Act0.「終焉のプロローグ」
本編開始前の、不思議の国のお話。
これは誰かのエピローグ。
いつか夢見た不思議の国の、あとのあとの後日譚。
手垢にまみれた結末の先、一人歩きを始める物語。
これは誰かのプロローグ。
アリスの居ない、ワンダーランド。
Act0.「終焉のプロローグ」
深紅の夕暮れ時。謁見の間には、窓から射しこむ赤い闇が立ち込めていた。
磨かれた大理石の床。中央には一直線に続くビロードの絨毯。その先、数段の雛壇の上に構えるは、絢爛豪華な金の玉座。
玉座の背後には細長い窓が連なり、そこに座する王の姿を逆光で隠していた。焦がされた黒い影は身じろぎし、深い深い溜息を吐く。溜息は遥か高い丸天井に跳ね返り、また彼自身に圧し掛かった。
もし今が夜で、その場に明かりが灯されたなら、彼の顔を見たものは哀れに思っただろう。もしくは魅了されただろう。
結びがほどけた濡羽色の長髪。青白い肌と、刻まれた隈。伏していれば病人か死人と見間違いかねないほど生気がない、壮年の男。しかし中性的で彫りの深い顔立ちには、それさえも妖しげな艶かしさとして映えていた。
王の物憂げな溜息が苛々したものに変わる。その時、扉の傍に立つ兵士が槍の石突を一度だけ床に打ち鳴らし、王の待ち人の到着を告げた。開かれた扉の向こうから現れた男は、重苦しい場の空気など物ともせず、畏まらず慎ましからず堂々と、王の前に進み出る。
男は背が高く、歩くだけでどことなく迫力がある。長い手足、すっと通った鼻筋に添えられた金縁のモノクル。ルビーの瞳にかかるよう力なく降りたまぶたは、気怠げで感情が読み取れない。混じり気のない白い癖毛のてっぺんには、二本の長い耳。それはヒトではないウサギの耳だったが、この場所には今更、それに驚く者はいない。
あっさりと挨拶をするウサギ男に、王は苦い顔で口を開いた。
「……五分の遅刻だ。罰するべきはお前の時計か、それともお前自身か? 流石の私も待ちくたびれてしまったぞ、ピーター」
「申し訳ございません。調査結果の取りまとめに時間がかかりまして」
ピーターと呼ばれた男は表面上は謝罪しながらも、内心では“何が流石だ”と悪態をつく。まるで気が長いように言っているが、この王は短気なのだ。
「言い訳は不要だ。……早速、我が優秀な補佐官殿の報告を聞こうではないか」
王に促され、ピーターその瞳に少しばかり真剣な色を帯びさせると、声のトーンを落とす。
「調査の結果――既に大陸の三割が“虚無化”の被害に遭っています。直近ではグリムの森から北東の一帯で発生し、住人の避難は間に合わず被害は甚大。詳細は後ほど、報告書をご確認ください」
“虚無化”とは、一年ほど前から観測され始めた現象で、暴力的な災害である。どこからともなく湧き出た化け物が、人を襲い大地を荒らすのだ。害された人々、蝕まれた地は“消滅”し、誰の記憶からも消えていく。残された記録や間接的な痕跡から元の位置、広さ、規模を概算するに、既に大陸の三割もが消滅していた。
ピーターは王の命により、虚無化への対策の為に発足された対策本部と共に、三月にわたり現地調査を行っていたのだ。
「これまでの予測通り、虚無化の発祥は一年ほど前。リュウグウ岬近辺が発祥源で間違いないでしょう。また虚無化の進行方向は一定ではなく、発生場所も東西南北に点在しています」
ピーターは説明しながら、手を隠すように背中の後ろに持っていくと、また前に出す。するとその手の中には奇術の如く、筒状に丸まった大きな紙が出現していた。ピーターは王の近くまで歩み寄ると、その紙――地図を直接手渡す。
「これは虚無化の進行状況をまとめたものです」
王が地図を開くと、ピーターは紙面を指し示しながら、一つ一つの事実を端的に、一つ一つの見解を淡々と述べていった。報告が進むにつれ、王の表情は曇っていく。そこに描かれているのは王にとって、この世界の全ての命にとって死へのカウントダウンに他ならないからだ。
しかし自身もその渦中にありながら、ピーターはあっけらかんとしている。
「報告は以上です。今後の対策としては各地との情報連携を強化し、発生場所の予測と、軍の柔軟な配備を進めるべきでしょう。……ということで、僕は遠征で疲労困憊なので数日の休暇を申請しますね」
