夜明けが怖い 06
現在彼女は眠りに落ちているようです。
彼女が目を覚ますまでの間、こんな話はいかがでしょうか。
夜明けが怖い 06
企業間の取引における重要なことは、デメリットだ。メリットがあることは必然。お互いに有益なればこその取引だ。デメリットを如何にして明瞭な問題として浮かび上がらせ、回避する為に必要な対応策、その具体的な期間や資源を最小限にとどめるか。つまるところ商談とはその擦り合わせに過ぎず、担当が行うべきはリスク認識の正確性と具体性を持って場に臨むことだろう。
業界で7位と8位の企業併合。これは業界全体の活性化につながるだけでなく、企業首脳陣の目算では順当にいけば再来年には業界3位に至り得る。
その為に両企業で繰り返されている商談の1つだと言うのに私の心中では相手に対する不信感が渦巻いている。
資材の確保、生産ラインの安定化、運送費用の負担、対応する人材の確保と育成、実利と流用範囲、販売手段や宣伝方法。
確認して擦り合わせるべき点は山のようにある。
それにも関わらず、先方の課長はほとんど商談の場に現れていない。
初顔合わせの際に私の名刺を受け取って、
「あー、あんたが親父がメェかけてたってヒト? んじゃあ、あとコイツに任せるからさ。上手くまとめといて」
と言い残し、明らかに新入社員と見て取れる部下らしい女性に丸投げして去っていった愚物だ。
以後の機会に数回顔を出したが、会話の内容よりも携帯を弄ることに腐心しており、会話も成立した記憶がない。
後でその彼女から聞いたが、私が世話になった先代の縁故採用らしい。
私が先方の先代に鍛えられた話を聞いていたのだろうが、応対すら出来ない者を商談に出すなど正気の沙汰ではない。
だからこその補佐役なのだろう。彼女は新入社員にしては有能だった。数える程度にしろ課長を引き連れてきた事もだが、提示された資料や応対など、毎回妥協の無い姿勢で臨んでいる。
回を重ねる毎にスーツが草臥れ、化粧は濃さを増し、編み上げていた髪は結わえることさえなくなり疲労感が滲むようになってきたが。
それでも責任感なのか意地なのか、彼女は最終的な詰めまで商談を進めてきた。実質的な管理や対応をしていたのが彼女であること、課長が資料すら目にしていないことは明白だった。
本契約のため相手先の応接室で待っていた私の前に契約書類を残し、初日の様に「今からデートだから後ヨロー」と去っていった課長のサインを確認し、書類内容を確かめて愕然とした。
これまで話してきた事とは全く違う、全負担のほとんどがこちらだけに委ねられるような内容。
一体なぜ、と目を向けても課長は既におらず、呆然としていたところに、それが現れた。
応接室のドアが開いた音で部下の女性が代わりに訪れたのかと思いそちらへと目を向けると、俯きがちにそれは入ってきた。
一見、彼女と同様のスーツ姿。
このフロアに用があるものが間違えて入ったのかと思ったが、その姿をよく見て息が止まった。
スカートの裾は破れ、ジャケットとブラウスのボタンは爆ぜ飛んだのか幾つかを残すのみ。着崩れた服には赤黒い液体が染みており、明らかに何かしらの暴力の跡を匂わせる。
キューティクルをなくした髪はざんばらに顔を隠し、うっすらとその陰に紫の肌を覗かせており、僅かに漏れる呼気に合わせて嗚咽とも唸りとも聞こえる音が微かに耳に届く。
もしや何か犯罪的な事が起きたのかと腰を上げて近寄ろうとし、それが見えた。
先方の会社では情報保持のために社員証による出入管理を行っており、私も同じ物を身につけている。
赤いチューブ状のネックストラップ。
私の腹の上で揺れる来社証と同じものが、その首元にあった。
何重にも巻きつき、首元に食い込むように。
思わず息が止まる。
こんなにも明確に、普通にそこにいるかの如く認識出来る物だとは長い人生で知る機会はなかった。無論知りたくも無かったが。
応接室の入口は開かれたまま、その前に佇んでいるそれは何処を見ているのか、何を考えているのかわからない。迂闊に刺激する事も躊躇われ、かと言ってこうしているだけでも息苦しさを覚えて胸に手をやると、来社証が手に触れた。
不思議に思い下に目を向けて見れば、明らかに短くなっている。何故だ、と思うと同時に首に焼かれた様な痛みが走り、触れた手を弾く様に来社証が首にぶつかった。
痛みと驚きに首に手をやる。ネックストラップは留め具で長さを調整するようになっており、首にかけた時にはほんの少しだけ留め具からはみ出る程度だったはず。それが、限界まで締め付けられていた。慌てて外そうとした手が掴まれ、両腕が開く様に引かれる。何も見えないのに袖を抑える跡が浮かび、骨が軋む様な痛みに叫びを上げそうになるが、首が締め付けられて息をする事もままならない。
入口に佇んでいたそれはいつのまにかこちらへと近づいており、どこから出したのか鞄の中に手を入れていた。決して私に目を向けてこない事がより恐ろしく、あの鞄から何か得体の知れない悍ましいものが現れる様な恐怖を感じる。
誰でも良いから助けを求めようとして、目があった。
怪異とでも呼ぶべきものではなく、取引先の女性社員。これまでにも何度も対話をしてきた彼女が、慌てた様子で頭を下げた。
「すいません! 大変お待たせしました!」
力が抜けて倒れ込んだ私は、喉を掻き毟る様にネックストラップを振り払い、むせ返る。
何故解放されたのか不明だが、今のうちに逃げ出したい。
そう思いながら顔を上げると、彼女が書類を受け取っていた。
「先輩が用意してくれていたんですね。ありがとうございます」
まるで普通のことの様に振る舞う様に呆然となる私に気づいて、苦笑を浮かべて頭を下げた。
「こちらの書類は誤った物なので、お忘れください。正しい書類をご用意しましたので、ご確認ください」
そう言って机に契約書類を広げられても、正直思考が追いつかない。
まだ隣にそれがいるのだ。
私の視線に気づいたのか、彼女は当たり前のように、
「弊社では人件費削減のためにこうした雇用もしています。併合後は御社でも普通の光景になりますよ」
と言った。
さて、だいぶ時間が経ってしまいましたが、彼女が目を覚ます様子がありません。
余程疲れているのでしょうが、原稿を上げないといけないので、そろそろ起こしてあげましょう。
次話、最終話になります。