Act13.「レーズンバターパン」
目が覚めると午前8時。“夕方手前の夜”だった。
昨晩0時にまたあの“時間が戻る独特な感覚”があったから、今日も16月7日なのだろう。
夢子はベッドから起き上がり、窓を開けて夜気を吸い込んだ。この世界での、夜に寝て夜に起きる習慣に、体はすっかり馴染んでいる。朝日を浴びると生体リズムが整うなどとはよく聞くが、太陽より月明かりの方が体に優しい気がした。
夢子は軽くストレッチをして、洗面所に行き顔を洗い、歯ブラシを手に取ろうとしたところで……違和感に手を止める。その歯ブラシは部屋に用意されていたアメニティで、昨晩も使用した筈だったが、今手に取ったものはまだ未開封の新品である。眠っている間に誰かが新しいものに変えたのだろうか? 否、きっと違う……昨日が無かった事としてリセットされているのだ。
もしかして、とピーターから預かった巾着を開けてみると、やはり昨日の屋台で使った金も減っていなかった。物は新しいまま、金も減らないというのは、都合が良いかもしれない。サイドテーブルに置いていた髪飾りが無くなっていることは悲しいが……。
(昨日の屋台で食べ過ぎちゃった分も、リセットされてるといいんだけどなあ)
夢子はどことなく重い気のする腹をさすり、そんな呑気なことを考えた。
しかし身支度をしながら、よくよく考えを巡らせていると、不都合な点にも思い当たる。そう、例えばこのホテルの契約だ。ピーターが何時にこの部屋を取ったのかは分からないが、リセットされた瞬間に取り続けでもしないかぎり、未契約の時間がある筈なのだ。
(今のわたし、もしかして無断宿泊状態?)
夢子はいつ追い出されてもいいように、少ない全ての荷物を持ち、恐る恐る一階に下りる。だが受付に立っている男は特に不審がる様子もなく「おはようございます、行ってらっしゃいませ」と爽やかに言うだけだった。
「……おはようございます。あの、ちょっと確認したいんですけど」
「いかがいたしましたか?」
「えっと……わたし、ちゃんと宿泊手続き出来てますか? ここに来た時は疲れていたので、あまり覚えていなくて」
夢子がルームキーを片手に尋ねると、男は手元の宿泊台帳らしき冊子に目を落とす。
「お名前を頂戴しても?」
「……夢子です」
夢子はそう答えた後で、直接手続きをしたピーターの名前を答えた方が良かったかもしれない、と思った。だが男はにこやかに頷く。
「ええ、問題ございません。ちゃんと夢子様のお名前でお部屋を取られていますね。チェックインも“昨日”お済みです」
「昨日?」
「はい。……そうですね……ふむ」
男は自分で言いながら腑に落ちない点があるのか、台帳を見つめて首を傾げていた。
この街にいなかった”昨日”、チェックインなど出来る筈がない。ピーターはどういう手を使ったのだろう?