ふてぶてしくそう言ったピーターは、王の了承も得ずにその場を立ち去ろうとした。凝った肩を鳴らして、ポケットに手を突っ込み、颯爽と……
「いや、だめだ」
その背を王が呼び止める。
ピーターは意外そうに、振り返った。
王は人使いが荒いが、働きに見合った対価は惜しまない人物である。それどころではない程、何か面倒な事態になっているのだろう。既にかなり面倒な事態に違いないのだが、それ以上の何かがあったに違いない。
「お前には、早急に次の仕事にあたってもらわねばならない。今こうして顔を合わせている時間が惜しい程、事は急を要するのだ」
王の手で、地図がぐしゃりと潰される。(そして次の瞬間には、地図は空気に混じるように消えていった)
「……何があったんですか?」
ピーターの問いに王は一層表情を翳らせると、口を引き結び顔の前で両の指を組む。薄い唇の前で絡み合う長くしなやかな指は、言葉の糸を編んでいるようだった。言うことを選んでいるのか、勿体ぶっているのか、何も口にする気力がないのか。
王は顎先で兵士達に部屋を出るよう指示し、気配が遠ざかったのを確認するとようやく口を開く。
「半月前の定期予言会に、お前は居なかったな」
「ああ、月に一度の“グリフォンの定期予言会”ですね。それはもちろん、あなたの命で不在にしておりましたので」
この国では月に一度、神通力を持つグリフォンによる“予言会”が開かれる。グリフォンの予言は的中率九十%を超える“予報”であり、この国の意思決定において非常に重要なものだ。そのため予言会には、王や各省の大臣など限られた者のみが参加し、予言内容も重要機密として扱われた。先ほど王が兵士達を追い払ったのも、予言の話を聞かれないためである。
予言の内容は自然災害から流行り病、事件、事故と多岐に渡っているが、世の全ての事柄に対する網羅性はない。あくまでグリフォンがその時見えたものだけ、予言として降ろされた。またその予言の形も様々であり、時に詩であり絵であり歌であったため解読班が設けられているが、解釈が誤っている場合や複数に分かたれてしまった場合は、しばしば混乱を生んでいる。
「今回の予言はこうだ――
次なる満月の夜、胡蝶は夢から覚め、世界に終焉が訪れる。
美しき羽音が響く時、物語は白紙へ戻り
運命の糸は断ち切れ、世界は虚無に融けこむ。
その時、我らは美しき終幕を迎えるだろう
――と」
「……はあ。残念ながら、僕に詩を解するセンスはありません。それで解釈は?」
「解読班は、これを世界滅亡の予言だと考えている」
王は声を潜め“手ごろな宙から”文書を取り出すと、手招きした。ピーターは重い足取りで彼の元に戻り、その紙面に目をやる。
――予言の解釈では、夢から覚める胡蝶を“アリス”だと捉えていた。
“アリス”とは、この世界の者なら誰もが知る名前である。
この世界……不思議の国は、唯一の観測者によって成り立っていると考えられていた。その観測者が“アリス”と呼ばれる創造主だ。アリスはこの国の根幹として、概念的に存在しているが、近年では個としての人格を持つ生物である可能性が高いとされている。
現在問題になっている虚無化も、アリスの意志によるものとされ、アリスを神と崇め祀る人々は受け入れるべき運命だと主張していた。そして王は、その人々ともアリスとも対立する立場である。
今回の予言の解釈では、不思議の国をアリスが見ている夢とし、虚無化を夢から目覚める過程としていた。そして次の満月の夜に、世界は終わる。書にはたったそれだけの結論に至るまでの、様々な考察が長々と綴られていた。
「分かっただろう。一刻の猶予もないことが」
この世界は直に、アリスによって、跡形も無く消される。
「まあ……この予言と解釈が、合っているなら」
ピーターは特に驚きもしない。
彼をはじめ、この世界の人々は皆、本能的に分かっているのだ。不思議の国で起こる全ての出来事は、アリスが紡ぐ物語の一遍であるということを。そして、それに抗うことがいかに愚かであるかということを。
それでも終焉の具体的な期限を知ってしまったことで、ピーターの胸には重く冷たい鉛が落とされた。
