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前編

 石臼をゆっくり回すと、芳ばしい香りがあたりに広がった。挽かれた黒い粉が、臼の周りの溝に落ちてくる。

「やっぱり、石の重みが助けてくれると楽だわ……すり鉢とすりこぎで粉にするのは大変だったもの……」

 チェルルは溝にたまった粉を集め、布のフィルターに入れた。三脚にセットし、下には温めたマグカップ。

 沸かしてあったケトルの湯を、ゆっくり注ぐ。泡が、ふわあっ、と盛り上がり、そしてゆっくり沈み始めた。沈みきる前に、もう一度湯を注ぐ。

 マグカップの中で、香り立つ黒い飲み物が艶めいた。

 チェルルは厳かにカップを取り上げ、一口、口に含む。

「……っ美味しいっ!」

 一つうなずき、カップを置くと、チェルルは足下の小さな石臼に抱きついた。

「奮発したかいがあったわ……! これでお店を開ける!」

 そしてパッと立ち上がって駆け出し、作業場の壁に立てかけてあった木の板を、さらうように手に取った。そのまま外に飛び出す。

 ぐるりと回り込み、家の正面に出た。大きな窓のある小さな家を自ら改装し、窓の上にひさし、窓の内外にカウンターをつけてある。店として使えるように、準備は整っていた。

 チェルルは、畳んであった蝶番付きの板を少し開くと、店の前に慎重に立てた。板には文字と絵を焼き付けてある。


『チェルル・コーヒー』


「お父さん、お母さん、見守っててね」

 その看板を見つめてチェルルはつぶやくと、顔を上げた。

 いよいよ、開店だ。


 ベオルート王国、ウィウムレッド地方、クグリスの町。

 大きな町ではないが、都市と都市の間の中継点として、それなりに栄えている。

 チェルルの父は、かつてこの町の郵便局で働いていた。郵便局は雑貨店を兼ねており、手紙を運ぶのと同時に様々な品物が行き来する。

 その中に、コーヒー豆があった。生豆だ。

 ウィウムレッドでは紅茶がよく飲まれていて、コーヒーを飲ませる店はなかったので、父が持ち帰ったそれを十二歳のチェルルは初めて見た。

 父が商人から聞いた話では、この生豆をじっくり煎ってから砕いて湯を注ぐと、美味しい飲み物になるらしい。二人はああでもないこうでもないと意見を出し合いながら、豆を黒くなるまで煎った。

 そして、ナイフの柄で砕いた豆を湯で抽出した“コーヒー”に、衝撃を受けた。

「美味しい! これ、きっと流行るわ! 私、学校を出たらコーヒー屋さんやりたい!」

 意気込むチェルルの夢を、父は面白そうに応援してくれた。チェルルが焙煎や抽出をあれこれ試すたび、味見して意見してくれた。

 その父は、今はもういない。馬車の事故で、亡くなってしまったのだ。

 卒業まであと少しだった十五歳のチェルルは、郵便局で働きながら金を貯め、親戚や父の友人たちの助けを借りてどうにか学校を卒業した。そして十六歳の春、ついに開店にこぎ着けたのだ。


「開店おめでとう!」

 かつての級友たちが、お祝いにかけつけてくれた。チェルルは早速、コーヒーを振る舞う。

「ブラックは苦手だけど、ミルクと花蜜をいれたやつは美味しいよ」

「コーヒーの生の豆は、雑貨店で取り寄せてもらってるんだね」

「食べ物のメニューは何かある? 考え中?」

 店の前に出したいくつかのテーブルと椅子を、彼らはわいわいと賑やかしてくれる。

「『チェルル・コーヒー』……すごいな、自分の店を……自分の名前をつけた店を持つなんて」

 友人の一人に言われ、チェルルはにっこりと答えた。

「ぴったりだと思ったの。コーヒー豆って、収穫されたときは赤いから『コーヒーチェリー』って呼ばれるんだ。ね、チェルルとチェリーって似てるでしょ。それに……」

「それに?」

「チェルルって、小さい頃に亡くなった、お母さんがつけてくれた名前なんだけどね。大昔の、異国の王様の名前なんだって」

「王様? 男?」

「そう。なんだかこう、雄々しくお店をやっていけそうな、力強い感じがするでしょ?」

 コーヒーの生豆は、海を渡ってやってくる。

 このベオルート王国という異国にあっても、存在感のあるコーヒー。そして病弱だった母が、娘は強くあるようにとつけた名前……それらの全てが、店の名前はこれしかないと、チェルルの背中を押したのだった。