気にはなるが……とりあえず、助かった。これ以上男に不思議がられてボロが出てしまうのは避けたい。夢子は「そうですか、そうですよね! 有難うございます」と逃げるようにその場を後にした。
夜明け前の街はまだ静かで、開店前の店が多く、道には屋台もない。八百屋とパン屋だけが開いており、朝食の食材を求める人々が出入りしていた。夢子は焼き立てのパンに惹かれたが、昨晩食べ過ぎた自分への戒めとして、一杯のコーヒーだけを買って広場のベンチに腰かける。
熱々のコーヒーは苦いが、美味しい。香ばしい香りを嗅いでいると、クラシック音楽を聞いているような、自分が上質なものになったような気分になる。しかし本当に美味しいと感じて飲んでいるのかは分からない。だって苦いのだ。世界で初めてコーヒーを作った人は、何をもってこれを完成としたのだろう。
でも、まあ、やっぱり美味しい。
立ち上る香りを追って顔を上げると、真っ黒な空に橙色が混ざり始めていた。
*
夕方になると、街は少しずつ賑やかになり始める。夢子がベンチから立ち上がろうとすると同時に、隣に誰かがどっしり座った。深く帽子をかぶった恰幅のいい男だ。男はよれよれの上着のポケットから煙草のケースとライターを取り出すと、手慣れた様子で火をつける。それから煙草を美味そうにくわえ、小脇に挟んでいた新聞紙をバサッと広げた。その一連の流れは決まった演技みたいに、熟練したものに見える。
夢子は怪しまれない程度に、男の手にある新聞をちらっと見た。新聞の紙面には大きな文字で「16月8日時計塔設立祭」と見出しがある。端の方には「発行日16月7日」と印字もあった。
夢子は、この男を昨日も見かけていたことに気付く。時間帯は今よりずっと遅かった筈だが、こんなに早くから居座っていたのだろうか? などと考えていると、思っている以上におもむろな視線になってしまっていたのか、男が訝しげな顔で「なんだね」と新聞から顔を上げた。
その表情は思ったより柔らかい。少なくとも昨日、人々から感じた視線とは違う。
「すみません、お祭りの記事がちょっと気になって。……“いよいよ”ですね?」
「ああ、遂に”明日”だな。君は観光かね? 存分に楽しんでいきなさい」
やはり、今日も祭りの前日の、16月7日で間違いないようだ。
夢子は軽くお辞儀してその場を離れる。とりあえず街の様子を見て回り、何か昨日と違う点がないか確認してみよう。それから、今日こそ遅くならない内に時計塔に行ってみよう。街の誰かに時計塔の話を聞いてみるのもいいかもしれない。
徐々に人が増えてきた街。夢子は探索を開始する。
キルクルスの街は、昨日よりずっと快適だった。それは、あの異様な視線が無いからだ。夢子はあれを、“オリジナルの7日”に存在しない余所者に対する驚きや警戒の現れだと考えている。だから昨日の夜は薄れていたのだ。しかし、リセットされた今日もそれが引き継がれているというのは不思議である。今日の彼らにとっては、まだ自分は初見の筈だからだ。
もしかすると……人々の潜在意識下に、昨日の記憶が残っているのかもしれない。
街を巡って、夢子はまた最初の広場まで戻ってくる。ベンチにはまだ新聞男が座っていた。まるでオブジェ……RPGのノンプレイヤーキャラクターのように、そこに配置されている。一度言葉を交わしただけに、また顔を合わせるのが気まずく、夢子はそのベンチの主に見つからないようにそこを避けた。
そろそろ軽く食事でも取ろうと、コーヒーを買ったパン屋で、今度はパンを買って店を出た時……
ガシャン! と、近くで何かが割れる音がして、夢子はビクリとする。音に続いて「すみません!」と謝罪する女の声が聞こえてきた。
夢子が音のした方を見ると、道横にある飲食店のテラスで、店員が客に深々と頭を下げていた。彼女の足元には割れた食器と食事がぶちまけられている。客は横暴な態度で悪態をついていた。――これも、昨日と全く同じ光景だ。
パン屋の女主人が様子を見に出てきて、気の毒そうな溜息を吐く。
「ありゃあ……マーマレードちゃん、大変そうだねぇ。忙しい日だっていうのに、給仕のバイトさんが熱でお休みらしいのよ」
私も自分の店がなけりゃ、手伝ってやるんだけどねぇ。と、女はその気もなさそうな声で、聞いてもいない言い訳をした。
マーマレードというのは、あそこで客に責められている店員の名前らしい。甘酸っぱくほろ苦そうな名前だな……と、夢子はその人物を眺めた。
