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立志式の蜂

作者: 燈取蛾

三年ほど前に書いた小説。どこかに投稿してたような気もするのだけど良く覚えていない。ジャンルはファンタジーで良いのか少し悩む。一応R-15タグつけておきます。

立志式の蜂



大人が許せなかった。

大人に成る事が、許せなかった。

どうして大人たちは、あんなに醜い姿で生きていられるのだろう。

どうして彼らは、自分の罪業にも気付かずに、あんな、何も考えていない顔をして、のうのうと生きていられるのだろう。どうして彼らは、あんなにも簡単に、愛だの恋だのを語れるのだろう……。

 僕は、理解できないでいた。


 それでも、

それでも、僕たちは、もうすぐ大人になる。

明日、祝日の日、僕たちは、市役所の暗いホールに集められる。そして、そこで大人への片道切符を渡される。

そう、僕たちの、立志式。

僕には、それが、嫌で、嫌で、たまらないのだ。


     ※


最近良く、薫の事を思い出す。

薫は、僕よりも六つ年上で、痩せていて、背が高くて、腕が白くて、美しい男の子だった。 

僕は、大人に成る事に夢見がちでいる下卑た同級生の男子たちが嫌いだった。

だから、僕は、よく薫と一緒に遊んだ。

薫は僕の親友だった。

 薫には、妹が居た。百合子という名前で、僕と同い年だった。僕たち三人は、よく一緒に遊んだ。同級生たちは僕を、「百合子の事が好きなんだろう」と、よく、僕を囃した。お父さんとお母さんも、「将来は百合子ちゃんをお嫁にもらえて幸せね」なんて言って笑う。

僕は、そんな同級生を呪いお父さんとお母さんを、心から憎んだ。

僕が惹かれていたのは、兄の薫であり、百合子は可愛らしいおまけに過ぎなかった。僕が百合子の事を好きだなんて、そんなのは全然本当じゃないのに、僕なんかとペアに扱われる百合子が、可哀想で仕方がなかった。

普通の子供なら、そこで恥ずかしがって、百合子と距離をとるのだろう。

でも、僕はそうしなかった。僕は、どうしようもなく薫に惹かれていたのだ。薫と一緒にいるために、百合子ともずっと仲良しだった。薫と一緒なら、輝かしい未来に行けるような気がしていた。お父さんやお母さんみたいな醜い大人に成るんじゃなくて、薫ならきっと、今の美しい心のまま、大人に成ってくれると信じられた。


でも、薫が大人になる事はなかった。

薫の立志式が迫ったある日、彼は死んだ。


     ※


 薫はその日、僕を「山に行こう」と誘った。

山は行っちゃいけない場所だった。お父さんもお母さんも先生も、「恐い場所だから」と言って近づかせてくれなかった。

 だから、僕も山は恐い場所だと信じていた。

 でも、薫は、その日「山に行こう」と言った。

 薫が、「行こう」と言ったのだ。山に行くのは、気が咎めたし恐かった。でも、他でもない薫が言ったのだ。薫の言葉は、僕にとって絶対だった。


 小さい頃は、周りにルールがたくさんあった。

怖い事がたくさんあった。

 夕方、一人で出歩いちゃいけない。お父さんの部屋に入ってはいけない。お父さんとお母さんが帰ってくるまで、家から出ちゃいけない……。


 その日、僕たち三人――僕と、薫と、百合子は、町外れの山へ向かった。

 山は恐い場所だった。危ないから入っちゃいけない。そう言われていた。

 立ち入り禁止と書かれた、工場裏のフェンスを潜って、僕たちは、山に入った。このフェンスの向こう側が御山で、このフェンスが、僕の日常と山を分けていた。

普段見るよりも湿った草を掻き分けて、土手を登る。

少し行くと、暗い、細い砂利の道に出て、次の瞬間。一気に、世界に光があふれた。

 百合子が上を見上げて、「きれい」とつぶやいた。

 木々の、梢の隙間から、太陽の光が細かく刻まれて、こちらに振りそそいでいた。

 僕と百合子は、はしゃいでいた。

 見たことも無い、奇麗で、奇妙でグロテスクな生命の営みが、そこにはあった。たくさんの蝶が、木々の隙間を縫うように飛びまわり、白と黒の色彩を散らした。大きなネズミが、ひょっこりと、草むらから顔を出して、こちらに驚いたのか、凄い勢いで木に登っていった。

 僕も百合子も、楽しくてしかたがなかった。

 でも、一番楽しそうにしていたのは薫だった。

「見てみろよ」

 薫が、指差した方を見ると、草の上でカマキリが何かを食べてた。図鑑や、昆虫園以外で、カマキリを見るのは初めてだった。

「何か食べてる! 」 

 百合子が、そう言って無邪気に、薫の顔を見上げた。薫は、僕たちに説明するように、

「雄を食べているんだよ」

 と言った。

「雌が、仲間の雄を食べているんだ」と言って、薫は微笑んだ。

 僕は、驚いて、いや、驚かなければならないような気がして、「どうして? 」と、薫に聞いた。その問いに、薫は、

「生きているからさ」

 と言って、笑った。

僕たちは見るものすべてが珍しくて、嬉々として歩いた。細い砂利道を、どんどん登っていく。途中、他よりもずっと濃い緑をした、艶々とした葉っぱの背の低い木に、赤い実がたくさんなっているのが見えた。