  

 こうして、店は徐々に軌道に乗り始めた。まだまだ紅茶文化が主流で、そこまで客が多いわけではなかったけれど、『チェルル・コーヒー』は店主が一人でやっていくのにちょうど良い規模の店になっていった。


 その日も、チェルルはせっせと仕事をしていた。

 店でコーヒーを出すには、すり鉢とすりこぎの作業でコーヒー豆を挽いていてはとても追いつかない。もっとも手近な道具は石臼だが、小麦用の石臼では豆が細かくなりすぎ、すぐに臼の目が詰まってしまう。また、その粉でコーヒーを淹れると、今度は布のフィルターが詰まりやすい。

 十二歳の頃から色々と試していたチェルルには、それがよくわかっていたので、中挽きに挽ける石臼を特注していた。コーヒーミルというものがあることも知ってはいたが、遠くから取り寄せるにしろ注文して作ってもらうにしろ、かなり金がかかるのだ。

 石臼で、午前に一回、午後にも一回、使う分だけ豆を挽く。焙煎は、休みの日にゆっくり行う。そんな流れで、チェルルは働いていた。

 昼でいったん店を閉め、簡単な昼食をとってから午後の分の豆を挽いていると、店の窓をゴンゴンと叩く音がした。

「はーい」

 午後の営業は二時からなんだけれど、と思いつつ、カウンター越しにカーテンを引き窓を開けてみる。

 ひょろりとした身体をスーツに包んだ、中年の男性が立っていた。

「コーヒーを買えるというのは、ここですか」

「はい。午後は二時からです」

「一杯、注文したいのですが」

「ええ、あの、準備中です」

 話、聞いてる? と思うチェルルだったが、あまり言うようなら仕方がない。急いで湯を沸かそうか……と考えた。

 男性は、手にした布包みを開きながら、こう言う。

「コーヒーを、これに入れて持ち帰りたいのですが」

 コルクの蓋のついた、ガラス瓶だ。

「ええと、どちらまで?」

「伯爵邸まで」

「は、伯爵邸!?」

 チェルルはぎょっとした。伯爵というのはつまり、このあたりの領主だ。

「あの、コーヒーをお飲みになるのは、どなたなんでしょう?」

「ウィウムレッド伯爵、エドルウルフ様。私は伯爵邸の執事です」

 エドルウルフ・ノーザンシア。このウィウムレッド地方を治める領主だ。父伯爵が急逝して代替わりしたばかりだと聞いているが、とにかく、貴族である。

「エドルウルフ様の領地で初めて、コーヒーを出す店ができたと聞いて、飲んでみたいと。一杯、ご所望です」

 執事と名乗った男性は言って、ガラス瓶をカウンターに置く。

 チェルルは迷いながらも答えた。

「でも、伯爵邸は、森の向こうですよね。お時間がかかって冷めるんじゃないかと……」

「はい」

「ええと……温め直すときは、湯せんで」

「湯せん」

「瓶ごと、お湯につけていただいて。でもやっぱり……少しは味が落ちるかも」

 もごもごと言っていたチェルルは、迷いをふっきり、はっきりと言った。

「ここで飲んでいただくのが、一番美味しいと思います。コーヒーが一番美味しいのは、豆の煎りたて、挽きたて、淹れたての時なんです。だから、あの」

 執事は淡々と言った。

「持ち帰って、伯爵がお飲みになるときにそうお伝えしましょう」

「……少々お待ち下さい」

 チェルルは肩を落としながら、埋み火にしていたかまどの火をもう一度熾こし始めた。

 もしも領主に気に入ってもらえず、あの店はダメだとでも言われたら、たちまちそんな評判が広まってしまうだろう。だから、本当は一番美味しい状態で飲んで欲しかったのだが。

