無口な少女は水の精霊使い
〈現在〉
赤い朝日が照らす、名も知らぬ道を、とぼとぼと歩き続けていた。
ここは一体どこだろう。僕は一体何をしているのだろう。今は一体何時何分何秒なのだろう。僕は一体、これからどうすれば良いのだろう。
僕は、ただただ俯いていた。僕は、どこに続くか分からない道を、ただただ、ただただ僕は、ひたすらにとぼとぼと歩いていた。周りには、家ひとつもない。人さえがいる気配すらない。ただただどこまでも続く草原だけが、これでもかというほど広がっていた。
ああ、僕はなんでこんなところにいるのだろう。
そう思った時だった。僕の見た先には、細く、長く伸びる、人の形をした黒い影があった。
周りには木すらないこんなところに人なんているわけないと思っていた。
不思議に思って、恐る恐る、ゆっくりと顔を上げてみた。
本当にこんなところに人がいるわけ……
「って、マジでいたしっ」
僕は驚きのあまり、大声で叫んでしまった。
やべっ、うわっ、初対面同士、出会った時の最初の一言がこの言葉とは。本当にすいません。マジで。今のとこの記憶だけ、消し去ってしまいたい。つか、そうじゃないと、精神的にキツい。
つか、パニクっている場合ではない。僕は現実を見なくては。
そして僕はやっと、その相手がこちらをずっと見つめているということに気がついた。
うわぁ、さっきからずっと見られていたのかよ。超恥っず。
水色のショートブーツと白いロングパンツを履き、後ろに紫のリボンが付いた僕と同じような襟のダブルボタンの水色で装飾された白のロングコートを羽織り、その中には紫のリボンを結んだ真っ白なシャツを着、腕には袖口に向かってだんだん広がっている何かを付け、薄い水色の混じった白く長い髪を後ろで紫のリボンできゅっと結び、青から水色へと綺麗なグラデーションがかった目でじぃっと真っ直ぐにこちらを見つめ続ける少女がいた。
ほんの一瞬、時間が止まったとさえ思った。そう思ってしまうほどの少女が僕の目の前に立っている。
赤く染まった朝日が、スポットライトのように僕と彼女を照らしていた。まるで、僕たちのこの出会いを祝福しているように。あるいは、この世で、この星に、たったふたりだけが、取り残されてしまったように。どこからか吹いてくる風は、ふたりの沈黙の穴埋めのように、僕と彼女の髪と服だけを揺らして通り過ぎていった。
ようやく彼女は口を開いた。沈黙をちょうどいいタイミングで終わらせてくれたのだと僕は思った。
「……仲間……?」
はあ?
僕は心の中でたった一言呟いた。彼女はもう一度口を開いた。
「……あなたは、仲間……?」
僕は、ふと一瞬思い出した。そして、イチかバチかで彼女に聞いてみた。
「君も、精霊使い?
それを聞いて彼女は、よく見ていないと気づかないが、僅かに頬が赤くなっていた。
しばらくして、彼女はゆっくりと頷いてみせた。
なるほど。「仲間」ってそういうことか。
「君は、なんの精霊使い?」
「……水……」
「そっか。僕は星の精霊使いだよ。よろしくね」
「……うん……」
僕は軽く彼女と握手した。そしてkの除はくるりと俺に背を向け、
「……来て」
と言った。
僕は行く宛がなかったから、仕方なくついていくことにした。彼女はもう歩き出していた。意外と歩くスピードが速い。僕は、後れを取っているのにようやく気づき、急いで走って追いついた。僕は、このまま沈黙しているのも嫌だから、何か話してみようと思った。正直言うと、僕はもっと彼女のことを知りたい。彼女と仲が良くなってみたい。
僕は、ありきたりだがこんな質問をしてみた。
「君、好きな食べ物とかある?」
「うん」
「教えてもらえたりする?」
「うん」
「何かな?」
「魚」
「理由はあるかな?」
「美味しい」
