3.バセロン・オーン
アッフェル・フォルトの空気が、柔らかいものへ変わる。しかし、シェルフォードは、アッフェル・フォルトへ、
「おまえの宣誓を覚えているか?」
と低く聞いていた。
バッセルは、背中に冷たいなにかが駆け上がった。シェルフォードの声は冷たく、鋭い上、問いかけた意味が、監察者としての宣誓を忘れたのか、と言う意味にも取れた。何か恐ろしい犯罪を目の前にしているような気持ちになった。
アッフェル・フォルト様が犯罪? 宣誓を忘れることなんてできないのに。と自分に言って聞かせる。言って聞かせながら、シェルフォードの言葉が、何を意味しているのか分からなかったのだが、分からなくていいような気がした。
アッフェル・フォルトはまだ感情の抜け落ちた顔のまま、
「私は宣誓をした。宣誓は絶対だ。おまえは知らないのか?」
と答えた。シェルフォードは、わずかにこわばった頬の力を抜いて言う。
「私は、生まれた時から人間だから、おまえのルールは知らないんだ」
「私もたぶん人間さ。そのはずなんだ」
とつぶやいた。不安な響きを感じた。しかし、アッフェル・フォルトは、シェルフォードから視線を逸らしただけだった。再び、震えている男を見る。
「バセロン・オーン。おまえが、私に見せた世界を告げておこう。知っての通り、私は監察者。人の想いに枷する者だ。おまえの想いを読み取る者だ」
そう言うと、男は、バセロン・オーンは唾を飲んだ。しかし、アッフェル・フォルトが話しだしたお陰で、人間味を感じたのだろう。どこか、ほっとしたような顔をしていた。
「バセロン・オーン。おまえが入国する姿が見えた。外の国の者じゃあないな。再入国か。出入国管理官への宣言が見える。何をして、外へ出た? 再入国は難しかろう? ああ、あったあった。おまえの記憶の断片だ。描きたかった、と言うわけか。小説を、文章を。心行くまで書く為に、この国を出たのか。元は、この都の生まれ。おまえの妻が、おまえを追って出国している。今は、隣国、ルフェンで病床にいる、のか?」
と迷うように言った。そして一言、
「歌姫か」
と呟いた。どこまで何を見ているのか、アッフェル・フォルトは黙ったまま、男を見下ろしていた。が、すぐに、言葉を紡ぎ始める。
「出国歴のあるおまえが、再びこの国に舞い戻れたのは、出入国管理官が許したからだ。我らに阻む権利はない。物語を描く為の出国だ。なのに、なぜ、再入国が許可されたのかは不明だがな。外国で病床についた妻の為に、故郷の様子を伝えたくて戻ってきた、と言う気持ちは分からなくもない。ここは、どことも違って美しい。また、だからこそ、故郷の様子を書き留めたくなるのも通り。そんな思いを出入国管理官が汲んだのか、はたまた、単なる記録を書きとめる程度で、あのような映像を生むほどの能力があるとは思わなかっただけなのか。私には分からない。お人よしがいたのだろう」
そう言って、アッフェル・フォルトは声を改めた。
「書く、と言う事以外なら、監察者の監視の下、おまえの入国許可期間、残り二十日の間を、自由に過ごす許可を与える」
そう言って、再び左手を上げ、男が合わせるのを待った。男は腕を震わせながらも、アッフェル・フォルトの手にあわせた。そして、アッフェル・フォルトが、
「この国にいる二十日間、決して、物語を書かない、と誓え」
と言うと、バセロン・オーンは、堅い声で、
「この国にいる二十日間、決して、物語は書きません」
と告げた。永久に書かないと言うのにくらべ、随分優しい処置に思えた。
男は再び棒を飲んだように固まった。まるで、木偶人形がそこにあるかのように見えた。目の前で、アッフェル・フォルトが手を合わせたまま立ち続ける。じっと、男の顔を覗き込むように見下ろして、身じろぎ一つせず、何かを探すように眺め続ける。
