浬、よーこさんと契りを結ぶ
おい、これはなんていう罰ゲームだ。いや、聞き間違えかもしれない。
「お前が俺の嫁になるって解釈でいいんだよな」
「ぬしの立場からじゃとそうなるの。どうじゃ、いいじゃろ」
「いや、待て、冗談じゃねえ」
俺とよーこさんは出会って一時間も経っていない。なのに、いきなり求婚されるなんてどんな了見だ。
「おかしいの。人間は夫婦の契りを結ぶときにプロポーズというものをするという。きちんとプロポーズしたのにどうしてダメなのじゃ」
「色々と過程をすっ飛ばしてるんだよ。素性も分からない女から告白されてイエスする奴なんかいるか」
ましてや妖怪かもしれないという疑惑がかかっている女だぞ。これで首肯するのはよほどの馬鹿だ。
よーこさんは納得がいかないと腕組をする。さっきからピクピクと頭の上の耳が動いているのだが、電池が入っているんじゃないよな。コスプレだと目をつぶればマシだけど、耳が四つあるという怪奇現象はすんなり慣れるものではない。
「大体、どうして俺なんだ。イケメンが好きとかなら他にもいるだろ」
自分で認めると悲しくなるが、俺は顔面偏差値に自信がない。中学時代に「秋葉原を歩き回ってるキモい人に似ている」とからかわれたこともある。少なくとも、出会って早々求婚されるほどイケメンではないはずだ。
「覚えておらぬかの。うちはぬしに助けてもらったことがある。ずっと再会を望んでおったのだが、まさかこうも早く出会えるとは思ってもみなかったのじゃ」
「いや、俺とお前は初対面のはずだぞ」
過去によーこさんみたいな美女と出会っていたなら嫌でも記憶に残るはず。少なくとも、頭上に狐の耳を生やし、しっぽをぶら下げている人間なんて初めてお目にかかった。
「ううむ。うちはしっかりと覚えているのだが。じゃが、急くことはない。じっくりと記憶を取り戻せばいいのじゃ」
「なんか、俺が記憶喪失みたいになっていませんか」
存在しない記憶を取り戻せってなんという無茶ぶりですか。でも、よーこさんが嘘を言っているという確証もないし。
「いいじゃろ。ほんの百年ぐらい一緒にいるだけじゃ。うちとしては物足りぬがそれくらいなら問題なかろう」
「長すぎるわ。一生一緒にいるつもりだろ」
数百年も寿命がある妖怪の感覚で語らないでもらいたい。人間の平均寿命を把握しているのだろうか。
「まったく、不満でもあるのか。うちがこんなにお願いしても聞き入れてくれぬとは」
よーこさんはちゃぶ台越しに身を乗り出して迫ってくる。シャツが垂れ下がり、胸の割れ目があらわになっている。獣臭い、と覚悟していたが、予想に反していい匂いが漂う。動けずにいるとほのかに暖かい体温が伝わってくる。
油断すると知らぬ間に首肯してしまいそうになる。いや、ほだされるな。相手は妖怪だぞ。絶対に許容しないからな。
俺が頑として腕を組んでいると、仕方ないとよーこさんは人差し指を立てた。
「いきなり結婚するのが難しいのであれば取引といこうではないか」
「取引だって」
妖怪からそんな言葉が飛び出すなんて意外だった。間抜けな顔を晒している俺をよそによーこさんは続ける。
「ぬしは学校に通うためにこの地にやってきたのじゃったな。永遠に在学することはできず、いつかは卒業の時が来るはず。じゃから卒業までにうちが認めるような女子と結ばれることができたのなら結婚は諦めてやろう」
「つまり、高校卒業までに彼女を作れっていうのか」
とんでもない難題をふっかけてきやがったな。彼女の目元がいつになく真剣だから道楽で提案しているわけでもなさそうだ。
はて、条件を呑むべきかどうか。ここで拒否しようものなら次はいかなる策をかましてくるか想像したくもない。いきなり全裸になったり炎を出したりするような相手だぞ。有無を言わさず貞操を奪うぐらいはやってのけそうである。
ならば、俺に残された選択肢は明白だ。とはいえ、そう簡単に達成できるような条件でもない。単身で宇迦市に乗り込んだために中学までの交友関係はリセットされたようなものだからな。片手間で彼女ができるのなら日本の少子高齢化問題なんて起こりやしない。
俺が思案しているとよーこさんは意地悪く顔を寄せてきた。
「難色を示しておるようだの。ひょっとして自信がないのか。ぬしなら簡単にやってのけると思ったのじゃが。まあ、気張ることはない。観念してうちと結ばれるというのなら大歓迎じゃ」
分かりやすすぎる挑発だった。女に発破をかけられて黙っていられないというのは男の悲しい性というやつ。俺もまたそんな性に抗うことはできなかった。
「分かった。卒業まで三年もあるんだ。お前もびっくりするような女を連れてきてやるぜ」
