生活に必要なものは何かと問われて
生活に必要なものは何かと問われて、ある文化水準にあるおおよそ一般的な生活者であれば、金を考えつかないものはいないだろう。愛や自由は金では買えないが、しかし金があれば愛や自由について考える時間も持てるし、愛や自由に捧ぐこともできてよい。純粋でない愛や自由は、疲れて自信がなくなり窮地にたってくると媚びた嫌らしさやイジラシさが顔を覗かせるようで、やはりそれは生活に必要なのではなく、生活が必要とするような性質のものなのだろう。
生活は単純に衣食住についてではない。といっても生きることについての哲学云々の有難いお説教の成程でもない。まず、生活を可能にするのは仕事である。血をめぐらせるのは心臓であり、血を作るのは食物であり、食物を採るのは舌や歯や喉である。実際いろいろな仕事がある。ただ、世界経済の諸々の事情により、この仕事が当初の心臓からだいぶ隔たってしまった。悪いことではないのだが、こうなってくると仕事は潔白な仕事ではなくて、本来を意味に求めるようになる。心臓の鼓動に特別な意味などないのだが、そこからはなれて派生する新たな人工的な組織のなかで奮闘するならば、心臓のためにいかなる考えがあってかを意味という方法で取り結ぼうとする、これは形式的、制度的な立派な共同体である。そしてこの立派加減が行き過ぎて、もっぱらこの共同体は例えば企業と呼ばれる普通であるが、その中で論理を膨張させる。論理といってもつまりは至上の理由は金儲けのはなしで、論理自体は資本以上には及ばず、ただその鉄則をそのほかの分野領域に利巧に重ねてみるのである。なるほど稼ぐことの意味は永遠普遍でかつ道徳的ではないか。そうだ、稼がねば生きていけないぞ。養えないぞ。だらしがないぞ。稼ぎになるとは時代に必然の工程がある。その通りである。木が立っているように。
ただ私の違和感は、というよりも直感的な内心の決意なのだが、最低限稼いでいることに対して、もっと稼げとかもっと仕事しろとかもっと利巧であれという注文は、すべて生活の夢である。社会の希望である。目的がはっきりとした揺ぎ無い愛であり、信じられた世の中である。
私は歩くことはできるが、空を飛ぶことはできない。空を飛ぶ助走さえ、一歩もしたくない。しかし歩くことは大好きだ。