「何処まで行くの」

 僕の中の不安が少し首をもたげて、僕は思わず薫の顔を見上げた。見れば、百合子の顔にも、いつの間にか不安が見え隠れしている。

薫は、優しげに微笑むと、

「もうすぐだよ」

 と、言った。バッタが一匹、足元から跳ねた。


     ※


 自室でぐったりと眠っていたら、携帯電話から「トッカータとフーガ」の、絶望的でどこか軽いチャララー・チャララララーラーという電子音が鳴り響いた。この着信音は、携帯電話を買ってもらった時に、なんとなく設定したもので、同級生たちにはよく、早く何か別の曲をダウンロードしろよと言われた。放って置いて欲しいと思う。

 電話の相手は、百合子だった。

「何? 」

「ひょっとして寝てた? 」

 僕は、苛立ちを隠さずに言ったのだけど、通じなかったようで、百合子はいつもの明るい調子で、「まだ、三時だよ。早寝すぎない? 」と、続けた。僕は、機嫌が悪い事が伝わるように、「うるさいなー、何の用? 」と、なるべくぶっきらぼうに聴いた。


「ねえ、今度の立志式、ちゃんと来るの? 」


「……」

 この質問は、予想していた。僕は「もちろん行くさ」と、ごまかした。

「そう? なら良いけど……」

「どうして、そんな事聞くのさ。だいたい、あれって、強制だろ? 市役所に来なかった奴の所には、連行トラックが来るとかなんかいうじゃん。行かないわけないよ」

 僕は、なるべく普通を装って応える。

嘘だ。全部嘘。

 本当は、立志式なんて行きたくない。薫みたいに、大人になんかなりたくなかった。あの日の薫みたいに、奇麗なまま、死にたかった。


     ※


 三人で歩く小道は、生き物の気配にあふれかえっていた。

 時々、小さな昆虫や爬虫類が僕らに驚いては、飛び出してきて、また、反対側の草叢に消えて行った。僕と百合子は、その命のざわめきに圧倒されていたのだけれど、薫は一人、楽しそうだった。

「あ、蜂だ」

 薫が指差す上空を、十センチほどの蜂が、ブーンと飛び去っていった。

「蜂? こえー!」

 僕と百合子は、テンションを上げて「こえー、こえー」と叫んだ。

 けど、薫があまりにも冷静な面持ちだったから、僕は恥ずかしくなって、「怖くないの? 」と薫に聞いた。薫は、「怖くないよ」と言って、首にかけていたペンダントをじゃらりと出して見せてくれた。

 それは、蜂の姿をリアルにかたどったペンダントで、薫のお気に入りで、小さい頃から、よく首に下げていて、僕にはそれが羨ましくて仕方がなかった。

「蜂って、格好いいじゃん」

 薫は、そう言って微笑んだ。

「お兄ちゃんは蜂が好きなんだよ」

 百合子がそう言って、「えへへー」と薫に抱きついた。そんな百合子に、ちょっとイラっとして、百合子を無視して、

「何で、蜂が好きなの? 蜂怖いじゃん」

 と、薫にぶっきらぼうに聞いた。

「奇麗じゃん、蜂って」

 薫は、僕を見ずに、百合子を見ずに、ただ、ペンダントを見つめて言った。

「ああいう、奇麗な生き物になりたいんだ」

 銀色の蜂が、太陽の光を反射して、薫の手の中で鈍く光っていた。

「行こう」

 薫のその一言で、また僕たちは歩き出した。


 もう、ずいぶん歩いている気がしていたけど、実際の時間はわからない。僕たちは、誰も時計を持っていなかった。

「この先に、何があるの? 」

 百合子が、不安げに薫を見上げた。

 薫は、硬い表情のまま百合子の頭を撫でると。

「お墓だよ」

 と、優しい声で言った。


「お墓? 」

「そう、お墓。人が死んだら、お墓に入るんだよ」

「そうなの? 」

「うん、そうだよ。死んだ人は皆、お墓の中に居るんだ。御山に帰るんだよ。御山に入っちゃいけないのはね、ここが、死んだ人の場所だからなんだ。山の生き物が山から出られないようになっているのはね、山のものに近づくと、死が移るって言われているからなんだ」

 その頃の僕は、死というものが良く解っていなかった。いや、概念は知っていた。昨今言われるような、ゲームと現実、生と死の区別が付かない子供みたいな事はまったくなく、人は死ねば人でなくなって、物として朽ちていくのだということは、よく解っていた。

