小野塚、クンカクンカする
早山奈織ボイスで朝を告げられた時には心地よいモフモフが消えうせていた。両手が空を切っているのがすごく虚しい。でも、清々しい心地だった。リアルタイムで見たいアニメがありすぎるせいで最近睡眠不足だったからな。あのモフモフを覚えてしまうとアニメを一話見逃したことぐらいがあまり痛手にならない。
「おはようございます。すごくいい顔をしていますね」
「今日は久しぶりにぐっすり眠れたんだ」
先に食卓に来ていた瑞稀からも褒められた。遅れてやってきた美琴からも「やけに清々しいじゃない」と指摘されるが、直後に予想外の言葉を投げかけられる。
「っていうか、なーんか獣臭いけどきちんと風呂に入ったの?」
「失礼な。風呂を忘れるほど痴呆してない」
「でも、犬っぽい臭いがします」
犬なんて飼ってないぞ。それに、犬と触れ合ったことなんて……。
いや、ある。考えなくても、よーこさんのせいだ。一晩中狐の尻尾を抱いて寝ていれば獣臭が移るのも当然である。狐はイヌ科の動物だから犬の臭いがしたのか。
シャワーを浴びなおしたいところだが、そんなことをしていては遅刻してしまう。一度遅刻するだけでも反省文を要求されるぐらい校則厳守には厳しいからな。その割に美琴と瑞稀はスカート丈が短いけど、「見つからないように直しているから平気」だそうだ。今どきの女子高生は常に校則と戦っていると思うと感心する。
「ほれ、皆の衆。早く朝ご飯を食べるのじゃ。管理人として遅刻させるわけにはいかぬからの」
獣臭の犯人が発破をかける。文句の一つでも言いたいけど、勝手にモフったのは俺である。葛藤していると、よーこさんはそっと耳打ちしてきた。
「浬よ。尻尾をいじくっても構わないが大概にしてくれよ。うちもやたらと触られると恥ずかしいのじゃ」
臀部をクネクネさせられて俺は顔を火照らせる。いきなり不意打ちしてきやがってこの狐め。
急かされるように登校したわけだが、まさか犬の臭いがあんな出会いをもたらすなんて思いもしなかった。
その日の二時間目の授業が終わったころのことである。一時間目の英語はまだしも、数学はお手上げだ。いきなり実力試しの小テストをやられたのも堪えたぜ。高校になって難易度上がりすぎだろ。
三時間目の日本史の教科書を用意しようとしていると、ずいと迫ってくる影があった。顔を上げるとアホ毛でジト目な女生徒と目が合う。顔立ちが幼く、初対面の時は中学二年生くらいかと思った。隣の席に座ってはいるが、接触するのは初めてだ。初めてのはずなのに、異様なほど積極的に鼻をこすりつけようとしている。
毎日のようによーこさんから過剰接近されているとはいえ、馴染みのない子に迫られるとたじろいでしまう。おまけに、挙動からしてクンカクンカしているわけだよな。ハムの太郎じゃないがヘケッと返しておけばいいのか。
「あのさ、君」
「はい」
つい声が裏返る。クスリと微笑を浮かべつつ、
「犬、飼ってる」
今朝聞かれたばかりの質問を繰り返された。
「いや、飼ってないな。そもそもペット禁止のはずだし」
狐の妖怪はペットに入るのでしょうか。ご飯を提供してもらっている時点でペットではないか。
「ああ、そうか。君、陽湖荘の住居人か。ズッキーが言ってた」
「ズッキー?」
「石動瑞稀。知らない?」
「知ってるよ。俺と一緒の陽湖荘の同居人だろ」
逆に瑞稀のことを知っているのか。彼女は俺と同じく地方出身だから宇迦市に知り合いはいないはずなのに。
「小野塚さん、ここにいたのですか」
「うん。犬の臭いがしたから嗅いでた」
「あ、当たり前のように大胆なことを言わないでください」