それを見ていたシェルフォードが低く、
「あそこまで徹底的に、胸の内にある、書きたいと言う気持ちに罪の意識を被せられ続けられたら、今後一生、物語どころか、サインすら書けなくなるんじゃないか」
と呟くと、バッセルが、
「一生ですか?!」
と声を低めた。
バッセルは、自分が、監察者の宣誓をした時の事を思い出していた。完璧な記憶力を授けられたと言えば聞こえはいいが、あの宣誓の瞬間、バッセルは何度も覚えた事を忘れると言うイメージに襲われた。その忘れると言うイメージが表れるたびに、無の恐怖を感じ、自分がそこに存在する意味が無いとすら感じるような、言い知れない恐怖を味わい続けた。忘れる、と言う事を自分の中から抹消したくなるほど、何度も何度もイメージは繰り返されて、いつしか、「忘れる」と言うのがどういうことか忘れたころに、宣誓式が終わっていた。
今、あれと同じことが目の前で起こっている。そう思うと何とも言えない気持になった。自分も、あんな人形みたいな顔をして、宣誓の瞬間を過ごしていたのだろうか、と思うと情けないような気もしてくるし、また、あの時に上書きされた恐怖を思うと、二度と宣誓はしたくないと思うのだった。シェルフォードは、バッセルの恐怖に気づかないのか、
「まあ、国にいる間は、となっているから、大丈夫だろう」
と気の無い答えを返した。
永遠とも思えるような時が過ぎて、しかし、ほんの瞬きするほどの間に、男は宣誓を終えた。アッフェル・フォルトは、満足そうに男を見下ろし、
「二十日間で国を出るなら、色々、見物に忙しいはずだ。メモなら、バッセルが得意だから、こいつに任せてしまうが良い。な! バッセル」
バッセルは頷いた。が、すぐに顔を上げて、
「ダメです。私は、あなた方お二人を、監察者の館にお連れしなければなりません。ここに残って見張り続ける事なんかできません!」
「やるんだよ」
「ダメです」
「やるんだ。私がやれと言ったんだから、やるんだ」
「老師は、あなた方を連れて来なさいとおっしゃったんです。老師の言葉が絶対です」
「なら、私達が行けばいいだけの事だろう」
「行かないじゃないですか!」
「宣誓をしてやろうか?」
「嫌ですよ。きっと、いつかは行く、とか何とか、宣誓しても意味のない宣誓をするんでしょ?!」
アッフェル・フォルトがふふっと笑った。楽しそうな笑いだった。と思うと、座ってまだ呆然と自分の手を見下ろしている男に、
「と言うことで、悪いが一緒に来てもらうぞ」
「どこに?」
「監察者の館に」
と言うと、男は動揺を見せた。しかし、アッフェル・フォルトは、
「なに、すぐに出てこれるさ。宣誓をしているんだし、捕まえようとしたりはしないさ。それに、どうせ故郷の事を語りたいなら、監察者の館を見て、中の様子を語ってみるのもいいだろう? 国にいる者だって、そうそう中を見れないし」
その脇で、バッセルが低く、
「見たくない、ってだけじゃないですか」
と言うのだが、アッフェル・フォルトは聞こえなかったように無視をした。そして、
「ここは、おまえの親族の家か?」
「え。いえ。知人の家です。親族はもういないので」
と呟くように答えると、アッフェル・フォルトは、
「そうか。ともあれ、中に断ってこよう」
と言って、家の中に入って行った。声を掛け、人を探しながら奥へと消えた。
バセロン・オーンは、ぼんやりとベンチに座ったまま自分の手を見ていた。ペン蛸ができた手は白く筋張っていて、書くこと以外には何もしたことが無いような手だった。バッセルが見ていると、静かに目をつぶる。すると、何が見えるのか苦しそうな顔をして息を詰めた。バッセルは傍で立って見張っていた。