「へえ」
会話終了。
み、短っ。
俺は正直、魚はそこまで好きではない。
また、長ったらしい、思い沈黙が続いた。しばらくして、珍しく彼女から話しかけてきた。
「名前……何……?」
あ、そういえば自己紹介を忘れていたな。まあ、でも、手間が省けてちょうどいい。
「僕の名前は星斗だよ。君は?」
「水樹……」
「そっか。よろしくね、水樹」
「……よろしく……」
またもや会話終了。その後の長い沈黙。
これ、何回続くんだろ。
静かな沈黙の中に響くのは、たまに吹き荒れてはどこかに行ってしまう風の音と、僕と彼女のバラバラな足音だけだった。鳥と動物の鳴き声、草の揺れる音すら聞こえない。気配すら感じられないから、逆に怖い。いつの間にか、太陽は斜め四五度くらいに傾いて、相変わらず僕たちを、眩しすぎるくらいの眩しさで照らしていた。
今、一体何時何分なんだろ……。
水樹に、
「……ここ」
と言われるまで、僕の目の前の景色が変わっていることに気がつかなかった。さっきまでずっと俯いていて、歩いていたものだから。
僕は、少し怯えながら、恐る恐る、ゆっくりと、それまでずっと俯いていた顔を上げてみた。忽然と僕の目の前に現れた景色は、一言で言うと、「絶景」だった。
誰もいない。だからといってゴミはひとつもない、どこまでも白く光り輝く砂浜が、右にも左にも、どこまでも広がっている。そこに、海塩の混じった、青く透き通るような青色で、ちょうどいい冷たさの海水が波打って覆いかぶさってくる。今は晴天で、太陽はこれでもかというくらいに光り輝いているが、これが早朝や夕方になれば赤く染まり、その赤く染まった太陽が海面にも写り、それはそれで綺麗なのだろう。でも今のこの天気では、真夏のビーチにしか見えないが……。
ふと僕に、些細だがとても重要な質問が浮かんだ。
「君って……」
「……水樹」
……は?
僕には意味がよく理解できない。頭が悪い僕にも分かるように説明をして欲しいです。
まあ、とりあえず、さっきの質問をもう一度。
「あの……」
「私……水樹」
うー……ん。
どうやら、自分のことを「水樹」と呼んで欲しい。でも、人の言葉を遮るのはやめてほしい。
僕は仕方なく呼び名を「水樹」に置き換えて、もう一度質問してやることにした。
「水樹って、どこに住んでるの?」
「……ここ」
と言って指さして場所は、海の中だった。
僕が、「いや待て、そんなはず、ないだろう」と思ったところだった。まさか住居は竜宮城で、実は正体は人魚とか、人に化けたかっぱだったりはしないよな……。
「君、まさ」
「水樹」
「き、きm……」
「名前、水樹」
「み、水樹?まさか、ずっとここにいたり、しない……よな?」
「……する」
「ど、どどどどどんなところに住んでるるるんんだ?」
「……魚……いっぱい」
めっちゃ得意げで言いやがった。
俺はがっくりと肩を落とした。そりゃあ海の中だから、魚はいっぱいいるだろうよ。
「他にもっと特徴的なのはないのかよ」
「……魚……いる、よ?」
「んー、だからそれ以外はないのかよ」
「……キハダマグロ……いる」
「なんかやけに具体的だな」
「……魚……好き。名前……たくさん、知ってる」
水樹はドヤ顔をあからさまに見せつけてきた。まあ、下から表情が分かりにくい人だから、よく見ないと分からないけど、今までよりは分かりやすかったから、きっとそういうことなんだろう。これは、どんな反応をすればいいのだろうか。「すごいね」とでも言っておけばいいのだろうか。よく分からないけれど、これしか思いつかなかったから言ってみよう。何も言わないまま無反応でいるよりはマシだ。たぶん。
「す、すごいね」
「……」
無、無ムむMU無、無視っすか?無反応ですか?ま、ま間魔真ま、まさかですか?
