53.逃げられない
戦火の上がる中、ようやく逃げ出せたと聖女であった女は座り込んだ。夫にされた男は民に引きずられて磔とされた。ザマァみろ、と薄く笑う。
魔王を倒すという重大な任務をこなし、それが終わった後は国の仕事の手伝いもした。権力さえ得られれば、自分を便利使いしてきた強欲なジジイを排除できると信じていた。
その考えは甘かった。権力闘争をしていた者たちは、自分達の危機を悟って結託した。共通の敵がいれば仲の悪い人間も共に戦うことは少なくない話だ。美しい水よりも、今の黄金色の泥のほうが彼らにとっては温かく、甘かった。
そして、彼女は負けたのだ。
だから結婚を機に、などと言って聖女の称号を奪われて好きでもない男の元に嫁ぐことになった。売られるように。逃げるように。
美しくも、逞しくもない男との夫婦生活は地獄のようだった。これならば斥候としてついてきた男の方がよほど顔が良かった。アルケイドの正式な身分も知らぬまま、そんなことを思う。
彼女はいつまでも現実を受け入れられはしなかった。アルケイドの身分を知っていれば彼女は旅の最中で彼の興味関心をひこうと必死になっただろう。アルケイドは元聖女に欠けらも興味がなかったし、面倒だと思っていた。だから勇者たちにも口止めしていた。旅を円滑に進めるためとでもいえば、彼らは苦笑しながら頷いた。
夫を受け入れられなかったというのに、その財だけは持って逃亡した元聖女は、肩書きと共に能力も落ちていった。かつてはその優しさが神の目に触れた女は、その醜悪さから力をとりあげられた。だから、その身に纏う黒いものに気付きはしなかった。
「とっとと、こんな国離れて……」
「そう、離れて?」
可愛らしいが、どこかねっとりとした絡みつくような声が耳元で聞こえて咄嗟に後ずさった。艶やかな赤茶の髪に、暗闇に輝く緑の瞳。にたりと笑った口元に見える八重歯が愛らしい。頭には同じく赤茶の耳があった。
「嫌やわぁ、なんで逃げてしまうの?いけずやわぁ」
ぴこぴこと不機嫌そうに耳が動く、尻尾も苛立った猫のようだった。
今の自分に獣人から逃げ切ることができるのかと元聖女は必死に考えるけれど、良い考えは浮かばない。
「なぁ、ロディアス港の大虐殺は覚えとる?」
おっとりとした声のはずなのに、なぜか威圧感を感じる。
ロディアス港という名を聞いて、元聖女は顔を青くした。
──それは、魔導師が彼女たちを必死に止めた戦いだった。
「赤髪の魔導師様はお元気?あの子が必死にたくさんの平民を逃がしてくれたから、死者はあれでも少なかったんよ」
代わりに、と低い声が彼女の口から発せられ、元聖女は短く悲鳴を上げて座り込んだ。
「うちの恋人は、あの港を守っとった兵士でなぁ?あんたらに殺されてしもうたわ」
コルツ王国からの情報を知ったクレアは、必死にロディアス港の責任者と連絡を取った。はじめは勇者一行の仲間だと疑っていた責任者も、クレアの伝えてくる悍ましい計画に、半信半疑ながらも対策をとった。けれど、時間も物資も足りず、聖剣の力による大虐殺は起こってしまった。
まだ助かるかもしれない人間もいた。けれど、女子供は先に脱出させられており、残ったものの多くは男だった。王の望みは美しいと評判の踊り子だった。手に入らなかったのに、敵の治療などできないと元聖女は鼻で笑った。レオニール王国の端にあった港は占拠され、あらゆる奴隷の市としての一面も持つようになってしまった。
「楽しかった?うちらの故郷を焼き尽くすんは。うちらの家族を奪うんは。なぁ、楽しかった?」
女から少しでも離れようと、元聖女は這いつくばって逃げようとする。けれど、そこに槍が思い切り刺さった。見下ろすのは種族問わずかつての大虐殺の被害者だ。
耳元で、可憐な声が楽しげに響いた気がした。
「不幸になれ、不幸になれ。わたしたちよりも不幸になぁれ!
奪った者たちの分まであなた方に災いあれ!!」
歌うように響いた声に発狂するように元聖女は耳を塞ぐ。
けれど、その声は止まることはない。
遠く離れた竜の国でエルフの少女は、恍惚とした表情で温室の薔薇に水をやっていた。それは、炎のように赤い薔薇だった。




