板野サユリの間違い探しの旅
イヤホンからは私の好きな曲が一度終わり、イントロの部分が再生される。
同じ曲を何度も聴いていたかった。
高速バスの窓からは街の灯りが良く見え、私はその小さな点の一つ一つがどこか羨ましく思えた。
前の座席で大学生くらいの女の子が眠ってる。
10年前の私もあんな可愛らしい寝顔だったのかと思い出してみたけど、結局思い出せないくらい長い時間が過ぎていったんだと思った。
あんなに仕事一色だったのに糸が切れた様に私は辞めて、あてもなく、仙台にきてしまった。
「すみません」
男の人の声がした。
隣に座っていた、男の子は照れ臭そうに笑った。
私よりずいぶんと若く、長くパーマが掛かった茶髪とが印象的でお洒落な子、というのが第一印象だった。
「スマホの充電器を貸してもらえませんか?」
なーんだ、そういう事か。
「いいですよ、どうぞ」
そう言いながら、どこかガッカリしている私がいる事に気が付く。
私は、若い男の子に声を掛けられる女では無い事は、知っていたのだけど。
彼は真剣な眼差しで充電器を差したタブレットを操作している。何かの仕事だろうか?
「こちらで30分ほど休憩を取らせていただきます」
運転手のアナウンスが車内に響く。
外の空気を吸いたくなった私はバスを降りた。
三月というのに、風邪は冷たく暖房で火照った私には心地良かった。
私は自販機で缶コーヒーを買い、そのまま喫煙所に向かいタバコを取り出すと、キン、と鉄を弾く音が聞こえた。
「良かったらどうぞ」
声の主は隣の席にいた男の子だった。
差し出された手にはオイルライターの火が灯っていた。
スマートな動作でお洒落だと思う反面、遊んでるなと、毒づいてしまう私がいた。
「ありがとう」
火のついたタバコから流れた煙は、メンソールの清涼感が駆けていく。
「いえいえ、充電器、ありがとうございました!」
「……あの、タブレットで何をしていたんですか?」
私は尋ねる。
別に興味があったから聞いたんじゃない。
ただ、一言だけでお互い無言で煙草を吸うのがどこか気まずいなと思ったし、長い事高速バスの中にいたせいで、会話が恋しかったのかもしれない。
彼はにっこりと笑う。
「あぁ、あれは俺の店のブログを更新してたんです」「店?」
「えぇ、俺、最近料理店を始めたんです」
「……すごいね」
「いやぁ。赤字続きですけどね。でも、夢が一つ叶いました」
彼はタバコを加えながら、遠くを見つめて言った。
「えーと、お名前は?」
「板野紗友里」
「サユリさんかぁ。俺は松田裕太って言います。サユリさんはお仕事は何をされてるんですか?」
「〇〇システムコーポレーション」
「え、あのCMに出てる会社!? マジっすか、すごいじゃないですか!」
彼の目に輝きが増す。すごく眩しい瞳で、クラリとしてしまう。
この年齢の子は、大企業に入る事に憧れがあるのだろう。私も、昔は彼と同じだったのかもしれない。
私は煙草の煙を吐き出す。
「この前やめちゃったけどね」
「どうしてです?」
「なんでかな……」
理由は私にもよく分からなかった。
ずっと仕事を続けてきて、
昔の友人は世界中を旅してて、
後輩は結婚を機に辞めていった。
みんな私には出来ない事を実行していた。
私はどうしてか、おいてけぼりになった様な気がして、あてもなく仙台行きのバスに乗り込んだ。
「サユリさんは、どこに向かっているんですか?」
「……どこにも」
あの綺麗で無機質なマンションには、もう戻りたくなかった。
「じゃあうちきますか?」
彼の言葉に私は息を呑んだ。
「……行くわ」
彼は遊んでるイメージがあったし、警戒心ももちろんあった。
だけどそれ以上に私は、ナメられたくないと思っていたのだ。
「ここですよ」
彼の家は仙台駅に降りてすぐの路地裏にあった。
店の看板にはローマ字筆記体で「Date」と書かれていた。
「ここって、お店じゃない」
「二階が俺の部屋なんです」
「なんだか映画みたいね」
「でしょう?」
まるでそう言われる事が分かっていた様に、彼は自慢気に笑う。
