ポンコツ素材からの医大生の作り方
0.レポート提出先ってどこ
読者のみなさまへ
この度はこの本を手に取ってくださり、誠にありがとうございます。ここまでかしこまって文を書くのは初めてで、拙いところも多々あると思いますが、二十一歳の等身大の自分を表現していければと思います。ぜひ最後までご覧くださいませ。なんて言いながらあまりかしこまってないです。肩の力は完全に抜いてクラゲになったつもりで読んでくだされば幸いです。
この本を書くにあたって、みなさまにお願いしたいことがあります。この本は法的には「大人」と呼ばれるようにはなったものの、まだまだ未熟で社会のことなんて右も左も分からない、そんなちっぽけでひ弱な人間が書いたものです。この本の中に書かれていることには世間様から見て正解であることもあるかもしれませんし、不正解であることもあるかもしれません。そんなこの本をどうかレポートのようなものとして扱っていただけないでしょうか。もちろんのことながら、私が学生、読者のみなさまが先生です。「ここ間違っているよ!」と思ったところにはそっと赤線を引いて添削してください。ここは良くできているじゃないかと思ったところは褒めてくだされば幸いです。
もしみなさまが人生の中に取り入れてみたいと思ってくださるようなことがこの本の中に書かれていたとしても、それを全て鵜呑みにしたりはせず、熟考してそれでもいいと思っていただけたのなら取り入れてみていただけませんか。また、ご自身にとって一番よい形にリメイクして取り入れてみてくださいませんか。
ここで一つ、お断りしておきたいことがあります。自分の中で、医学部に合格できたということは私にとって一つの成功体験であると捉えてはいますが、自分自身や周りの方々について考えさせられた良い機会であるもの、自信に繋がるもの、将来への希望であって、決して驕り高ぶるためのものではないと考えています。自分にとって医学部合格が目標としながらも高い壁であっただけであって、人それぞれ目標があり、その全てが光り輝くものだと思っています。実際、私が通っている大学よりも合格が難しいと言われている大学は星の数ほどあります。今回この本でみなさまにお伝えしたいのは、人間って頑張れば自分が思っているよりも良い結果を出せることもあるんだよ、自分のことを卑下しなくてもいいんだよという話であって、自慢話でも医学部合格へのノウハウでもありません。もしサクセスストーリーだとかノウハウを知りたいと思ってこの本を手に取ってくださった方がいらっしゃったのであれば、ご期待に添えず申し訳ありませんが別の本をお読みになることをおすすめします。「自分ってダメな人間かもしれない……」そう思われている方こそ、このレポートの提出先なのです。
1.人生の復習と考察
ヘビーミルクドリンカー
年の瀬の迫るある冬の寒い日、周りの大人が思っていたよりもひょろっとした女の子が予定日を数日超過して生まれました。頭の横幅とお腹まわりの大きさと太ももの骨の長さから生まれる前の赤ちゃんの体重は推定されるそうなのですが、私は頭と膝上が大きかったらしくて、ヘビー級ベビー(そこで韻を踏むな自分!)が生まれるのでは?と思われていたそうです。ひょろひょろだったせいなのか根気がなかったせいなのかわかりませんが、母が母乳をあげようとしても「いや!」と言わんばかりに首を横に振り、哺乳瓶のミルクばかり飲んでいたそうです。寒い冬の夜にミルクを作りにキッチンまで行ってくれていた両親や祖母には感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。
ミルクばかり飲んでいた私は、一歳になるころにはちぎりパンのようなムチムチした腕の持ち主に成長しました。一歳と少しで歩けるようになりました。とにかくよく喋るものの耳が追いつけていなかったのか、ママのことをタッタと言い間違え、そのくせパパは言えたので母は悲しがっていました。
ご飯を食べられるようになってからも、ミルクがないとぐずって寝なかったので、太りすぎないように薄めたミルクを与えられていたそうです。本当に私の親って大変ですね。申し訳なさすぎる。
将来何かしらかで絶対英語を使うだろうから、そのときに苦手意識を持たずに英語に親しめる子になってほしいという両親の願いから、二歳で英語の自宅学習のセットを与えてもらい、三歳で英会話教室に入れてもらいました。その英会話教室では塗り絵をするのですが、手が不器用で面倒くさいことが大っ嫌いな私は、その時間に寝っ転がったり、泣きながら塗り絵の宿題をしたりしてよく怒られていました。いまだに塗り絵は嫌いです。