すると彼女は、よく聞いてないと分からないほどの声で、ひとり言なのか、ぼそっと呟いた。
もう、ただでさえ声が小さいんだから。
「……魚、しか、……信用、できない、から……」
ムむMU無ム、今のは聞き捨てならないぞ。なんたって、僕だけはバッチリと聞いていたからね。フフン。
僕は心の中でドヤ顔をし、その後、ほくそ笑んだ。そして僕は、またひとつ、とある質問を思いついてしまった。
「水樹はなんで、魚しか信用できないんだ?」
すると水樹は、顔が赤くなり、しぶしぶ(らしい)、どこからか、一枚のルーズリーフを取り出し、目の前で何かを書き始めた。
僕は水樹がそれを書き終わるまでの間、広い海を見つめていた。あまり話しかけないほうがいいと思ったからだ。
こういう広い海を見つめていると、何もかもを忘れられる。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、つまらないことも。苦しかったことも、辛いことも、悔しかったことも、苛立ったことも……。何もかもを、全部。
「……でけた」
静かな波の音しか聞こえない静寂の中、低過ぎもなく、高過ぎもない、ちょうどいいくらいの高さの小さな声が静かに響いた。水樹の青い目が、僕は真っ直ぐに、明らかに強い意志を持って見つめている。
水樹は、びっしりと文字が詰まった、一枚のルーズリーフを差し出した。受け取って裏を見ると、そこにも文字がびっしりと埋まっていた。僕は少し呆れつつ書き始めた場所を探し当てて、読み始めた。
『少しだけ、私の一方的な話に付き合ってください。
私は、父が漁師、母が海女さんという家庭に生まれ、よく、五歳年上のお兄ちゃんと一緒に、お父さんとお母さんのお仕事を手伝っていた。私の家は、浜名湖と遠州灘の境目あたりにあり、私の家の目の前には、どこまでも青く、どこまでも続いていそうな綺麗な海が広がっていた、学校とかで嫌なことがあったときは、放課後にこの海を見ていた。傍らにある堤防になんとかよじ登り、ぼーっ……とこの海を見ていると、なんだか穏やかな気持ちになった。
でも私は、漁がうまくできなかった。編みをうまく投げ込めなかったり、餌をうまく釣り針に刺すことができなかったり、仕掛けをうまく作ることができなかったり。私は水泳が苦手だったから、お母さんみたいに海に潜って魚を捕ることもできなかった。私はお母さんやお父さんみたいに漁をすることができないんだと思うと、悲しくなってきた。そんなだったから、私はお父さんとお母さんに軽蔑され始めた。これでもかというほどのお父さんの罵声を一日に何度も聞かされ、無視され、よくご飯を食べさせてもらえず、学校に出す書類でさえサインをしてくれなかったことも多々あった。唯一の心の拠り所だと思っていたお兄ちゃんは、いつの間にか、この家を出ていってしまったみたいだった。
極度の人見知りだったので小学校にもどこにも彼女の友達はいなかった。家族以外のと人とは、必要な会話しかしたことがなく、必要以上のことを話さなかった。だからか、最近はもう、クラスの人からイヤミを言われたり、ハブられたりすることがほぼほぼ毎日された。それだからか、その頃から海を見に行く回数が増えてきていた。その時にはもう、海しか信じられなくなっていた。
そしてある日、いつもと同じように海に行ってみると、ふと突然、謎の声が聞こえた。
「大丈夫。水樹ちゃんは頑張ってる」
「いざという時は、僕たちが守ってあげるから、心配しないで」
「僕たちは水樹ちゃんの笑顔が見たいんだ」
私は慌てて周りを見回したが、誰もいなかった。ラジカセとかそういう系統の物もなかった。不思議に思ってもう一度海のほうを向くと、波打ち際に何かが置いてあるのを見つけた。それは、鮭とおかかの、ふたつの、コンビニで売っているような、よくあるおにぎりだった。
なんでこんなところにこんな物があるのだろう。
そして、もう一度あの声が聞こえてきた。
「よかったら食べてね」
「それは僕たちからのプレゼントだよ」
この声は、海の中からの声だったんだ。特にこれといった根拠はなかったが、なぜだか私にはそう思えた。そしてこれはその人たちからのプレゼント。
海の中にいるこのおにぎりをくれた人は、あの声の人は、私があまりご飯をもらえていないということを知っていたのかな。これくれた人は、いや、人なのかは分からない。もしかしたら人ではないかもしれない。もしかしたら、賞味期限、消費期限切れのおにぎりなのかもしれない。でも、嬉しい。
今は本当にお腹が空きすぎて気持ちが悪いから、たぶんこれを食べないと飢え死にしてしまうから、とりあえず、ありがたくいただこう。
私は迷わずそのおにぎりを手にとった。
久しぶりに噛み締めたそのおにぎりの味に、自然と涙が出てしまった。
そしてしばらくたったある日、海を見に行ったときのことだった。またあの時と同じように、同じ人の声が聞こえた。
「「ごめん。三分くらいそこで待ってて」というような伝言をある人から預かったから伝えたよ」
珍しく、少し慌てたような様子だった。私はまあいいやと思って、声に出して三分を数えた。
ちょうど数え始めて、三分たった時だった。私はその目の前の光景に目を見張った。そこには、お兄ちゃんらしき人が海から出てきたところだった。
「お、お兄……ちゃん?」
なんでここにいるの?なんで海から出てきたの?今までどこにいたの?今まで何をしていたの?なんで今になって帰ってきたの?なんで、なんで、なんでなんでなんでええぇぇぇっ?