適当に束ねられた長い白銀の髪はほつれてボサボサで、一見老女に見えたが、客に謝る声は青く高い。振り子時計みたいに行ったり来たりお辞儀を繰り返す体は、12時の方向を指す時はすらりと伸びていて、やはり若い女のようだ。しかしその垂れた髪から覗く疲れ切った横顔が、全身が醸し出す哀愁が、彼女を老けた印象にしている。
夢子もパン屋の主人同様、他人事の顔で「大変そうですね」と同情した。
夢子は折角の美味しそうなパン(胡桃が練りこまれたカリカリのフランスパンに、硬めのレーズンクリームが挟まれた何とも美味しそうなパン)を、そんな騒ぎを前に食べるのはどうかと思い、紙袋に入れたままそこを離れる。どこか心休まる場所を求めて歩いていると、近くで「あっ」と幼い声が上がった。
何の拍子か、少年の手から風船の紐が離れていってしまったのだ。黄色い風船は電線をかいくぐって空にのぼっていき、小さく、小さく、赤い空に溶けていく。
少年は泣きながらそれを見ていたが、やがて母親に手を引かれそこを離れていった。
(そういえば、こんなこともあったな)
同じことを一つ一つなぞっていくのは、得体の知れない気持ち悪さと、ある種の気持ち良さがあった。パズルのピースがはまっていく感覚だ。
夢子はこの後、何が起きたかを思い出そうとした。が、思い出すよりも先にその出来事は起きてしまう。
バサバサという音がしてそちらに目を向けると、本の山を抱えた青年が、何冊かを地面に落としてしまっていた。両手が塞がっていて拾うことができないのか、困り顔を浮かべている。夢子は見て見ぬふりもどうかと思い、それを拾うことにした。
「大丈夫ですか? 運ぶの手伝いましょうか?」
夢子は昨日の自分がこの状況で何と言ったのかを覚えていなかったが、その言葉を口にするのは初めてではない気がした。青年は本の向こう側から覗くように夢子を見て、恥ずかしそうな笑顔を浮かべる。
「ありがとう、でも大丈夫。すぐそこだから。僕の鞄に入れておいてもらえるかな?」
そう言われて、夢子は彼の大きなショルダーバッグに数冊の本を入れながら、これからの展開を思い返す。確か彼はこの大量の本を、これから図書館に返しに行くところだった筈だ。そして話の流れで、街を案内しようかと誘われる。
昨日は咄嗟に断ってしまったが、住民に話を聞けば何か分かることがあるかもしれない。何より一人ぼっちのこの状況に不安を感じていた夢子は、誰かと話がしたかった。
夢子は青年の二度目の誘いを受け、図書館で用事を終えた彼と、先程歩き回った街にまた繰り出す。亜麻色の髪の、柔和な雰囲気を纏ったその青年は、名をユリリオというらしい。歳は二十歳。花屋を営んでいるという彼からは、微かに花の香りがした。
ユリリオは夢子を連れて、色々な場所を案内してくれた。本好きなだけあって論理立った説明はとても分かりやすい。夢子は課外授業を受けている気分だった。
「夢子ちゃん、あれがこの街で一番大きな工場棟だよ」
ユリリオが、遥か上まで聳え立つ鋼色の棟を指差す。夢子は首が痛くなるようなそれを見上げて「はあ」と感嘆の声を上げた。
「この街は、どうしてこんなに工場が多いんですか?」
「周囲に炭鉱や湖があって、工業が発展しやすい環境だったこともあるけど……」
ユリリオはそこまで言って、小声になる。
「セブンス領の中でも、キルクルスの街は国境に近いからね。森の向こうのリアス教国から、人や技術が流れてくるんだ」
「……でも、関係は良くないですよね?」
「そうなんだけどね。教国には厳しい戒律があって、耐えられなくなった人達がこのセブンス領に逃げてくるんだよ。教国には優れた技術者が多いから、この街は不法移民達を暗黙に受け入れてきた。そうして移住してきた人達が技術を伝えて、キルクルスの街は工場街として発展してきたんだ」
ユリリオの説明を聞きながら、夢子は鈍色の街並みを眺めた。剥き出しになった金属の骨組み、ダクトの血管。一つの大きな生命体のように見えるそれは、小さく細かい部品が集まって出来ているのだろう。この街も、そのように作られてきたのだろう。
「ここの工場はね、侯爵様が工場長を務めていらっしゃるんだよ。領主としてのお仕事もあるのに、本当に凄いよね!」
「え? 侯爵様が?」
侯爵とは橙の父で、あの怪しいアドルフのことか。夢子は驚きはしたが、侯爵よりも工場長の方がよほどしっくりきた。
「そうそう。それに、侯爵様の奥様も天才技術者なんだ! あまり人前に姿をお見せにならないけど、綺麗な人だって噂だよ。ご夫婦で本当にかっこいいよね」
侯爵の奥方ということは、橙の母親ということになる。健在ならその人は今どこにいるのだろうか?