『チェルル・コーヒー』の評判に傷がつかないか、気を揉みながら、チェルルは執事がコーヒー入りの瓶を持って立ち去るのを見送った。


 それから数日が、何事もなく過ぎた。

 すっかりコーヒーにはまった近所のご隠居や、郵便局の配達員たちで、週明けの午前中の『チェルル・コーヒー』は賑やかだ。

(領主様、お持ち帰りコーヒー、気に入ったのかしら。せめて「まあまあ」くらいの評価だといいんだけど)

 午後の営業を開始してすぐは、客が少ない。チェルルはカウンターに片肘をついて、思いを巡らせていた。

 そのとき、一人の少年が、ふらりと店に近づいてきた。さらさらの金髪、鳶色の瞳。パリッとした白いシャツに黒いズボン、ダークグレーのベストを着ている。

 チェルルが「いらっしゃいませ」と言うと、その十代前半の少年は店をじろじろと見回してから、カウンターの前に立った。綺麗な手が、カウンターにコインを置く。

「コーヒーを」

「はい」

 キャニスターからコーヒーの粉をスプーンで計り、濡らしてあった布フィルターに入れて、チェルルはケトルを手に取った。

「さっき挽いたばかりの豆なので、美味しいですよ」

 そう言うと、少年はぶっきらぼうに言った。

「知ってる」

「あ、コーヒー、詳しいんですか?」

 この町の人じゃないのかな、とチェルルが湯を注ぎながら思っていると、少年はフンと鼻を鳴らした。

「お前が言ったんだろうが」

「え?」

「コーヒーが一番美味しいのは、煎りたて、挽きたて、淹れたての時だと。お前がそう言ったと聞いたぞ」

「…………」

 チェルルは次の湯を注ぎ、コーヒーの泡が沈むまでの間、しばらく考えていた。

 が、次の瞬間、ハッとしてケトルを取り落としそうになった。

「うわ、っと、っと」

 急いでケトルを置きながら、声を上げる。

「りょ、領主様!?」

 少年はねめつけるように、チェルルを見上げた。

「美味いコーヒーが飲みたかったら、自分から来いと言ったんだろ? だから来てやった」

「そっ、そんなこと言ってません! ここで飲むコーヒーが一番美味しい、と言っただけです!」

 チェルルは反射的に叫ぶ。目の前の少年――ウィウムレッド伯爵、エドルウルフ・ノーザンシアに。

 伯爵は代替わりしたばかりだ、と、聞いてはいた。だが、まさかこんなに若いとは思っていなかったのだ。チェルルには、少年は十二、三歳くらいに見える。

 あの執事はいったい、自分が言ったことをどんな風に伝えたんだ、とチェルルが大混乱していると、エドルウルフはちらりと彼女の手元に視線を落とした。

「淹れ終わったならよこせ」

「えっ? あっ」

 チェルルはあわてて、マグカップを差し出す。

「ミルクと花蜜が」

「いらない」 

 エドルウルフは言いながらカップを受け取ると踵を返し、テーブルに置いてから椅子に腰掛けて足を組んだ。年若くはあるが、態度は大きい。

 彼は、カップを顔に近づけて、いったん止めた。無表情だが、香りを楽しんでいるらしい。

 そして彼は、コーヒーを一口、飲んだ。

「……ふーん。チェルル、と言ったか、お前の言うとおりだな。ここで飲んだものの方が、美味い」

「ありがとう、ございます?」

 お礼を言いながら、チェルルはつい無遠慮に、エドルウルフの表情を観察する。

(眉間にしわが……苦かったんじゃないの?)

