八子先生、サインを書く
牟田先生は電車に乗って二十分ぐらいで行ける郊外に住んでいるという。やけに都内在住の作家が多いと思ったが、「牟田先生は地方出身だったけど、漫画家デビューとともに上京したと聞いたのだ」と説明してくれた。出版社との打ち合わせの都合上、都会にもデビューするのは多々あるそうだ。ちなみに、八子先生は元から都内出身だという。
電車に揺られている間、瑞稀はなんだかもじもじしていた。しきりに八子先生の様子を窺っているようである。当の先生は自前のポーチから化粧道具を取り出してメイク中だった。電車の中でメイクするのはマナー違反だが、水を差すのも野暮というものだろう。
目的地まであと二駅までさしかかっている。そのタイミングで瑞稀はスカートを握りしめ、思い切って声をかけた。
「あの、八子先生」
「どうしたのだ。トイレなら我慢するのだ」
「違います。お願いがあるんです」
そう言って頭を下げ、同時にノートを差し出した。さっきまで職場見学のメモを取っていたものだ。
「サイン、もらってもいいですか」
八子先生はあっけらかんと笑うと、丁寧に両手でノートを受け取った。
「そのくらい、お安い御用なのだ。別に改まらなくてもいいのだ」
「で、でも、作家先生に会うなんて、滅多にありませんし」
声がうわずって、上半身をしきりに上下させている。過呼吸にならないか心配だ。手慣れた様子でサインを書き終わると、これまた丁寧にノートを返却した。
「8子」と読めなくもない独特なサインだったが、瑞稀はノートがぐしゃぐしゃにならないか心配な勢いで抱きしめている。そんな彼女を八子先生は微笑みながら見守っていた。
「私なんかのサインで喜んでもらえるなら、作家冥利に尽きるのだ」
「瑞稀は小説とかが好きだから、なおさらだと思います」
「そうなのか。将来は作家なのか」
「えっと、まだ考え中です」
「もし、同業者になるなら容赦はしないのだ」
大人げなく腕まくりをする八子先生。漫画家と小説家では勝負の土台が違うような。むしろ、瑞稀の小説をコミカライズするとか協力関係になりそうである。
「ズッキーばかりずるい。私も欲しい」
「はいはい。書いてあげるから渡すの……」
「だ」と言い切る前に盛大に吹き出していた。ちらりと横目で盗み見ると、俺もまた毒牙にかかることとなった。
ノートの一面に描かれていたのは、渋谷駅と思わしき場所でお座りしている八子先生であった。しかも、隣でやたらとガタイのいい男がリードを握っている。
彼女のペンネームの元ネタはそいつだろうけどさ。相変わらず無駄に似ているうえに、いつこんな傑作を描いたんだ。そして、上野駅にある歴史上の偉人の銅像がごっちゃになっているぞ。
「君、やりおるのだ。ああ、お腹痛い」
白い目線が一斉に集中しちゃっていますけど、大丈夫ですかね。サインをもらった小野塚さんはどや顔でノートを掲げているし。間違いなく、瑞稀よりも小野塚さんの方が商売敵になりえそうだよな。
ちなみに、森野と小泉は二人でしりとりで対決、白熱してどこまでも熱くなっていた。ネッシーとかモンゴリアン・デス・ワームとか、おおよそ日常生活で使うことがないだろう単語が飛び出してきているのは気のせいではないだろう。最後は小泉が幸楽苑で爆死していた。ラーメンでも食べたいのかな。
駅から降り、迷うことなく八子先生は目的地へと歩いていく。繁華街からどんどん離れていき、静かな住宅街へとさしかかった。変哲のない一軒家が立ち並んでおり、著名人が住んでいるとは想定しにくい。どちらかというと一般人のお宅に突撃訪問しに行く心地だ。本当にこんなところに牟田先生はいるのか。
わき目も降らず歩き続けていた八子先生だが、古びたアパートの前で足を止めた。陽湖荘もお世辞にもきれいとは言い難いけど、それ以上にボロい。耐震強度からして大丈夫ではなさそうだ。カンタがいたなら「やーい、お前ん家、おっばけやーしき」と叫んでいただろう。
後ろ足を踏む俺たちをよそに、八子先生は一階のドアを叩く。インターフォンがないから仕方ないとはいえ、かなり大胆だ。
「牟田ちゃん、居るんだろ。返事するのだ」
近所迷惑を顧みず、大声で呼びかける。滞納した税金を取り立てているみたいで心苦しくなる。まさか、本当に滞納していないよな。
返事はない。ただの扉のようだ。ひたすらに沈黙が続く。郵便受けにチラシがいっぱいということはないようで、一応生活痕はあるようだ。隣なんか、典型的な空き部屋になっていて、チラシが数枚こぼれ落ちていた。
「留守なんじゃないでしょうか」
瑞稀がおずおずと口を開く。八子先生はより強く扉を叩くが、それでも返事はない。やはり、瑞稀の言う通り不在なのではないだろうか。
「いいや、そんなはずはないのだ。牟田先生が昼間から出かけるなんてありえないのだ。日光に焼かれると死ぬと言っていたのだ」
堂々と主張するけど、牟田先生は吸血鬼の末裔なのか。単に深夜逆転生活をしているだけだと信じたい。それはそれで問題があるが。
勢い任せだったのか、八子先生は手の甲をさすっている。このままだと、牟田先生と対面する前に彼女の手が壊れてしまいそうだ。漫画家としてそいつは命取りだ。
「利き手じゃない方で叩いたからよかったけど、このままじゃどん詰まりなのだ」
プロ根性をむき出しにしていた。利き手じゃない方の手の爪を噛む先生。森野や小泉と顔を合わせ、両手を上げる。残念だが、引き返したほうがいいかな。誰しもそう思った時だった。