 ただ、そこには全然、リアルが無かった。

 テレビの中の世界では、本当によく人が死んでいた。だけれど、僕の身の回りにリアルな死はなくて、身内に死んだ人もなく、死はあくまで映像の中の世界のものだった。

 だから僕は、死に惹かれていた。

 大人たちが、毎年『墓参り』と称して山に登っていくのを見ながら。ずっと死について考えていた。


     ※


 明日の夜は、立志式だ。

 市役所の、暗いホールに集められ、僕たちは大人になる。

 偽りの子供時代が終わって、リアルで生々しい大人の世界に旅立つのだ。

「じゃあ、明日は一緒に行こうね」という、百合子の電話越しの声に、僕は、絶対一緒に行く事になるだろうという、諦めを、胸のどこかに感じながら、「都合が付いたらね」と応えた。都合がどうのこうの言ったって、明日、僕に予定なんてない。クラスの奴らは、学校の仲の良い連中と、子供時代最後のお遊びに出かけるのだろうが、僕には、そんなのに行く友達は居ない。友達なんて要らない。百合子はどうするのだろうか? 百合子にだって、友達は居るはずだ。彼女らと一緒に、どこかに行ったりしないのだろうか。いや、百合子も友達と一緒にどこかに遊びに行くはずだ。それで、そこから別れて、僕のところに来るつもりなのだろう。

うっとおしいような、ありがたいような。変にむずむずした気持ちを抑えて、「じゃあ、明日」を言って電話を切った。

百合子は、いつの間にか奇麗な女の子に成長した。薫と同じように、手足がすらりと長い、華奢な、奇麗な体になった。その心も、薫みたいに、明るくて、眩しくて。僕は少し、百合子の事が怖かった。

百合子は、薫が死んだあの日から、とても臆病になった。見た目の言動はそれまでと変わらなかったから、気付いている人は少ないだろうけど、彼女の顔には、常に不安の影がよぎるようになった。ふっと気がつくと、誰も見ていない一瞬、彼女の顔は不安に支配される。その一瞬を見るたびに、僕は、百合子を大切にしなくちゃと思った。

だけど、いつからだろう。彼女は、薫の存在を振り切ってしまったかのように、明るく、健康的に育っていった。

百合子と一緒に居れば、僕は彼女の健全さに引きずられ、ずるずると大人になってしまうのではないだろうか。その不安は、最近だんだん大きくなる。

薫は、あの日大人にならずに死んでしまったけど、百合子は、明日、僕と一緒に大人になる。百合子は、自分たちが大人に成る事をどう思っているのだろうか? きっと彼女は、怯えながらも真っ直ぐに大人になるのだろう。僕とは違って。

僕も怯えている、大人になる事を。そして、厭っている。

そしてそして、死ぬことについて、考える。

 薫もあの日、死について考えていたのだろうか、そして、大人になる事に怯えていたのだろうか。解らないけど、僕には、そうじゃないかと、思えてならない。


     ※


 大人たちは、誰々が何処そこで死んだというような話をよくしていた。お父さんは、よく、「自分の仕事は命がけだからな」と、僕に威張った。僕は、そんなお父さんを憎んだ。子供は、死ぬ事が許されなかった。ちょっとでも死の気配がするような事に近づけば、お父さんもお母さんも、とたんに、箍が外れたように怒るのだ。

 自分は、死の隣に居るのを誇っているのに。子供にはそれを許さなかった。


 大人が、恨めしくも羨ましかった。

 羨ましくも怖かった。大人になり、死の隣に行く事が。


 薫は、きっとあの日、自分の行く先を見に行ったのだ。自分が、将来、どんなものになるのかを。


 林道を抜けると、そこには湿った広場があった。

 広場と言っても、広さはせいぜい、小さな家の庭くらいで、天井はほぼ木の葉と枝で覆われて、暗かった。夕闇の薄紫の空が、あたりの木を真っ黒に染めていた。

 苔むした地面に、赤ん坊くらいの大きさの、四角い石がまばらに並んでいた。

「ここが、お墓? 」

 僕は、薫を見上げて聴いた。

 薫は、真剣な顔で、ゆっくりと「そうだよ」と言った。

「人は、死んだら石になっちゃうの? 」

 今度は百合子がそう聴いた。

「違うよ、死んだ人はこの下に埋まってるんだ」

 薫は、いつも百合子の事をそう撫でるみたいに、優しく、目の前の石を撫でた。

 その石の上をナメクジが這ったのだろう、虹色のてらてらとした膜が、苔の上をはっていた。僕は汚いと思ったけど、薫は真剣な、優しい顔をして、石を撫でていた。

 その顔を見ていたくなくて、僕は思わず、

「掘ってみようか」

 と言った。言ってから、それが承認された時の恐ろしさに震えた。

 薫なら「そうだね、掘ってみよう」と言い出しかねないと思った。

でも薫は、ちょっと考えて、

「いや、やめよう。帰ろうか」と言った。

 そして、お墓の前に、蜂のペンダントを供えた。

「それどうするの? 」

「置いて行くんだ、ここに」

 