私は、ほぼほぼ無意識的に、そう呟いた。私は、ほぼほぼ無意識的に、そんな感情が無数に、ランダムに、いくつもいくつも出てきた。
お兄ちゃんらしき人は、私のその様子を見て、優しく微笑んだ。そしてお兄ちゃんらしき人は、ゆっくりと口を開いた。
「ただいま、水樹。君を迎えに来たよ」
その声は、聞き慣れた、いつもの、あのままの声だった。本当に、お兄ちゃんなんだという根拠しかなくなってきてしまい、偽物だとは思えないような根拠ばかりが増えてきているような状態だった。
「お兄ちゃん、実は、水樹にお願いがあってきたんだ」
「何?」
「実はお兄ちゃんがここ数ヶ月家を空けていたのには理由があった。実はお兄ちゃん、精霊使いのお仕事やってたんだ。水の精霊使いの」
「……精、霊……使、い……?」
「ああ。でもお兄ちゃんはダメだった。だから。今度は水樹に頼みたいんだ。我が妹よ、お前にお願いしてもいいか?」
「……でも、水の精霊使い(?)って……何を、すれば……いい、の……?」
「水の精霊使いは、水やそれに関するものを守っていけばいいんだ。どうだ、やってもらえるかな?」
よかった。恩返しにはちょうどいい。それにお兄ちゃんの頼みごとだから、できるだけ聞いてあげたい。
「……うん。いいよ」
「よかった。詳しいことはここに書いてあるから。
本当にありがとう。水樹、頑張ってね。おにいちゃんはずっと、水樹の味方だから」
「……うん。がんばる」
そう言って私は笑ってみせ、お兄ちゃんが差し出した冊子を受け取った。それからいくつか私は質問をしてみた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「今まで……どこに、いたの……?」
「ああ、今までお兄ちゃんは、ずっと海の中にいたんだ。ずっと海の中で暮らしていたんだ。魚と一緒に」
「……そう、なんだ」
「あ、そうそう。少し前からなんか、なんか変な声が聞こえなかったか?」
「……聞こえた」
「あれは実はね、この海の中にいる魚たちの声なんだよ。水樹、よくここに来ていたんでしょ?それを、と落ちかかった時に見ていた魚がたくさんいたんだって。それで、その中の一匹が、「よく砂浜にいるあの子とお話がしたいんです」と、お兄ちゃんに言いに来たんだ。だからお兄ちゃんは、その魚に魔法をかけてあげた。声を届けられる魔法を」
「……そうだったんだ」
俺はそれを聞いて驚いた。あの、感情のこもってなさそうな魚がそんなことを考えて、あんなことまでしてくれるとは思っていなかった。
その時から、魚に対しての価値観が変わった。
魚だけは信じられる。魚だけは、こんな私の味方でいてくれるんだと思った。お兄ちゃん以外にそんな人……人ではない、魚がいるとは、思ってもみなかった。少しだけ、嬉しくなった。
するとお兄ちゃんは、ゆっくりと目を閉じた。そして、少しだけ嬉しそうにしているように見えた。
お兄ちゃんは、青い光に包まれた。ゆっくりと、足の方からだんだん消えていった。なんか、すごく綺麗だった。ずっと見ていたかった。結論、ずっと見てしまった。いや、正しく言えば、見とれてしまっていた。
しばらくして、お兄ちゃんはその光に包まれて、完全に消えてしまった。余りにもあっけなく、突然に。
それからは、ぼーっとしていた。ただ、目の前であった出来事が、現実だというのを信じることができなかった。後に残ったのは、私の頬に伝う生温かい一筋の涙と、呆然とした喪失感だけだった。
私は静かに身を翻して、ゆっくりと歩き出した。
これを期に、家出をしてしまおう。家出の理由にはちょうどいい。
そして私は、旅に出ることにした。
以上が、先ほどの質問の答え。
(質問)何歳?』
はあ、長かった。よくこの量がこんな小さな髪に入ったもんだな。
困りに困り果てた僕は、とりあえず、すぐに答えられる質問の答えだけを書いておこうと思った。でも、さっき渡されたルーズリーフは、表も裏も、彼女の文字で埋め尽くされていた。
ぼ、僕は、一体どこにどうやって書けばいいのだろう。