幼稚園に入ってからは、とにかく問題児でした。そのころの話を母から聞くたびに、自分みたいな子が生まれませんようにと願うほどです。当時初めていわゆる「クソガキ」と呼ばれる人種と出会い、あの子がやっているのだから自分も真似してもよくない?みたいなノリだったのだろうとは思いますが、両親や先生方にはとても苦労をかけてしまったと思います。本当にごめんなさい。
空っぽのランドセル
そんなクソガキの私は地元の小学校に進みました。お受験とかはしてないし当時の私はたぶんお受験したところで落ちていたと思います。小学校一年生のころ、友達三人と休み時間にダンゴムシを捕まえにいきました。大量のダンゴムシを捕獲したあと、小学校低学年の子が持っている四角い筆箱の鉛筆削りのスペースにダンゴムシたちを入れていました。家に帰ったらみんなお亡くなりになっていました。動かなくなった十四本の足をもつ謎の物体のお腹はとても気持ち悪くて、そこからダンゴムシを触れなくなりました。私なんか二本の足で歩いていても足がもつれることが多いのに、十四本も足があってよく歩けるなぁ、てかそんな足いらんやろ!(ダンゴムシ各位、すみません)
ランドセルに荷物全く詰めずに帰って母に怒られたこともありました。祖母にそのことを伝えると
「おばあちゃんはランドセルごと忘れて帰ったことあるよ」
と言われました。DNA恐るべし。(ランドセルに入れるはすだったものは祖父と祖母に学校まで車で連れて行ってもらいその日のうちに回収しました)
その調子のまま小学校六年生になりました。頭の良さそうな人たちに「お前受験せんの?」って聞かれるくらいには勉強もできていたのだと思います。でも私は小学生のうちから塾なんて行きたくなかったので受験なんてしませんでした。小学生のうちから受験勉強とかしようって思える人って本当にすごいと思います。尊敬です。私には到底無理です。
ズボン脱がし戦争
そんな感じで、中学校も地元の学校に進学しました。塾にも行かない受験もしないで自分がどのくらい勉強できるかなんて知らなかったので、とりあえず目標は高くということで最初の期末テストで学年三位以内に入ることを目標にして、勉強机の中に目標を書いた紙を入れました。これで全然いい結果を出せなかったら恥ずかしいと思ったので、親には目標を伝えませんでした。
先生の机の上にある渡される前の成績表の学年最高点の欄を見た友達から、「全教科で何点やった?」と聞かれました。点数を言った瞬間に「学年一位で!先生の机のとこ来て!」と言われて例の紙を見ると確かにそうでした。それに味をしめてワークガチ勢になりました。定期テストはワークさえやれば点が取れるので三年間一位でした。一方、実力テストは一位を取り続けることはできませんでした。ワークって神。そして自分の実力無さすぎ。
部活は女子だけしかいない音楽系の部活に入りました。女子だけしかいないと恋バナしか飛び交わない……そんなはずもなく、下ネタが飛び交っていました。パート練習で一人が先輩から指導を受けている間に他はズボンの脱がせ合いをしたり、肺活量を鍛えるトレーニングをしている間に隣の子が私のお尻を触ってきたり…きっと男子部より重症です。
さすがに高校は受験しないとどこにも行けないので受験しました。受験当日、もともと苦手だった数学で爆死しました。手応え悪すぎて真後ろの席の同じ中学校の男の子に「数学終わった」って思わずグチったけどその人は生粋の理系男子だったので反応が微妙で心から詰みました。そういえば全県模試で数学偏差値八十取ったおばけくんでした。グチる人間違えました人選ミスですお出口右側です。この人選ミスのせいで合格発表まで本気で不安でした。(おばけくんには何の罪もないです)同じ高校の人で自分より数学の点数悪い人知りません。私と同じ高校だと思った方の中で数学の点数半分くらいだったって方いらっしゃいましたらお声かけください、勝負だ!(時効です)
ビニールテープでバレー
数学爆死につき不安だった高校受験ですが、文系教科でリカバーしてなんとか合格しました。ですが相変わらず数学が苦手で、高校一年生のころの担任の先生からは「学年部の先生みんな文系行けって言っているぞ。理系行きたいなら結果出せ」と言われました。