「ねえ、これ何~!」

 百合子が、急に大声を出したので、僕は心臓が飛び出るほど驚いた。

 僕がそれだけ驚いたのに、薫は、「なんだい? 」と言って、百合子の手元を覗き込んだ。そんな薫の優しさが、眩しかった。こんな人になりたいと思った。

「これ、これ」

 百合子の指差すところには、赤ん坊の指のような、肌色をしたグロテスク塊が、墓石に張り付いて反っていた。

 これは、僕も知っていた。

「蝶の蛹だ」

「ちょうちょ? 」と叫ぶ百合子に、薫が「そうだよ」と微笑む。

「ほら、あっちにもある」

 薫が指差すところには、やっぱり、人間の指みたいな塊が張り付いていた。

 見れば、あっちにも、こっちにも。

 たくさんの指が、あちこちに張り付いていた。

「あ、見てごらん」

 薫が塊の一つを指差した。

 蛹が割れて、黒い何かが、そこから抜け出そうとしていた。

 僕たちは、薫の腕に抱かれながら、それをじっと見ていた。


     ※


 百合子からの電話をきって、カーテンをあけたら、山の方から微かに、アーアーというカラスの鳴き声が聞こえてきて、僕は更に、憂鬱な気分になる。

 明日の夜は、立志式だ。

 カラスの声を聴いて思い出すのは、いつだってあの日の事、薫が死んだ時の事ばかりだ。


 何時間も、僕たちはずっと、蝶が蛹から出てくるのを見ていた。

 蛹の、蓋みたいな部分を押し上げて、黒い頭が出てきて、脚をふるふると踏ん張って、抜け出し、翅を伸ばす。その神秘を、ずっと見ていた。

 僕たちも、ああして大人になるのだと、漠然と思った。


 気がつけば、あたりはだいぶ暗くなっていて、僕は急に不安になった。

「帰ろう! 」

 と、薫に向かって、叫んだのだけれど、薫は、どこか恍惚として、

「見てごらん」

 と、空を指差した。

日の時間の終わりを感じさせる、白っぽくくすんだ黄色い空に、黒い蝶が無数に飛んでいた。今、羽化した蝶と同じ種類だった。

周りの蛹を見れば、あるものは出かけで、あるものは、もう中身が抜け出していた。この空をひらひらと飛ぶ蝶たちは、今ここで生まれたのだ。

「ねえ、これは何」

 百合子が、一本の枝を摘み取ってきた。

 その枝にも、蛹が付いていたけれど、腹の部分に、五ミリくらいの黒い穴が開いていた。

「蜂だよ」

 かおるが言った。

「蜂がね、チョウチョの中で、育ったのさ」

 薫は、その後、僕たちに、生き物の内臓を食べる蜂の話をしてくれた。


      ※


 帰り道、僕は怖くてしかたがなかった。


 薫の言った蜂の話も怖かったし、それに、そのちょっと前から遠くで、カラスが騒いで、本当に怖かったのだ。山のカラスは、大きい。大人の人の倍くらいある。だから、鳴き声も、太くて怖い。山のカラスが、大きいのは、死体を食べているからだと、お父さんは教えてくれた。嘘かどうかは解らないけど、死体が埋まっているはずのお墓で、その声を聴くのは、たまらなく、怖かった。


 山を降りる、林道の中。急にカラスの声が大きくなって、頭上を、巨大なカラスがばさばさと何十匹も通り過ぎていった。その光景は、不気味で異様で、そして、羽音がうるさくて。僕たちは、その場に立ち竦んだ。

 羽音が通り過ぎると、一転。静寂が訪れた。

「すごかったね」「うん」

 僕と百合子は、ただあっけに取られて、そんな事を言っていた。僕たちは、油断していた。ここは、怖い怖い、御山の中なのだ。

 ブーンという、低い音が、響いてきた。最初は、さっきの羽音で耳がいかれて、耳鳴りがしているんだと思った。でも、違った。

 薫が、とたんにはっとした顔になり「走るぞ」と叫んだ。

 僕も百合子もわけがわからなかった。ただ、薫に手を引かれるまま、走った。

 ブーンという音はだんだん大きくなってくる。途中で気付いた。あの音は、僕たちを追ってきてる。さっきのカラスたちは、あの音から逃げてきたのだ。

 途端に、鳥肌が立った。

急がなくちゃ! そうしなきゃどうなる? わからない。ただ闇雲に走った。

 僕たちは、ただ闇雲に走って、最初の、藪のところまでたどり着いた。助かった、そう思った。

 あの時――、まず最初に僕が藪を抜けて、百合子の手を引いたのだ。その時すでに、ブーンという音は恐ろしく大きくなっていた。薫は、その時、一番最後にいた。

 そう、僕と百合子は逃げ切れたけど。薫は逃げられなかった。

 僕が、百合子の手を引くために振り返った時、僕は見た。

 薫の肩口に、一メートルほどもある、巨大な虻が取り付いているのを。


     ※


 明日の夜は、立志式だ。

 その事を、考えないようにしながら、僕はベッドにもぐりこむ。

 明日の朝は、どうしようか。夜まで、何してすごそうか。

明日、お父さんは、仕事を休むといっている。僕を、市役所まで車で送っていくつもりなのだ。

……嫌になる。

 なんだか、もやもやしたまま。目を閉じた。

 こんな夜は、薫の夢を見る。

 また今日も、暗闇の中に薫の白い顔が浮かんでくる。


     ※


 薫があの後どうなったのかを、僕は知らない。

 気がついたら、僕は薫の家に居て、百合子と一緒に同じ布団に寝かされていた。

 夜だった。隣の部屋から、蛍光灯の明かりが洩れていて、大人たちが何かを話している気配があった。僕は、不安になって、ただ不安になって、目の前でまだすやすやと眠っている、百合子の頭を柔らかな髪の上から、きゅっと抱きしめた。