「何が夢だ、終幕だ……神などと思い上がっている、傲慢な死神め」
王の目は怒りで煮えている。死神も神では? という軽口を、ピーターは飲みこんだ。
ピーターは、この解釈をした人々の安否が気になった。よくもまあ、アリス嫌いで有名な王に対してこの解釈を提言できたものである。
「各地で起きている虚無化も、我々を弄んでいるに違いない! 予言とて予言を介した宣戦布告だ。ああ、創造主が神など実に下らない! 世界に滅びをもたらす悪を崇め奉る者どもの気が知れん!」
「はあ」
頭に血を上らせた王だったが、ピーターが変わらず涼しい顔をしていることで憤りの矛先を見失い、フンと鼻息荒く椅子に座り直した。
「……話を戻す。つまり解釈通りなら、この世界は近い内に消滅するということだ」
「そうなりますね」
「……お前は本当にブレないな。いつでも平然と淡々としている。事の重大さが分かっていない筈はあるまいに、自分事だと捉えていないのか。……だがお前とて、何も思うところがない、という訳ではないだろう?」
責めるにしてはどこか生温さを帯びた問いかけに、ピーターは不快感を覚える。見透かされることも、踏み込まれることも、彼は嫌いだった。だから逃れる為に、王が敢えて気を立てるようなことを言う。
「僕は、面倒なことは嫌いなんですよ。運命があるなら身を任せる方が楽だ」
「運命、だと?」
その言葉に王はガンと肘掛を殴りつけて立ち上がる。
「貴様まで奴が神などという、馬鹿馬鹿しい思想を植えつけられたか!」
「落ち着いてください。糖分が足りてないんじゃないですか?」
「甘党のお前と一緒にするな! 私はもう落ち着いてなどいられないのだ! 日に日に壊れていく、この皹だらけの国を、私はもう見ていたくは無い!」
王は呻きながら頭を掻き毟る。そんな彼に、その玉座から飛び降りて、全てが終わるその時まで自由気ままに楽しく生きていくことを勧めるのは不可能だろう。
「それで僕にどうしろと? 次の仕事は何ですか?」
そうだった、そうだったと、王は上がった頭の熱を冷ますように額に手を宛がい深呼吸する。それから視界を邪魔する髪を指でかき上げて、沈んだ冷たい闇色の瞳を細めると、静かに厳格に、よく通る声で命じた。
「あの者を……我等の国を滅ぼそうとしている不届き者を――アリスを捕らえよ!」
(……は?)
ピーターはあからさまに顔を顰める。
アリスの正体も、どこにいるかも、接触可能な存在であるかも、何も分からないというのに。捕まえるとは、無理難題だ。
「どうして僕なんですか?」
「白ウサギは“アリスを連れてくる”役目に相応しい。それだけだ。引き受けてくれるだろう?」
「……それが陛下の命なら」
「面倒くさがりのお前にしては、やけに素直だな」
「あなたに逆らったことなんて、一度でもありましたか?」
何よりも面倒で最悪なパターンは、王の命に従うことではない。王の命に逆らい、反逆者として追放され、実力行使に回った彼を相手にすることなのだ。
話はそれだけかと、ピーターは王に一礼して踵を返し、その場を去ろうとする。しかし数歩も行かないところで再び王に呼び止められ、彼はうんざりと首だけを後ろに回した。
「まだ、何か?」
「いや、念押しだ。くれぐれも時間が無いということを忘れるな。期日は次の満月までだ。手段は問わない。必ず、それまでにアリスを捕らえよ」
「……努力します」
「期待しているぞ」
王の威圧的な視線に、ピーターは神妙に頷く。
謁見の間を後にするその足取りは、入って来た時とは違い重々しいものだった。のらりくらりとしているが、根は真面目な男である。彼なりに事の重大さを受け止めたのだろう、と王は安堵した。
その背中を見届けてから、王はこれからの事を思い、一際大きな溜息をつく。……ピーターだけに任せきりにする気はない。最大限の力を尽くして、この国を護ること。それが王としての自分の責任なのだ――と、彼は決意を固めるように拳を握り締めた。
が、つい先程まで向かい合っていた男の声が扉の向こうから聞こえてくるのを聞いて、脱力せずにはいられなかった。
「あ、そこの君。コーヒーを一杯くれる? あとキャロットケーキとアップルパイもね」