苦しそうな顔を見ると、宣誓をした時の、恐怖が抜けないのだろうかと心配になる。後遺症は無いはずなのだが、しばらく夢に見るかもしれない。そう思っていると、視線に気がついたのか、バセロン・オーンは目を開けてバッセルを見た。見上げる目は灰色の空洞のようだった。バッセルが、ぞくりとして見つめていると、バセロン・オーンはゆっくりと空を掴むように手を伸ばして来た。あまりに空虚な表情に、バッセルは恐怖を感じて動けなかった。バセロン・オーンは、ゆっくりとバッセルの短いローブの端を掴んだ。手繰り寄せるように両手で掴み、顔をすぅっと近づけると、かすれた声で一言、
「神」
と呟いた。バッセルの耳に音が届いた。そして、自分の中で何かがはじけた。
離れた場所で、シェルフォードが何か言っているように見えた。大声を上げて、駆け寄ってくるようにも見えた。しかし、バッセルは、天空から落ちる光が見え、光の渦が滝のように襲って落ちてきた、と思うと何もかもが見えなくなった。四方に、大地に、光の渦が湧きかえる。音の無い濁流のような光に、息もできずに、
「あ、あぁ、あ」
と声にならない声を上げた。と、どこからか、「すみません」とかすれたような声が聞こえた。聞こえたような気がした。しかし、バッセルの耳に届いたようには見えなかった。バッセルの目には、光しか見えなかった。音さえも聞こえない。おぼれそうな光の波に手を上げ、腕であがき、どこか、指の先に何かがひっかかり、しがみついた。とその指の先から、鋭い痛みがほとばしり、手の筋から目の奥へと痛みが駆け抜けて、
「うっ!」
と声を上げると、唐突に視界が戻った。
アッフェル・フォルトが怖い顔をして見下ろしていた。厳しい目で、バッセルの手を掴み、指の先に小刀を突き立てていた。アッフェル・フォルトの背後で、アーチの外へ、シェルフォードが駆けて行く姿が見えた。そして、唐突に音が戻った。わんと響く音は人々の興奮に満ちた騒ぎの声で、中庭の外から、中庭の空から襲いかかるような音となって響いていた。
アッフェル・フォルトは腰ベルトの下から小さなスカーフを抜き出すと、バッセルの指を拭って止血をした。そして、一言、
「おまえは何もやっていない」
と言った。バッセルは、ぼんやりした頭で、それは違う、と考えていた。自分があの男の声で反応したのだ、と言うことに気が付いていた。
目の前にいた、バセロン・オーンは消えていた。シェルフォードが走り出したアーチの向こうに走り去ったのだろう。バセロン・オーンは、あの、ほんのわずかな呼吸をする間に、虚無の不安のイメージを造り上げ、その直後に「神」と言う言葉を使って、バッセルに光の神をイメージさせた。唐突なイメージは、バッセルの制御を外れて、光の滝となって自分を襲い、そして、街の中へ光の渦のイメージを造りだした、のだろう。
「ぼ、僕が。か、神を」
と、動揺したバッセルに、アッフェル・フォルトはぐっと痛いほど力でバッセルの指を縛り上げた後で、
「お前じゃない。バセロン・オーンがやったんだ」
と短く言った。青ざめた顔で見上げる少年に、アッフェル・フォルトは厳しい顔のまま、
「そして、神じゃなく、大滝だ。あれは滝、光の滝だ。バセロン・オーンは失敗したな」
と言って、片頬で不敵に笑った。
「でも」
「神を見せるのは大罪だ。監察者といえども例外じゃない。ドボーグの街にいる、おまえの親族にまで罪は及ぶ」
バッセルは顔を蒼白にしたまま、
「でも、街の人々はあれを見たのですから」
「見たのは光だ」
「でも、あれは神です。僕は光の神だと知っています。それに、あれは神だ、何かの前兆だ、と言う人が現れたら」
