7.ただいま戻りました、老師
それから、三人は館の奥へと進んだ。
森の中、足元に石灯がともる回廊を歩き出した。回廊は、森の中を縦横に廻る通路だった。森の中に点在する、監察者や鎮静者達の個人の館の玄関に繋がっていた。
また、回廊の先には、集会所もあれば、食堂や作業小屋、検証者達の技能を上げる鍛錬所や、鎮静者達の憩いの館など、様々な建物があった。森の端には、かまど小屋や氷室小屋もあり、門近くには下位の者の住む長屋もあった。そして、中央寄りには、客人用の棟もある。もちろん、長老達の館もあった。
森に埋もれるように、茶を楽しむ為の月見の館があるかと思えば、長老達が集まって談議する中央塔や、危機に鎮静者達が集まる司令所も、広大な森の中に散らばっていた。
アッフェル・フォルト達は、蛇行する回廊を歩いていた。両側に低い垣根が連なり、その向こうに築山が見えた。池があって橋が掛る。作られた美しい内庭が見えた。月が昇ると影が長く伸び、幻想的な雰囲気を醸し出す。が、醸しているのは雰囲気だけではなく、その中のいくつかは、本物の幻想だった。監察者の館に掛けられた防御の一つだ。
バッセルは、アッフェル・フォルト達を追って、急ぎ足で回廊を歩いた。内庭はすぐに見えなくなって居住区に入る。長屋の前を過ると、格子窓の向こうで光が躍り、集会所の入り口では静かな声が聞こえた。長屋の裏を通り抜ける時には洗い物の音がした。回廊は、家々の間を通り過ぎると、いつしか静かな森にかわり、周囲の建物は消えていった。
屋根のある回廊は、玉砂利の小道に変わり、頭上に星明かりが灯りだす。木々は竹林に変わり、砂利を踏んで先へ進む。すると、竹林の向こうにぽっかり開いた空間が見えた。広い場所にぽつんと、畑に囲まれた家がある。白い漆喰と黒い建材でできた小さな平屋で、良く見ると入口の引き戸には色ガラスが嵌まり、出窓の庇が長い。小さいながらも瀟洒な建物だった。竹林から伸びる生垣の向こうに、部屋の明かりが見えた。煌々とし、玄関を明るく照らしていた。
人がいた。明かりを背にした姿があった。小さな姿で、近づくと、濃紺の上着を着ていた。襟が高く、袖が広い。頭をそり上げた老人だった。巻きつけるような着物を幅の狭い腰帯で留め、腕を組んで顎を引き、こちらをじっと睨んでいた。目の前まで来ると、
「ただいま老師!」
と陽気に言ったのは、アッフェル・フォルトだった。そして、
「ただいま戻りました、老師」
と丁寧に続けたのは、シェルフォードだった。
アッフェル・フォルトの陽気な挨拶に、表情をピクリともさせない老師に、シェルフォードは、いつもと変わらない丁重さで話しかけていた。そして、バッセルが、彼らの後ろから、今さらながら前に出て、
「お二人をお連れしました」
と口早にいった。と思うと、老師がくわっと口を開けた。バッセルは、すぅっと息を吸い込み、覚悟を決め、老師の怒声を待った。が、声は聞こえず、老師はゆっくりと口を閉じた。老師は、まるで何もかも見透かすように三人を見ていた。
アッフェル・フォルトはにやにや笑ったままだった。シェルフォードは表情を変えず、バッセルは口を真一文字に結びつづけていた。老師は、そんな三人を見ていたのだが、ため息をつくと、
「光の後始末、御苦労だった」
とねぎらうように言った。バッセルの目が、老師を睨むようにひたすら見据えた。老師はその顔を静な眼で見ていた。バッセルは、口を動かすどころか、身体一つ動かせなかった。何もかも見透かされていると思った。光の神を造った犯人は自分で、その事を言う気が無く、ごまかそうとしている、と言うところまで知っていると感じた。何の根拠もなかったのだが、老師ならきっと何もかも見ただけで分かってしまうと思っていた。
しかし、老師は何も言わず、穏やかな声のまま、
「中にお入りなさい」
と言ったのだった。その穏やかさが、バッセルは怖かった。アッフェル・フォルトは、
「疲れた。御茶菓子はありますよね? 今日は何があるんです?」
と無邪気に言って、老師の声に従って玄関をくぐった。シェルフォードも、老師の視線もどく吹く風と言った様子で、表情を変えずに、
「失礼いたします」
と言って、アッフェル・フォルトに続いた。ただ一人、いたたまれなさから動けなくなっていたバッセルに、老師はまっすぐ目を向けた。バッセルが、ごくりと唾をのむ。と、穏やかな声で、
「茶を入れてくぬのか?」
と聞いたのだった。
バッセルは、目を見開いて、別の意味で青ざめた。御茶の用意は、その場で一番下位の者の仕事だった。部屋の中には、老師付きの監察者がいて、このままでは、彼に仕事を押し付けてしまうことになる。バッセルは、慌ててシェルフォードを追い越し、アッフェル・フォルトの脇をすり抜けて、彼ら三人の御茶の支度をする為に、老師の部屋へかけて行くのだった。老師はそれを見て、
「彼か」
と呟いた。玄関枠に手を掛けて立っていたアッフェル・フォルトが、
「いい子だよ」
と続けた。シェルフォードは黙ったまま、老師が玄関へ入るのを待って、色ガラスの引き戸をゆっくりと閉めた。
天井から下がるランプの明かりが四方に伸びる。白い漆喰の壁にランプの枠がオレンジ色の影を描いていた。
中央にある鉄ストーブの前で、バッセルは、薬缶をそっと持ち上げる。慎重に動いて、台座に置いた小さな茶器にお湯を注ぐ。茶器を乗せる鉄盆に、たっぷりとお湯がこぼれだす。茶器と茶器の中の葉が同時に温まると、つんと刺激のある葉の香りがゆっくりと立ち昇り、部屋中へ広がって行った。もっともくつろげる瞬間だったのだが、部屋の中には、言い知れない緊張が漂っていた。
鉄ストーブの脇には、楕円のテーブルがあった。年輪の美しい年季の入ったテーブルで、歴代の長老たちが語りあっていた場所だった。そう思うと、バッセルは震えが来そうなほど緊張したのだが、老師に言わせると、老人の茶飲みついでの与太話ばかりが残っておるのぉ、となるのだが。
そのテーブルの前に、アッフェル・フォルトは遠慮なく、背中をだらしなく椅子に預けながら座り、軽く脚を組んだ。シェルフォードはアッフェル・フォルトの後ろに立った。いつもと違って神経質そうに見えた。いつもは身体に撒くようにローブを着ているのだが、今は肩から背に払いあげ、腰の剣帯を見せながら立っている。警戒を隠そうともしていない。
老師はと言うと、部屋の隅にある、出窓の下のソファーセットの側にいた。ローテーブルの脇に立って、手を前で組んで、丁寧に会釈をする。そこには、いかめしい顔の男が一人、ソファーだと言うのに全くくつろいだ様子もなく背筋を伸ばして座っていた。しんと静まり返った部屋の原因は彼だった。
バッセルがそっと茶器を湯の中からすくい上げると、刺激のある香りが、甘く変容し、部屋の中に優しい空気を醸し出した。そして、それが合図であったかのように、男がすっと立ち上がって、
「いったい、これはどういうことか、ご説明願えましょうか」
と言ったのだった。