当時文系職で興味を持てるのが金融系しかなくて、両親ともに医療系で良くも悪くもまともに知っている職種が医療系しかなかった私は、どうしても理系に行きたいと思っていました。そんな私は進路選択に関わる進研模試を国語と英語はノー勉で数学だけ青チャートでたくさん問題演習して受けました。それが功を奏したのか数学でいい点数を取れて、「この調子で理系行けよ」と先生に言ってもらえました。
二年生からは理系クラスでした。女子は少なすぎて廊下はもはや動く壁でいっぱいでした。男の子たち背が高すぎです。地歴で理系にしてはイレギュラーな科目をとったので移動教室で文系のフロアに行くのですが、文系フロアはなんて視界が開けているのだろうと毎度毎度びっくりしていました。二年生は半年間委員会の長をやっていました。相方の男の子のぴょんくんがなかなか面白い人でした。一緒に広報誌を作りながらキューピー人形で遊んだり、空気入れの臭い空気を嗅がせあったり、ビニールテープでバレーをして完全下校の時刻を一時間過ぎたり……ぴょんくんは今は先輩になってしまったけど一生敬語使えません。生意気な後輩でごめんなさい、でもぴょんくんに敬語使うなんて笑っちゃって無理なのです。
三年生は受験モードでした。この頃には物理と数学が壊滅的になっていました。国語もあまり出来ないけどセンター試験までのお付き合いなのでノーカンにしていました。典型的な文系でもなく、ただの勉強できない人でした。物理はしょっちゅう再試にかかっていました。数学は習熟度別のクラスでしたがついていけずに下げてもらいました。下げてもらってもついていけませんでした。二年生の最後に塾に入りましたが、お盆休みと称して早い時間で塾が閉まってしまう時期がありました。地元の図書館で勉強しようと思ったけど最後に行ったのが幼稚園のころで、しかもひとりで行ったことはなくて、塾も行けない図書館も使い方分からない……という状態でした。そんなとき救世主が現れました。おばけくんです。(高校受験の日の後ろの席の男の子です)一年生のころに気まずくなってしまって一切話してなかったのですが、三年生で同じクラスになり、図書館に一緒に行ってもらったのを機にまた仲良くなりました。
おばけくんは私の大学受験におけるキーパーソンです。もともとおばけくんも大学のランクは圧倒的に上だったけど私と同じ学科を目指していました。ですが文系教科が苦手すぎて足を引っ張ってしまい、その学科を目指すのをやめるように高校一年生のころの担任の先生に言われ、諦めてしまい、行ける大学に行こうという考えになり、部活やってYouTubeみて寝るを繰り返して授業以外でほぼ勉強しなかったそうです。高校受験時には圧倒的な数学おばけだった彼は、三年生の夏ごろには私よりも数学できない人になっていました。(進研模試の点数推移見せ合いっこしたら一年生のころまでは圧倒的に私より偏差値上だったのに……)
おばけくんは中学校が一緒なだけあって帰り道もほぼ同じで、彼が身体を故障して自転車に長時間乗れなくなってからはたまに一緒に帰ったりしていました。何気なく話しているつもりが気付けば受験の話になっていることもよくありました。そんなある日ことです。「私医学科無理だ、浪人確定だと思う。ほかの学科行きたいなぁ。勉強いやだし」と私がふと言うと、「俺さ、やっぱ医学科また目指そうかな。もともと行きたかったし。親説得して予備校行きたい」とおばけくんが言ったのです。
おばけくんなんて呼んでいますがこの頃には日頃のノー勉によりセンター試験の総得点は私よりも百五十点くらい低かったおばけくん。そんな彼がこんなこと言っているなんて……私も甘えたこと言ってられないなと火がつきました。浪人は確定だろうけど最後まで足掻いてみよう、もしかしたら今年の自分のためになるかもしれないし、そうじゃなくても来年の自分のためにはなるだろう、そう思い気を入れ直すことができました。
結局、センター試験は志望校のボーダーラインに届かず、私は力試しで行くつもりのない大学を受けました。このころにはおばけくんは数Ⅰの点数は私に絶対負けないくらいに少しずつ力を取り戻していました。(やればできる人が勉強しだしたときほど恐ろしいのびしろはないですよね……)
チームきちがい
結局、予備校までおばけくんと一緒でした。「どうせなら予備校閉まる時間までフルで残ろうよ」どっちから言いはじめたか分かりませんが(キャラ的にたぶん私)、私たちは極力予備校に居座ることにしました。最後の時間まで残って駅に向かうメンバーで仲良くなり、私の友達とおばけくんの友達の男女混合十人グループが完成しました。このメンツなかなか個性が強くて、エレベーターにスリッパを蹴りこんだり、階段の上からスリッパを蹴っ飛ばしたり、予備校のキャラ強い人のモノマネをしたり、毎週水曜日はディズニーの服を着てくるように示し合わせたり……とにかく毎日楽しかったです。いまだにLINEでこの十人のグループが残っていて、長期休みに遊びに行こうと話が出るほどです。