 すすり泣く声が聞こえた。それは、薫のお母さんであると思った。

 僕のお父さんの、慰める声も聞こえた。その声に、苛立ちみたいな、怖い何かが混じっているように聞こえた。

 僕は、百合子の頬に、自分の頬を重ねて、夜が終わるのを待った。


 次の日、お父さんから、薫が死んだと聞かされた。その日の夜に、大人たちによる、「お葬式」があって、僕が薫の死体を見ることは無かった。薫の葬式が行われている間、僕は百合子と、たった二人でままごとをして過ごした。お父さんと、お母さんしか居ないままごとだった。ままごとの途中、百合子は、真剣な顔で、「私たちは、大人になろうね」と言った。「一緒に、大人になろうね」と。

 僕は、お父さんに怒られるのではないかとびくびくしながら、百合子の前でお父さんを演じた。結局、お父さんは僕を叱らず。次の日からは、皆が日常の生活に戻った。ただ、薫だけが居なくなっていた。

 薫が居なくて、僕が百合子と遊ぶ理由もなくなったのだけど。僕は、それからも毎日、百合子と遊んだ。毎日、交代で、僕たちはお互いの家を訪ねた。そして、積み木を積んだり。テレビゲームをしたり、時には何もしなかったり。とにかく二人で過ごした。百合子に百合子の友達が出来て、彼女らと遊ぶようになっても、一日のうち数分、寝る前にちょっとだけ家を抜け出して、二人で過ごした。

 僕が最後に見た、薫の顔。

 恐怖でも、傷みでもなかった。ただ、ビックリした、という感じで固まっていた、薫の顔。それを忘れないために、僕は百合子とすごした。僕たちは、お互いの中に、薫の存在を感じるために、お互いを見張り続けた。


     ※


 今夜は、立志式の日だ。

 結局、僕は、その日一日を何もせずに過ごした。お父さんお母さんには、友達と出かけると言って、街中をぶらぶらして過ごした。

 なんとなく、今日、立志式が行われる場所を見ておこうと思って、市役所に向かった。市役所は、町の中心の一番、古びた鉄臭い場所にあって。いつもどおりに、周りより薄い、くすんだ色をして立っていた。吃驚するくらい感慨がなくて、なんとなく、むしゃくしゃした気持ちだけが湧き上がった。

 そして、なんとなく、ひねくれた気分になって、裏口の方を見に行ってみた。裏口の方は、更に暗く、くすんで見えて。人通りもなく、寂しい風が吹いていた。

 所々、道路のマンホールが開けっ放しになっていて、昔使われていた下水道が、すっかり、からからに乾いて、口を開いていた。

 なんとなく、薫の死んだ山へも行ってみた。

 もう、工場のフェンスは、作り直され、子供が入れるような隙間はなかった。

 でも、大人たちが墓参りに行く時に使う、山への扉は何故か開けっ放しで、僕は、危ないと思い、その扉をしめた。鍵が壊れていて、閉まらなかった。

 夕方近くになって家に帰ったら、百合子が玄関先でちょこんと待っていた。

 いったい、何時から居たんだろう。もう、秋も近くなってだいぶ肌寒くなっているのに、余所行きの薄いワンピースにカーディガンを羽織っただけの姿で立っている。

 どう声をかけていいか、わからなくて、無言のまま、百合子が居ないみたいにいつもどおりに玄関に向かった。ありがたいことに、僕に気付いた百合子が、「あ、やっと帰ってきた」と、先に声をかけてくれた。もしここで、百合子が何も言ってくれなかったら、僕は多分、百合子を無視して、家に入ってしまっていただろう。僕は、今気付いたというような表情を作って、「どうしたの、こんなところで」と言った。自分でも白々しいと思った。

「待ってたんだよ、また逃げるんじゃないかって」

 僕の心中などまるで無視しているのか、気付いていないのか、察してくれているのか、百合子ははきはきとそう言って笑った。

「またって、何だよ。僕がいつ逃げたよ」

 百合子の笑顔につられて、僕は憎まれ口を返す。

「いつも逃げるじゃん、テストの前とか」

 百合子は、にっかりと笑った。本当に、奇麗な女の子になった。ほっぺの所に、小さな擦り傷ができていた。


     ※


 僕らは、お父さんの「送っていくぞ」をあしらって、歩いて市役所へ向かった。

 空が、あの日みたいにどんどん藍色に染まっていく。

 もうすぐ、夜。

 立志式の、夜だ。


市役所について、同級生たちがまばらに居る駐車場脇の広場で、百合子と別れた。百合子は、そこでは学校の、いつもの友達と、いつもの顔で笑う。僕は、待ち合わせる友人も居ないので、一人で立志式の行われるホールに入った。