瑞稀がうろたえている。女子が人前で男子の臭いを嗅いでたなんて暴露したらそうなるわな。
「石動さん。この子と知り合いなの」
「ついこの間出会ったばかり」
瑞稀のセリフを横取りしてサムズアップする小野塚さん。いちいち調子を崩される。
「彼女は小野塚輝夜さん。私たちと同じく寮生活をしているそうです」
「天源荘の小野塚さんと覚えておくといい」
日常系萌え四コマのタイトルみたいだな。そして、サムズアップはお気に入りなのか。
天源荘というと宇迦学園高傘下の学生寮の一つで、最大規模を誇っていたような。部屋の広さも陽湖荘の倍近くあるうえ、トイレとバスは共用ではなく個別。それでいて値段も手頃のため一番人気になっている。
「天源荘でも噂になっていたぞ。陽湖荘に住む変態がいるって。どんな奴か調べようとしたが、ズッキーは案外普通でがっかりした」
「変人なんてそうそういませんから。あと、ズッキーはやめてください」
「いいじゃん。わたしもヅカちゃんと呼ぶといい」
「カグヤはダメなのか」
「な、名前は呼ぶな。恥ずかしいから」
アホ毛がシュンと垂れている。そいつ、犬の尻尾みたいなものなのか。でも、カグヤってかわいい名前だと思うけどな。
「でも、君は変人っぽくて期待通りだ。自己紹介でアニメキャラを嫁にしたいと暴言を吐いた挙句、犬の臭いを発しながら学校に来るなんてなかなかできるものじゃないよ」
「そいつは誉め言葉なのか」
魔法科高校のお兄様へと放った同級生の賛美かと思ったが、首を傾げている辺り元ネタは知らないだろう。
「えっと、君は」
「刑部浬だ」
「じゃあカイカイだな」
「なんだその怪物君が出てきそうなニックネーム」
俺は愉快でも痛快でもないし、念力集中ビキビキドカーンできねえぞ。
「カイカイは犬を飼っていると思ったけど、そうかペット禁止だったか」
「ちなみに飼ってたらどうするつもりだったんだ」
「モフる」
単刀直入に宣言してサムズアップした。カグヤじゃなくて、小野塚さんによーこさんを紹介したらどうなるだろうか。よーこさん当人が了承しなさそうだけど。
「寮は違えど同じ地方出身者だ。知り合った餞別を送っておこうと思う」
そう言って小野塚さんはノートの切れ端を渡してきた。四つ折りにされているのを俺は丁寧に広げる。
そして、広げたことを後悔した。思い切り吹き出したせいで鼻水が出たぞ。
瑞稀からティッシュを受け取ってその場は凌いだが、この絵はダメだろ。笑うなというほうが無理。
なにせ、二時間目のブルドックによく似た数学教師が人面犬にされているイラストだったからだ。
「数学妖怪ブル。攻撃力4000」
「遊戯王なら強力だけど、デュエルマスターズならそんなに強くないな」
「小野塚さんはけっこうイラストがうまいんですよ。昨日もなまはげのイラスト描いてもらいましたし」
チョイスが渋すぎるだろ。おそらく、瑞稀が秋田出身だからであろう。
「イラストが描けるのなら、花園華のイラストとか書けるか」
「元を見せてもらえればいけると思う」
「マジか。じゃあ、こいつなんかどうだ」
「刑部さん。どうして当たり前のようにガクドルズのポストカードなんて持っているんですか」
瑞稀が呆れたように言うが、花園華のグッズなら肌身離さず持っているぞ。財布や携帯を忘れたことはあってもグッズは忘れたことはないからな。
獣臭いおかげで学校での知り合いが増えたとはいえ、その日の夜に風呂に入る時まで臭いは消えなかった。森野からも「人面犬と出会ったのか」と追及されたから小野塚さんのイラストを渡しておいたら鼻水を噴射して大笑いしていた。