生物選択に変えたいくらい壊滅的に物理のできなかった私と、暗記科目苦手なのに生物取ってしまったから予備校で専門物理を初めて勉強するおばけくんは、同じ物理の授業を取っていました。レンズのところとか手が不器用すぎる私はうまく板書を取れなかったので休み時間におばけくんに私の分までノートを書いてもらったりしていました。ありがとうおばけくん。足向けて寝ないようにしたいけど実家の方角しか分かりません。
浪人生という実感のほぼない楽しい毎日も束の間、気付けばセンター試験でした。ほんとセンターで結果出せるようにお互い頑張ろ!と言っていたものの、おばけくんは持病と当日の運の悪さから本領発揮できず、国立の医学科は断念せざるをえない結果でした。私は地元の医学科のAO入試が本命(とか言ったら先生には怒られるけど数Ⅲができない私には一般入試は出来れば避けたいものでした)でしたが、ギリギリ受かるか受からないか際どいところだろうねと先生方からは言われるような結果でした。センターの自己採点の日は悔し涙を流すおばけくんにどう声をかけていいか分かりませんでした。良かれと思って言ったことが嫌味になるし、次頑張ろうが通用しない。神様、いつかおばけくんが人生一の願いごとをしたときにはどうか叶えてあげてください。
幸いにもおばけくんは、私立の医学科や医療系の学科をたくさん受け、今現在彼は私立のコメディカルのタマゴの大学に通っています。当時望んでいた夢を叶えることはできませんでしたが、その後もハードルが高くなろうと手にしたチャンスに果敢に挑み続けた彼の勇姿は、かつての仲間として誇らしく思います。今も元気にしていて色々楽しんでいるといいな。
私はなんとかAO入試で合格しました。面接対策をしてくれた先生方も目を点にしながら喜んでくれました。おばけくんも授業の合間に駆けつけてきてくれて合格を伝えると喜んでくれました。予備校は合格したら年度末まではあまり遊びに行けないので、おばけくんにしか直接合格を伝えられませんでしたが、おばけくんづてにほかの友達も私の合格を知り、お祝いのLINEをくれました。
たとえ自分は努力の報われない結果だったとしても決して妬まずに素直に仲間のことを祝ってくれる人、直接伝えられなくてもお祝いしてくれる人、その後もいまだに仲良くしてくれる人、たくさんの友達に出会えて、支えられて、今振り返ればチームきちがいと過ごした一年弱は本当に充実した最高の時間でした。
ある意味人生の夏休みすぎてワロタイティス
ちょっと早めの時期に大学入試が終わり、半月くらいは毎日コタツで十時間くらい爆睡し、そのあとは自動車学校に通い始めました。S字クランクが大苦手で、毎日脱輪大魔王と化していました。
ちょうど仮免を取ったころ、大学に入学しました。最初に実習がありましたが倒れました。附属病院の中を同級生に車椅子で運んでもらいました。手術でもなんでもなくて、ただ外来患者さんが先生に目ヤニを取ってもらっているのを見ていただけなのに倒れました。たぶんその日は体調が悪かっただけです。倒れたあとに看護師さんに血圧を測ってもらったら普通にショック状態でした。80/50mmHgって普通にやばい。(ショックの指標は上の血圧が90mmHg以下です)
一年生のころはとにかく英語の授業がきつかったです。他の授業のときもみんな英語の小テストに向けて内職していました。そこまで英語ばかり勉強していると学年中の流行語みたいなのも作られていくのです。parotitis(耳下腺炎)と「ワロタ」をかけて「ワロタイティス」ってみんな言っていました。他の学科の人に聞かれたら引かれそう。
二、三年生は普通に医学の勉強で、特にこれといって書くこともないのでここまでの大学生活を総括すると、大学生って人生の夏休みっていうけど、夏休みの最終日の「うわぁ課題終わんねぇー!」が毎日繰り返されているという意味ではある意味人生の夏休みです。高校の方がまだ遊べたかも。
2.研究発表会はこちらでやっております
最大の理解者