 市役所のホールはがらんと広くて、学校もばらばらな同級生たちの期待と不安の声でざわめいているのに、どこか寂しい冷たい感じがした。

 用意されていた客席の一番後ろの、一番右端に、僕は座った。

 人が、どんどんと押し込められていくホールの中で、僕は、広い世界に一人ぼっちで居るような、馬鹿みたいな空想に遊んだ。

 不安なのだ。これから、どうなるか。

 自分が、どのように変化するのか。

周りでざわめいてる奴らみたいな、多少の期待なんて、僕にはない。


 アナウンスが入り、外で談笑していた奴らも皆ホールに入り、暗転、そして静粛。舞台の緞帳が上がり、段の上に市長と、それに続き数名の白衣が現れた。


「おめでとうございます! 我らが愛しき子供たちよ。十四歳おめでとう! あなたたちは今日、晴れて大人への階段を登る事を許されました。ご存知でしょうが、立志とは、志が立つと書き――」


 静まるホールに、市長の力強い声が響き渡る。どこかで、聞いた事のあるような話。今日で、僕らは子供時代に別れる、今日しかない今日なのに、大人の言葉はどうしてこうも、いつもどおりなんだろう。

 心が、ざわめく。

 百合子は、今、何処にいるのだろうか。

急に後悔する。この広いホールの子供の群れの中、もう、大人になるまで、百合子には会えないかもしれない。不安になる。


 いつの間にか、壇上の市長の言葉は終わっていて、大柄な白衣の女性がマイクの前に立っていた。保健委員の人だ。


「皆さん、おめでとうございます。これから、新成人代表の言葉からの立志の言葉と証書授与の後、立志式のメインイベントに移行いたしますので、説明と緒注意を述べさせていただきます。」

 白衣の女性はそう言って、しずしずと話し始めた。

「これより、このホール内にガスが満たされます。これは、皆様のホルモンの変化を促すものです。多少気分が悪くなる人も居ると思いますが、問題ありません。落ち着いて、こちらの指示に従ってください。」

 会場内が、ざわつく。

 何度も授業で聞いていること、でも、やっぱり不安なのだ、これから起こることが。

 周りのざわめきが、うっとおしい。保健委員の人の声が、聞こえづらい。聞こえづらさにイライラして居る自分に気付いて、自分も不安なのだと思った。

「ホール内にガスが充満しましたら、大きく深呼吸してください。これは十分間行います。その後、変態後は情緒が不安定になりますので、男女別の部屋に分かれます。男子は、このままこのメインホールでの変態になりますが、女子は指示に従い、一階のセカンドホールに移動します。先導は、私が行いますので、指示に従い速やかに行動してください」

 客席は静かにざわめき続ける。

 そうだ、メインイベントは男女別に行われる。あくまで、教科書の知識だけれど、式の直後は、理性が利かなくなる者が多いのだ。男女一つの会場で式を行うと、何かと問題が多い。

 そう、ここで、僕と百合子はばらばらになる。もう、大人になってからでないと、百合子とは会えないのだ。


「それぞれ、移動が終わりましたら、係員の指示に従い、着衣を脱ぎ、待機してください。その後はすべて、係員の指示に従っていただくことになります。それでは皆さん、良い成人を」


 保健委員の解説が終わり、新成人代表の言葉へと移った。

 新成人代表は、うちの学校の生徒会長で、大人へなる事への決意や、大人たちへ今まで育ててくれた事の感謝などを述べた。テレビでよく見るような、毎年繰り返される決まりきった言葉。だいたい、市の役員や、保健委員の人以外大人は来ていないのだ。外には、警備員の人が居るけど、親たちは居ない。一体誰に感謝の言葉を伝えているのか。

 新成人代表の言葉が終わり、市長が生徒会長に、額に入った、新成人証書を渡した。生徒会長は、それを慇懃に受け取り、礼。


 これで、前座はすべて終了した。

ここからがメインイベント。

僕たちの、成人だ。


     ※


 女子たちが、保健委員の女性に連れられ、ぞろぞろとホールを出て行く。

 僕は、必死にその中に百合子の姿を探すのだけれど、同じ顔をした女の子の群れの中、その姿を見つけることはできず、僕は焦っていた。


 ホール内にガスが満ちる中、僕は、これまでの思い出も、両親への感謝も、大人になる事の不安も何も無くて、ただただ思うことは、百合子に会いたいの一心だった。

 ただただ、今、隣に百合子が居ない事が不安で不安でたまらなくて、市長たちがマスクをつけている間も、今からガスを流しますのアナウンスも、プシューという、ガスが流れてくる音も、不安を消すために流されるクラシックの音楽も、何も僕の心を雨後かさなかった。

 ガスが満ちる十分間、僕は何一つ建設的な考えは出来ないで、百合子の事を考えていた。


 そして今、結局、ホールを出る女子の中に、百合子を見つけられなかった僕は、これからの自分の変化に何の心の準備も出来ていない事に、焦った。あのガスを吸ってしまったのだから、僕はもう、大人へと変化が始まるのだ。