「おまえが神を知っている? それは、神への挑戦か? 神の定義がころころ変わる神殿への厭味になるぞ。あれは滝だ。神だと騒ぐ人間が現れたら、監察者の仕事が増えるだけだ。おまえは第一級の犯罪人を取り押さえようとして、逆に、光の滝を見せられて逃げられてしまっただけだ」
「でも、あれを造ったのは僕です。僕があんな、あんな酷いイメージを造ってしまったせいで」
とバッセルが言うと、アッフェル・フォルトは動きを止めた。そして、バッセルを覗きこんだ。
「あれを酷いと思う人間はいない。光と浄化。素晴らしいイメージだ。ここ数日は犯罪が半減するだろう。神を思わせるほどの光のイメージは、おまえに純真な心があるからだ。あれを酷いと言ったりするな。本当に良い物は、良いものだと記憶しておけ。でなきゃ、この先、判断を誤るぞ」
と告げた。バッセルは、アッフェル・フォルトを見上げたまま動けなかった。
アッフェル・フォルトはそんな少年を見て、ふふふと笑った。
「で、仕事は増える。後始末も必要だしな」
と言って、すっと下がった。そして、
「老師に、犯人を逃してしまってごめんなさい、と言いに行きたいなら行くがいい。神うんぬんは、言いたきゃ言え。私は、滝が落ちて来ただけだと言うからな。太陽がまぶしすぎるのが悪い、とな。陽光があそこまで反射しなければ、豊麗山脈の幻の大滝を見たはずだと言うからな」
と言って、さらに下がった。そして、
「バセロン・オーンは失敗したんだ。神じゃなく、滝だったんだ。それが、監察者の館の矜持を護る事にもなる。老師はそっちを歓迎する。と言う事で、私は仕事で忙しい。そのせいで、館には行けなくなったと伝えてくれよ」
と言って、背を向けた。トンネルを抜けて大股で外へ行く。バッセルは慌てて、
「アッフェル・フォルト様!」
と声を上げた。アッフェル・フォルトは背を向けたまま、片手を上げてひらっと手を振るだけだった。バッセルは、口の下を噛んだ後、
「僕は失敗したんです!」
と大声で怒鳴った。アッフェル・フォルトは、片手を上げたままだった。
「アッフェル・フォルト様! 僕は監察者なんです。イメージの犯罪を取り締まる、監察者なんです!」
「報告したきゃ、館へ帰って、勝手に言え! 大滝だって立派な犯罪。そう言って、反省していますと言い募ったら、半月ほどの幽閉処分にしてくれるかもしれないぞ」
バッセルはカッとなった。
「幽閉処分って、そんな処分は存在しないじゃないですか! バセロン・オーンのせいにしたら、業務上のトラブルで終わりますよ! 見習いだからってごまかさないでください! アッフェル・フォルト様! 僕が作ったのは」
と怒鳴りかけた時だった。耳元で、低く地の底から響くようなアッフェル・フォルトの声がした。
「本物の神を見たいか?」
バッセルが思わず口を閉ざしてしまうほどの声だった。アッフェル・フォルトが、耳の中で響く声をイメージしたのだ。しかし、イメージと言うより、本物の声にしか聞こえなかった。ぞくりとするほど人の気配が無い、冷気に満ちた声だった。バッセルが固まっていると、当のアッフェル・フォルトは背を向けたままアーチの向こうへ消えてしまう。
「相手にする気もないんだ」
とバッセルは、低く呟いた。「言い訳もさせてくれない」バッセルは、そう口の中で呟いた後、
「僕にも」
と言いかけて、口の端を舐めた。そして、
「私にも、この光の滝の後始末をする責任がある」
と言いなおした。両手が震えているのが分かった。神のイメージを造った事実は、恐ろしくて、怖かった。それでも、アッフェル・フォルトを追いかけて駆けだしていた。「監察者だから」「責務があるから」そう呟きながら、バッセルは、ただただ何かしなければと後を追った。