小さいころから少しずつではありますが、習い事や資格に努力してきました。私は小さい頃から自分に自信がなくて、資格試験の度に「落ちるかもしれない」と極度に不安になり、目の前の目標に向き合うことが怖くなることがたくさんありました。受験も例外ではありませんでした。そんなとき、母はいつもお弁当の中に手紙を入れて「大丈夫だからリラックスして臨んでおいで」と励ましてくれました。
小学生くらいから自分に自信が持てず、「やってもできない」「自分なんかダメだ」と卑屈になることも多々ありました。母はそんな私をよく分かっていてなのか、自分ならできるんだと思えるようなメッセージをいつもくれました。良き理解者であると改めて感じるとともに感謝でいっぱいです。
そうやって母から「やればできる」と半ば暗示をかけられて育った私ですが、暗示が解けた瞬間卑屈になることはたくさんありました。ですが、最近あることに気付き、卑屈になってしまう自分とはもう決別しようと決心しました。
自分なんか何もできないと思うことで、もし失敗してしまっても「自分ってダメな人間だから出来なくて当然」と、失敗を正当化してしまうのです。そういう意味で自信をダメ人間だと名乗ることは一種のリスクヘッジになるのかもしれませんが、それは何の生産性もないことです。その生産性のない行為は自分をさらなる悪循環へと追い込みます。
逆に、「私はやればできる子」と自己暗示をかけて臨んだ二度目の大学受験やそれまでの浪人生活は、成績は右肩上がりでさまざまなことがうまくいっていたような気がします。高校の頃の担任の先生からは「もう一年は浪人すると思っていた」と言われるほどの成績だった私ですが、一年間で結果を出すことができました。現役生の頃はとにかく自信がなくて、「私には無理だろうから他の学科を受けたい」だとか「ここまできてこんなに点数取れないんだから今年は無理だ」と後ろ向きな発言ばかりしていたように思います。マインドを変えてポジティブな言葉を積極的に発するだけでも、物事は良い方向に進むような気がします。
これからもCBTと呼ばれる臨床実習に出るための試験や卒業試験、国家試験や専門医試験など、さまざまな過酷な試練が私に立ちはだかろうとしてくることはわかっています。「私には無理」と諦めず、「私はできる子なんだからどうせなら高みを目指してやる、その代わりに妥協は一切許されない」くらいの勢いで、あらゆる壁たちを突破していこうと思います。
ディスタンス
コロナ禍でよく耳に吸うようになった「ソーシャルディスタンス」。私はこのおシャルディスタンスなるものが世に普及する前から心がけていることがあります。それは「苦手な人とはしっかりと距離を置く」ということです。一度は仲良くしようとした人であっても仲良くできないと思えば例に漏れず距離を取ります。そのような私の行為は時として「裏切り」と呼ばれることもありますが、私は自分だけでなく相手にとってもこのような私の姿勢は有益であると考えています。
本当の相手の姿を理解しようとせずにこんなことして大丈夫なのか、本当は分かり合える仲間かもしれない、という意見もあると思います。もし本当は分かり合える相手なのであれば一旦距離を置こうと日を改めて仲良くなることはできます。小学生の頃に喧嘩し、距離を置いていた友達が二人いました。そのうち一人とは、中学三年生で同じクラスになり、勉強していてわからないところを質問されて教えたりしているうちに、一緒に帰りながら「志望校に受かるか不安」と相談を受けるようになり、仲良くなりました。その後数年してその子は家庭の事情で引っ越してしまいましたが、「今まで仲良くしてくれてたから」と引っ越し直前に会いに来てくれ、久しぶりに街で会ったときにはお互い通学途中でしたが数分立ち話に花を咲かせることもできました。もう一人は中学校の部活で同じパートになったのをきっかけに仲良くなり、帰り道にその子の惚気話を聞いたり、夏休みの最後の大会に向けての練習までの行き道に朝から関ジャニ∞のTAKOYAKI in my heartを二人で大熱唱したりしていました。その子は浪人中だった私に毎朝最寄り駅で会うたびに元気をくれ、受験前には「合格できる呪い」をかけといたよとメールをくれ、今も親身に相談に乗ってくれたりしています。
一方、どう足掻いても仲良くなれない人とは、わかり合おうとすることがお互いにとってストレスだと思うし、限られた時間しかない人生を嫌いな人のために使うのはとても勿体無いことだと思うのでとことん距離を置きます。時としてLINEをブロックしたりもします。