「チェルル」

 足を組み替え、エドルウルフが彼女を見た。

「お前、うちで、メイドをやらないか」

「……は?」

「毎日、俺にコーヒーを淹れろ。必要なものは全て揃えてやる。コーヒーを淹れるメイドだから、コーヒー・メイドだな。お前、一人暮らしなんだろう? うちの方が安全だし、給料も弾むぞ」

 しばらく、目を丸くしてぽかーんとしていたチェルルだったが、やがて怒りがふつふつと沸いてきた。

 少年は、この店がチェルルにとっていかに大事なものか、わかっていないようだ。

「私、お世話になった人たちに恩返しをしている最中なんです」

「何だ、金か? それなら、支度金代わりに払ってやるぞ」

 エドルウルフの言いように、チェルルはもう一段階、カチンと来た。

「お金の問題じゃありません。私が父に話していた夢を叶えたこと、毎日元気にやっているのを見せること、美味しいコーヒーをお出ししてくつろいでもらうこと、全部が恩返しです。コーヒーが大好きな常連のお客さんもいます。そういう人たちが、私が伯爵邸に行ってしまったらコーヒーを飲めなくなります。ですから、私はここでお店を続けます」

 きっぱりと言い切る。

 エドルウルフは、ふいと視線を逸らすと、しばらく黙ってコーヒーをちびちび飲んでいた。

 諦めたのだろうか、とチェルルが黙って見守っていると、しばらくしてエドルウルフは言った。

「では、必要なときにうちに出張しろ」

「は?」

 チェルルはまたもや、目を丸くした。

「出張……?」

「客が来たときに、美味いコーヒーを出したい。そういう日だけ、うちでコーヒー・メイドになれ。出張メイドだ」

「いや、ですからお店が」

 言い募ろうとしたチェルルに、エドルウルフはピッと指を一本立てた。えっ、と言葉を飲み込むと、彼はその指をスッと横へ流し、何かを指さす。

 カウンターから頭を出し、窓の横の壁を見たチェルルは、ウッ、と口をひん曲げた。そこには、学校で使っていた石版を使い回して宣伝版にしたものがかけてあるのだが、こう書かれている。


『毎月一日は、ファーマーズ・マーケットで営業』


 月初めの日、町の広場では市場が開かれる。その日だけは、チェルルはリヤカーに道具を積んで広場にでかけ、広場で『チェルル・コーヒー』を営業するのだ。

「店を離れること自体はあるのだろう? なら、お前が暮らす土地の領主のために、たまに一日くらい出張しても構わないよな?」

 エドルウルフの言葉に、うう、と、チェルルはうなった。

 領主にはもちろん、普段の生活で世話になっているのだから、恩返しするのが筋かもしれない。色々と便宜も図ってくれるようであり、給料も出るようであり、言い方が気にくわないのをさっ引けば、これも仕事だと言える。彼はまだ若い……言い方くらいは流してこそ、立派に店を切り盛りする店主の余裕かもしれない。

 チェルルは声を抑えながら、

「……わかりました。ただし、せいぜい月に一回程度にして下さい。それと、ちゃんと事前に、その日を決めてお知らせ下さい。この石版に書いてお客さんにお休みの日を知らせるので」

 声を抑えながらチェルルが言うと、エドルウルフは鷹揚にうなずいた。

「要求の多いコーヒー・メイドだな。だがまあ、よかろう」

「メイドじゃありません、『チェルル・コーヒー』の店主です!」

「わかったわかった」

 エドルウルフは立ち上がると、ニッ、と笑った。

「では、日取りが決まったら使いを寄越す」

 彼はそのまま、店に背を向けて立ち去っていった。通りの向かい側に馬車が止まっていて、御者が頭を下げるのが見える。

「まったくもう、偉そうに。いや、偉いんだけど。そうなんだけど。でももうちょっと言い方ってものが……」

 ブツブツ言いながら、チェルルは店の外に出た。テーブルに置きっぱなしのマグカップを片づけようと手に取り、ちらりと中を見る。

 ひとつ、ため息をついた。

「……おかしなことになっちゃったな……」

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