薫が、もし生きて立志式に臨んでいたら、こんな事を考えず、真っ直ぐに大人へと変わっていくのだろう。僕は急に、自分が情けなくなって、薫に対して、何故か申し訳ない気持ちになって、放送で、「着ているものを脱いでください」と言っているのに気付いて、慌てて服を脱ぎ始めた。

昔から、人前で着替えをするというのが嫌いだった。幼児は人前で裸になる事に羞恥がないというが、そんなのは嘘だ。僕は本当に小さな頃から、人前で服を脱ぐ事に抵抗があった。

だから、人から見えにくい、一番後ろのこの席を選んだ。ここは照明もあたらず、横に大きな機材棚があって、中心部の方からは、全然見えないのだ。

真ん中の方で、大勢の同級生たちがぽんぽんと全裸に成っていくのを横目で見ながら、慌ててシャツを脱ぎ、ベルトを外して、機材棚の横に身を潜めた。調度、人間一人が潜める隙間があって調度いいと思って、そこに体を滑り込ませると、手の先がふわっと何か柔らかいものに触れた。

吃驚して見ると、機材棚横の大きなダンボールから、女の子の頭が覗いていた。

 百合子はにっこり、僕に微笑んだ。


     ※


「こんな所で、何をやっているんだよ」

 僕が怒り口調で言ったのに、百合子は涼しい顔で微笑んで、

「約束、忘れたの? 」

 と言った。もう衣服は脱ぎ終えているらしく、白い肩がダンボールの隙間から見え隠れしていた。

「約束? 」

 何の事だか、とっさに解らなかった。

「大人になるときは、一緒だって、ずっとずっと言ってきたじゃない」


     ※


 百合子の手を引き、周りの目を気にしながら、メインホールを抜け出した。いけないことをしていると思った。ホールの外は夜で、無機質な廊下は外から入るちょっとずつの光から隠れるように、ひっそりと息を潜めていた。とっても艶やかな、無彩色の世界には扉の向こうみたいな、ざわめきは無くて、百合子の体温だけが隣にあった。

「どこへ行くの? 」

 キョトンとしながら付いてくる百合子に、僕は応えなかった。答えられなかった。普通に考えれば、百合子を女子たちの居るセカンドホールまで連れて行って、僕はメインホールに戻る、そうするべきだ。でも、僕の頭に、もうその考えは無かった。ホルモン調整のガスで、頭がおかしくなっていたのかもしれない。

 僕はもう、百合子の手を離したくなかった。約束も思い出した。薫が死んでから、百合子がずっと言っていた事だ。「一緒に大人になろう」その言葉を、僕は百合子からの戒めだと思って聴いていた。僕は、薫に憧れていた、心のどこかで、薫の死に様に憧れていた。薫みたいに、大人になる前に死にたかった。その気持ちを見抜いて、百合子は「一緒に大人になろう」と何度も言って来るのだと思っていた。

 僕はこの子を、どうしてあんなに恐れていたのか、ぎゅっと手を握り、僕たちは歩いた。


     ※


 誰か、大人に見つかるかと心配していたけれど、誰にも会わずに僕らは市役所の外に出た。秋の夜の外気は、裸の肌に冷たくて、内臓がすっと縮こまる感じがした。

 月が、白々と光っていた。

 今夜は、立志式の夜だ。

「山が見えるところまで行こう」

 と言ったら、百合子は少し悲しそうな顔をして、「うん」と言った。

 月が照らすアスファルトの上を、月の光に照らされて、裸の姿で僕たちは走った。冷たい外気のせいか、ホルモン調整のガスのせいか、体がどんどんと引き締まり、硬質になっていくような気がする。でも、気分は、妙に晴れやかだ。

「ねえ、ちょっと待って」

 百合子が、息を切らして立ち止まった。

「どうしたの? 」手を伸ばすと、百合子の華奢な体がふらついた。僕は気付いた。変化が始まっているのだ。女の子のほうが、男の子よりも変化が早く始まる。そう教科書に書いてあった気がする。

 百合子を抱きとめようとして、僕は何かに躓いたのを感じた。足の親指に鈍痛が走り、僕と百合子は揃ってよろめいた。そして、よろめいた先に地面が無異事に気づいた。スローモーションの意識の中で、さっき躓いたのは、昼に見たマンホールの蓋だと、僕は妙に冷静に考えていた。


     ※


 ぽっかり明いたマンホールの穴から、丸い月が見えていた。

 水の枯れた、古い下水道の中、僕と百合子は、壁に寄りかかって体育座りで寄り添った。

「どうやって出ようか」

 僕は、なんと無しにつぶやいた。百合子に投げかけた質問じゃなかった。百合子が応えてくれるとは、考えてなかった。幸い、二人とも怪我はなく、外よりも暖かく、乾いた地下の空間は、外よりも居心地が良かった。