私がミクチャやtiktokを介してファンになってくださった方々へTwitterでメッセージを書いたり、たくさんの人に元気を与えられるような本を出版したいと言ったりしているのをみた知人が「ブスのアイドル気取り」「こんな薄っぺらい内容で元気付けようとするなんて草」「虚言癖」などと私を中傷しているのをたまたま見かけました。正直そういうことを言うような人のことはこの件の前から良い印象はなかったし、そんな人間に何を言われようと知ったこっちゃありません。そんな人に可愛いって言われたとしてもヘイト以外の感情は湧きそうにもないですし。言論の自由です。ただ、ファンになってくれた方にとっては私は「推し」と言っていただける存在であることには変わりないし、拙いところはあるかもしれないけれど自分の本で少しは誰かの心を揺さぶることはできる自信があるし、「本を書きたい」と宣言したことをこうやって実行に移せた時点でもう虚言ではありません。こういう心ないことを言う方は大抵自分の境遇に不満があって、それを標的を見つけて発散したいだけだと私は思っています。私という気に食わない存在に時間を費やす前に、自分の人生に誇りや自信を持てるように自分を磨けばいいのに時間が勿体無いと思います。
私は私のことを知らないような人からなんと言われようと、自分に自信を持って生き続けます。私のことを熟知している両親をはじめとする家族、旧友、応援してくださる方々からの助言にはしっかりと耳を傾け、真摯に受け止めます。
先述の「チームきちがい」の住人の中の一人がいつも口癖のように言っていた言葉があります。「時間は有限のリソースだぞぉ!」嫌いな人のために時間を割くという行為は、誰もいない部屋のストーブを焚くために石油を使うことと同じくらい勿体無いことだと私は考えています。
もしかすると懐の広い人なら嫌いな人に対してでさえも貴重な時間を費やせるのかもしれませんが私はそうではない上、人生という有限のリソースの中でやり遂げたいことが多すぎて、嫌いな人になんて構ってられません。自分のために、本当に大好きな人たちのために、時間という限られた財産を使っていきたいと思います。
私の活動を応援してくださる全ての方々へ
ミクチャ公認ライバーへのスカウトと同時に、自分にしか発信できないであろう何かを発信していきたいと思うようになり、ミクチャだけでなく、noteでのブログやや本の出版もするようになりました。このような活動は、応援してくださり、また行き詰まったときには親身に寄り添ってくださる方々あってのものだと思います。この場を借りて日頃の応援に改めて感謝申し上げます。
今まで仲間内以外には何も発さない普通の奥手な人間でしたが、このような活動を通して発信することの楽しさやその裏にある難しさ、応援してくださる方々の存在のありがたみを知り、また、今までよりも自分に自信を持つことができるようになりました。
既存の環境からだけでは学ぶことのできない経験をしてみたいという好奇心に駆り立てられるようにして始めたこの活動ですが、自分が予想していた以上のものを得ることができ、成長することができたように思います。みなさまからの応援があってこそ得ることのできたこのたくさんの人生の糧を存分に生かして、よき医療者、よきクリエイターとして羽ばたいていけるように努力したく思います。
3.二十一年間にわたる実験の感想
最後に
最後まで読んでくださりありがとうございます。ここまで自分の人生を振り返ってみて、いかに周りの人たちに恵まれているかに改めて気付きました。また、何か頑張らなければならないとき、ともに励ましあえる仲間の存在はとても大きいと改めて感じました。生来のダメ人間の私をここまで成長させてくれた、私に関わってくれた全ての方々に改めて感謝申し上げます。
もしこの文を読んでくださっている方のなかに浪人しそうって思っている方がいれば、浪人は怖くないし人生の引け目にもならないし苦楽を共にした仲間は一生の仲間となります。(とはいうものの、本文中に度々登場したおばけくんとはその後色々あり、今は気軽に話せる仲じゃなくなった気がします。たまにインスタでいいねされるので生きてはいるみたいです。逆に私からいいねはできませんね。彼は度胸もおばけですね、なんちゃって)唯一失うものがあるとすれば、親御さんのお金と時間です。お父さんお母さん、たくさんの時間とお金、そして愛情を注いでくれて本当にありがとう。
正直言って思い描いていた二十一歳はこんなものじゃなかったし、もっとキラキラした大人になっている予定でした。しかしこれもまた人生の醍醐味。自分らしく生きていこうと思います。
遥翔