夢子はユリリオがどこまで事情を知っているか分からず「お二人はいつもどこにいらっしゃるの?」と尋ねるが、彼は「侯爵邸じゃないかな」と当然のように答えた。侯爵邸で発生しているバグについて、彼は何も知らないのだ。
「ちなみに、侯爵様には“工爵”っていう愛称があるんだよ。工場の工でね」
「へえ~……それ、聞いただけじゃ区別付きませんね」
「はは、そうだね!」
ユリリオは相当アドルフを慕っているらしい。街を案内する中でも、特に侯爵と工場について熱弁を振るっていた。
彼は工業に興味があるという。花屋という職業は、ただ生まれ持ったロールネームに従っているだけなのかもしれない。夢子は自由の無いこの世界を悲しく思った。
「機械って本当にいいよね。ロマンだ。僕は最近、機械式の植物が作れないか研究しているんだよ!」
……同情なんて筋違いで烏滸がましかったみたいだ。彼は彼らしく、楽しく生きているらしい。
それにしても、機械式の植物とはどんなものだろう? その話は、ランチを兼ねて聞くことにした。夢子とユリリオは手頃なカフェで食事をしながら、暫くお喋りを楽しむ。
「夢子ちゃんは観光で来てるんだよね? いつ帰るの?」
「うーん。まだ決めてないです」
「そう! ……あの、明日のお祭りも、良かったら一緒に行かない?」
前のめりで誘ってくるユリリオから、夢子は分かりやすい好意を感じ取った。彼は善人のようだし、楽しい時間を過ごせたのは事実だが、少し迂闊だったかもしれない。今更そう分類することに違和感はあるが、始まりは所謂ナンパだったのだから。
「明日は先約があって」
それは嘘ではなかった。例えこの時間軸では白紙になっていようとも、確かに橙と約束をしたのだから。ユリリオは、残念そうな顔で笑った。
また会いたいと言ってくれたユリリオに曖昧な笑みを返して、夢子は彼と別れる。気付けば夕方が終わりに近づいていた。今日も明るい内には時計塔に辿り着けそうにない。また明日にしよう。
だが、足は自然とその方向に向かい始める。時計塔とは別に、この時間になったら行かなければならない場所があるのだ。街を出て林に入ろうとしたところで、夢子は見知った人物に遭遇する。昨日ぶりのピーターだ。彼は夢子と入れ違うように、林から街の方に来たようだった。嫌な顔をされるだろうと身構える夢子だが、彼は疲れた顔で、気力無さげに夢子をじとっと見て、呟くように尋ねる。
「どこ行くの」
「えっと……ちょっと橙に会いに」
夢子が答えると、ピーターはようやく嫌な顔をした。
「君に何かあっても、僕はもう知らないよ」
「分かってるよ」
夢子は不貞腐れ、彼から顔を背けたが……可愛げのない自分に少し反省もした。色々と助けてもらっている身なのだ。
「安心して。危ないことはしないし、これからの展開も二度目だから」
「ああ、そう」
ピーターは興味なさげにそう言うと、その場を去ろうとする。夢子は「あっ」と咄嗟に声を上げて、そのどこかよれた背中を呼び止めた。
「なに」
「これ、あげる」
夢子はすっかり食べ損ねてしまっていたパンの入った紙袋を、勢いよく彼に押し付ける。フランスパンだし水気の少ないクリームだから、悪くはなっていない筈だ。これから橙と祭りに行くなら食べる機会は無いだろうし、何より、元気のない彼には一刻も早く糖分摂取が必要な気がした。
「疲れている時には、甘いものが必要だよ!」
ピーターがうっかり受け取ったのを見届け、夢子は言い逃げし、林に駆けて行った。
「なんなんだ……あの子」
ピーターは呆気に取られながら、小さくなっていく背中を見ていた。




