り着いた。
空に細長く聳え立つ時計塔。金属で覆われ、銀灰色に鈍く輝いている。遥か天辺には時計の文字盤があるが、どれだけ目を凝らしてもぼやけていてよく見えなかった。壁にはアーチ形の黒い二枚扉があり、リング状のドアハンドルが二つ付いている。厳重に施錠されていそうな雰囲気だったが、ピーターが慣れた手付きでハンドルを引くと、いとも容易く扉は開かれた。夢子は彼の後に続いて、一歩中に入る。
時計塔の内部は、夢子が想像していたよりは普通だった。天辺まで吹き抜けになっており、壁を這うように階段が巡らされている。よく見ると階段の途中で、壁にいくつかの扉があった。それは小部屋か何かに繋がっているのかもしれない。
「もっと不思議な構造をしてると思ってた。重力がないとか。上に登ったら何かあるのかな?」
夢子は螺旋階段の手すりに触れる。これを登っていくのは相当骨が折れそうだ。
「階段をただ登っても、意味ないよ」
「どういうこと?」
「この建物には見せかけの表と、時間を管理している裏がある。表のパズルを解かないと裏には入れない。ほら、階段の途中にいくつか扉があるでしょ? あれを正しい順に開けて……捻ったり回したり色々していけば、バックグラウンドに入れる」
「パズル? それ、解けるの?」
「……やらない。真面目にやっていたら日が暮れるし、失敗したら初めからやり直しなんだよ」
彼の“やらない”が強がりか、単にやる気の無さから来ているのかは分からないが、つまり解けないということである。
「じゃあ、どうするの?」
「道案内をしてもらう」
誰に? と夢子が訊く前に、ピーターはどこからともなく何かを取り出した。それは通信機でも、地図でも、コンパスでもなく――。
(なんだ、それ)
それは見るからにチープな、ビーズのネックレスだった。キャンディカラーのカットビーズ、ハートや星形のパールビーズが連なり、プラスチック製のロケットが付いている。ロケットの表面には剥げかかった何かのキャラクターの絵。それは見覚えがありそうな、どこにでもありふれていそうな、子供向けアニメのキャラクターに見えた。どこからどう見ても、かなりレトロな“女児向けのおもちゃ”である。ピーターが持っていることに違和感しかない代物だった。
夢子の視線に何かを感じたのか、ピーターが咳払いをする。
「時計だよ」
「時計?」
ピーターがロケットを開けると、中は確かに時計になっていた。黄ばんだ文字盤の上ではちゃんと針が動いている。ピーターは時計に向かって語り掛けるように「開けてくれる?」と言った。
『はいはーい』
「えっ! 時間くん?」
『ああ……もう完全に正体がバレちゃってるね』
カラカラと笑う声は、残念そうにも楽しそうにも聞こえた。
『前に、僕は“依り代”を介してでしか、そっちの世界に接触できないって話したの、覚えてる? 僕の依り代はこの“白ウサギの懐中時計”なんだ』
「白ウサギの、懐中時計? どうしてこんなに可愛い時計なの?」
「言っておくけど、僕の趣味じゃないよ。元からそう決まってるだけだから」
おもちゃのキャラクター時計が、時間を司る時間くんの依り代。白ウサギの懐中時計。どういう経緯でそうなったのか、夢子には想像もつかない。……夢子はその時計をまじまじと見つめる。何故か、どこか懐かしく感じた。それはこの世界の物というより、自分の世界の物だと言われた方がしっくりくる見た目をしている。どういうことだろう?
『さあ、僕が道案内をしてあげるよ』
「時間くんには正しい道が分かるんだね」
『僕は、時計の事ならなんでも分かるのさ』
得意気なその声から、図書館での怒りは感じられず、夢子はほっとする。『まずはこの階段を――』と時間くんが説明し始めた時、夢子の耳を知った声が掠めた。
――「……だわ」
どこか遠くで聞こえる誰かの声。気の所為か風の所為かもしれないと思ったが、耳を澄ませばもう一度聞こえてくる。
――「……これじゃ……よ」
これは間違いなく、橙の声だ。どこかで橙の声がしている。どこから聞こえているのだろう? 時計塔の中ではない気がした。
夢子は開け放たれたままの扉に戻り、声の出所を探る。しかしどこにも橙の姿はない。突然外に出て辺りを見回し始めた夢子に、ピーターが怪訝半分、心配半分に声を掛けた。
「どうかした?」
「どうかしてるのかも……」
自分にしか聞こえていなさそうなその声に、夢子は自身の耳や頭を疑いつつ、直感を信じることにした。
声が聞こえてくるのは、時計塔の隣にある侯爵邸。橙がそこで自分を呼んでいる――そんな気がして、夢子はその大きな洋館に駆けて行くのだった。