「どうしてDateって名前なの?」
「あぁ俺、伊達政宗が好きなんです。カッコいいじゃないですか。知ってます? 政宗は料理の達人だったそうですよ。店の名前はそこからからきています」
「ふうん、そうなんだ」
彼は伊達政宗を目指していて、もう既に戦国の武将になりかけていた。
私はそんな彼を憧れと、ちょっとした悔しさが混ざった感情で見つめていた。
中に入ると、やっぱり小洒落た内装だった。東京のバーで見るような、英語で書かれた酒瓶が並べられていた。
「少し待ってて下さいね」
彼はエプロンを付け、カウンター奥のキッチンに向かう。
私はする事も無いので、ブルーのネイルが塗られた自分の爪を見て、最近はパソコンのキーボードしか触っていなかったなとぼんやり思った。
「ありあわせですが」
出てきたのはオムライスだった。
暖色の灯りに照らされたそれは、とても鮮やかに見えた。
「いただきます」
私はスプーンで切り崩した黄色を口に運んだ。
「どうですか?」
「……ずるいわ」
私から出た言葉は、震えていた。
「とても美味しい。私にはこんな美味しいオムライス、作れない。……どうして。どうして貴方は私に無い物ばかり持っているの?」
私は今まで頑張ってきた。
凄く、頑張ってきたのだ。
だけど私が手に入れた物は、ガラクタばかりじゃないか。彼の作ったオムライスを食べていると、今まで築いてきた事が偽物と分かる様な、私が持っていない正解を見せつけられる様な、どうしようも無く泣きたい気分になってしまう。
「貴方も俺に無い物を持っていますよ」
彼は静かに口を開く。
「貴方に私の何が分かるっていうの?」
なんだか同情されているみたいで、私は益々癪に思った。
「分かりますよ」
彼は優しい口調で言った。
「サユリさんは、食べ方が凄く綺麗です」
時々言われる事だった。私の両親は躾に厳しかった。
だけど今の私は育ちを褒められても、嬉しくは無かった。
私がこうなったのも、両親のせいだ。
絶対にそれは違う事なのに、私は心のどこかで思わずにはいられなかったから。
だから何? そう言おうとした瞬間、彼は子供の様に笑い、続けた。
「それと、手。マニキュアが綺麗です。手を大事にする女性は、好きですよ」
私は驚いた。それは、あまりお洒落をしなくなった私が残したかった、女の証だった。
「実は俺、大学を中退したんです。貴方と同じです。あそこにいる意味が分からなくなって。だから働いて、貯めたお金で店を出しました」
「多分サユリさんは俺と同じで自分だけの景色を見たかったんだと思います」
「そっか、そうだったんだ」
彼の言葉で分かった。私は、私の身体は、ずっと前から何かを間違えている事を知っていたのだ。
「裕太君、ありがとう」
凄く久しぶりに、笑えた気がした。
朝、目が覚めると、私は一人でベットで寝ていた。
シーツの感触が素肌に心地良くて、またまどろんでしまいそうになる。
とても久しぶりの、少し懐かしい感覚だった。
「おはようサユリさん。朝食出来てるんで下でどうぞ」
エプロン姿の彼が現れる。
「ーーまんまと貴方にのせられてしまったわ」
彼を目にすると、少し皮肉を言いたくなる自分がいる。
「あははは……」
彼ははぐらかす様に笑う。……ずるい人。
「こんな特技も無いおばさんと遊んで楽しいの?」
「はい、楽しいです」
彼は真顔で言う。あまりに正直な言葉に、私は面を食う。
「今回は本気っす。最初スマホの充電器貸して欲しいって言ったじゃないですか?」
「そうだったね」
「あれ嘘なんです。本当は持ってて、貴方と話したくて、嘘をついたんです」
……騙された。でも、ずいぶんと可愛らしい嘘で、少し可笑しくなって私は笑う。
「ねぇ裕太君、お願いがあるんだけど」
「なんです?」
「私を雇ってくれないかしら?」
「安い給料でもいいなら」
はにかむ彼は、伊達男と呼んであげたくなる様な、とても愛おしい表情だった。
そしてそう思える今の私が見ている世界は、以前とは少し変わっていた様に思えたのだ。