「やけに自信満々じゃの。うち以上の美女などそうそうおらぬと思うが」
むきになって宣言すると、これ見よがしに胸を寄せてくるよーこさん。まあ、そんじょそこらの女性だったら適うはずはなかろう。
けれどもぬかったな、よーこさんよ。俺にはこれほどなく理想的な女性がいる。彼女であれば間違いなく条件を満たせるはずだ。
俺が勝ち誇った笑みを浮かべているとよーこさんが急接近してきた。と、いうよりほとんど密着している。い、いきなり色仕掛けなんて通用しないからな。こちとら既に裸を目撃しているんだ。今更どんな手を使ったって。
うろたえていると、よーこさんの唇が俺の肩に密着した。ほんの一瞬であるが首筋に痛みが走る。しっとりと残る生温かな液体。指先で拭うとぬったりとした感触が伝わる。これは、まさか。
「唾液、か」
汚いな、もう。ティッシュでふき取っている間に先ほどのよーこさんの所作を振り返る。痛みがあったということから首を甘噛みされたというのが妥当な線だろう。いきなり噛むなんて野生に目覚めやがったのか。
俺が警戒して本棚のそばに避難していると、よーこさんは和やかに両手を広げた。
「心配せんでもいい。契りを結んだだけじゃ。人間もやるじゃろ。嘘ついたらハリセンボン犯すとな」
「飲ますだな。海に住んでいる魚と異類婚姻譚をやるつもりはねえ」
もしかすると「角野卓造じゃねーよ」と叫んでいる女芸人のことかもしれないが、少なくとも強姦罪になるからご遠慮願いたい。
「っていうかいきなり噛みやがって。変なばい菌を入れたのなら承知しないぞ」
「案ずるな。きちんと消毒を施しておいたわい。それにうちをそんじょそこらの不潔な狐どもと一緒にするでない」
憤慨しているよーこさんだけど、消毒と称して唾液をすりつけるのは衛生的にどうなんだ。
噛まれたわりに痛みは全くない。さすっているうちに傷口がどこか探す羽目になったくらいだ。俺が首筋をいじくっていると、よーこさんが興味深げに訊ねてきた。
「それで、ずいぶん余裕のようじゃがうちを超えるような美女がいるのかえ」
「よくぞ聞いてくれた。崇高なる俺の嫁を紹介しようじゃないか」
「おお! まさかすでに嫁がおったとは。ううむ、ぬかったわい」
なんか本気で悔しがっている。ネットスラングを知らないのか。妖怪だから仕方ないけど。
まあ、俺の嫁というスラングを知っているかどうかはどうでもいい。紹介しようじゃないか、俺の伴侶たる美女を。
「それは、漫画本じゃの」
視力検査でもしているかのようによーこさんは目を瞬かせている。
「もしかして、この本が嫁なのか」
「そんなわけあるか。ほら、この娘だ。学園アイドルガクドルズ!の主人公花園華。彼女こそ俺の最高の嫁だ」
「却下じゃな」
おい、瞬殺されたぞ。なぜだ、どうしてダメなんだ。
「うちを馬鹿にするでない。そやつは漫画の中のキャラクターじゃろ。実在しない人物とどうやって結婚するつもりじゃ」
「愛さえあれば二次元なんて関係ないだろ。どんな逆境にもめげない鋼のメンタル。個性豊かなメンバーたちをまとめるリーダーシップ。そして、そんじょそこらの萌えキャラなんか相手にならないビジュアル。まさにパーフェクトヒロイン。俺の嫁とするにふさわしいだろ」
「じゃから、実在しないから結婚できないじゃろ。ぬしはひょっとして頭が悪いのか」
妖怪から真顔で心配された。くそ、漫画の中の人物と結婚できる道具があれば。依頼しようにもすぐそばにいるのは未来の世界の猫型ロボットではなく過去の世界の狐型妖怪だし。
「現実に結婚できる人物じゃなきゃダメというのなら早山奈織はどうだ」
「誰じゃそやつは」
「知らないのか」
「織田信長を知らぬのかぐらいの衝撃で言わんでもらえるかの」
いや、現在の日本の総理大臣を知らないのかぐらいの衝撃なのだが。
「花園華の中の人じゃん。ほかにも『俺の学園ラブコメはこんなはずじゃない』の雪野原幸恵とか『青春馬鹿野郎はキャンペーンガールと夢を見ない』の古市知奈とかやってる」
「ううむ、すまぬ。人間の漫画はよう分からんのでな。とりあえず、紙に書かれている人物ではないというのは確かかの」
正確に言うと漫画ではなくラノベが原作のアニメである。まさか、早山奈織すら知らないのか。芸能ニュースでも話題になったことがあるから知ってると思ったのに。いくらなんでもサブカルに疎すぎるだろこの妖怪。
「まあ、ともかく急くことはない。いざとなったらうちと結ばれればいいのじゃ」
「だから、妖怪と結婚するつもりはないと言ってるだろ」
契約を交わした時よりも余裕をぶっこいているのが癪だな。達観していられるのも今のうちだぞ。俺の嫁のすばらしさをとくと分からせてやるからな。