 地面は遠いけれど、簡易梯子があって、いつだって登れる。でも、僕たちが落ち着くべきは、ここだと思った。

 月に照らされた、百合子の顔は白く穏やかで、遍く、すべてを受け入れるように見えた。

「ねえ、大人になったら、どうしようか? 」

 眠っている人に語るように、応えないだろうと思いつつも、僕は百合子に尋ねた。

 不意に、百合子の瞼が緩み、形の良い唇が

「お墓参りに行こう」

 と、言った。

「お兄ちゃんの、お墓参りに行こう。一緒に、大人になったって、報告に行こう」

 そう言って、百合子はまた目を閉じる。

 その閉じた目から、涙が一筋流れた。

「お兄ちゃん、ごめんなさい」

 百合子の体がビクンと反った。

 完全に、変態が始まったのだ。

 百合子の皮膚が水を含んだように艶々と透明になり、すぐに白っぽくなり月の光の下、乾いて見える百合子の額が、ぱっくりと割れた。

 そして、その裂け目が鼻筋をつたい、白く反った喉をつたい、細い胸骨の上を撫でるように進み、臍を通っていった。裂け目が股間を通り、内腿を二筋にわかれ割いていく。

 百合子が、蛹へと変わっていく姿を、僕は息を呑んで見つめた。

 足先まで、裂け目が伸びる前に、上半身の裂け目から、貝殻みたいに真っ白な百合子が抜け出し、月光に艶々と濡れた。

 奇麗だと、思った。

 ガラス細工みたいな百合子は、口も鼻もふさがっていて、リンゴ飴みたいに、体を飴で覆われているようにも見えた。するりと、手が抜け出し、体を大きくそらして、足先まで抜き出した百合子は、手を太腿の間に挟み、うずくまり、そのまま動かなくなった。


     ※


 マンホールの穴から、夜の冷気が少しずつ降りてくるように感じられた。

 百合子の蛹の隣で、僕は独り、月を眺めていた。

 薫、ごめん。僕は、大人になる。薫が拒否して、それでも成りたがった、大人へと、僕は成るのだ。百合子と二人で、お墓参りに行ったら、大人になった僕らを見て、きっと薫は幻滅するだろう。でも、僕はこれから大人になる。

 体が急に冷えてきた、妙に心地よい。

 なんだか、眠いような。吐き気がするような、優しい何かに抱きしめられているような、変な気持ちだ。

 お腹の、下のほうが、なんだか、ぞくぞくする。

 月が、朧に、歪む。

 薫、僕は、奇麗な生き物のまま、死ぬ事はできそうにも、ないや。

 だって、世界は、こんなにも、素敵だ。


     ※


 ――……。


     ※


 なんだか、夢を見ていたような気がする。

 どれくらいの時間がたったのか、今、自分が何処にいるのか、頭がすごくぼんやりする。ただ、体が熱くて、ジワジワと熱を含んだ何かが、お腹の中にあるみたいで、居ても立ってもいられない、エネルギーがそこからあふれ出してくるみたいで、僕はとにかく、息を吐いた。

 太陽の光が、頭上の穴から、僕を照らしていた。


 ああ、ああ、何だろう、この気持ち。全身に快感が走る。体が温かい。芯が熱い。

 体の中のすべてを外にさらけ出してしまいたいような、この気持ち。

 なんという、幸せ。


 気がつくと、僕は叫んでいた。

 そして、泣いていた。

 涙がボロボロ出る中、笑って、大きく叫んでいた。

 風が冷たい。気持ちいい。


 僕は、蛹から抜け出し、大人の体に成ったのだ。


     ※


 体の中に、エネルギーが満ちていた。

 大きく、背伸びをし、太陽の光を一身に浴びる。

 身長も、だいぶ伸びた。長く動いていなかったからなのか、筋肉の付き方が変わったからなのか、力の入れ方が解らなくて、ちょっとふらついた。

 僕の足元に、僕の子供時代だった皮が、ぐしゃぐしゃに濡れて、落ちていた。

 ああ、生きていて、良かった。

 僕は、世界中の遍くすべてに感謝していた。お父さんとお母さんに会いたいと思った。今まで育ててくれた、長い時間にありがとうを言いたかった。

 早く、百合子に会いたい、と思った。


 百合子は、僕の隣で、まだ蛹だった。

 女の子は、男の子より蛹の時間が長いのだ。

 飴色の艶々した、奇麗な人の形が、日の光をてらてらと反射していた。

 その姿が、とても、愛おしかった。

 百合子は、奇麗な女の子だったから、きっと奇麗な女性になるのだろう。

 百合子が、目覚めたら、何を話そうか、何をしようか。まずは、その体を抱きしめたいと思った。そして、百合子の事を好きだと言おう。大丈夫、僕たちの未来は、こんなにも希望に満ちている。


 僕は、百合子の蛹の頭を、優しく撫でた。

 すべすべのその表面が、僕の手のひらに優しく吸い付いてくる。

 その、顔が、肩が、胸が、背中が、腕が、手が、脚が、すべてが愛おしいと思えた。愛おしくて愛おしくて、仕方がなかった。百合子、早くその殻を破って出てきてくれ、一緒に、今迄みたいな不完全な体での不完全な関係じゃなくて、この完成された、大人の体でこの世界を喜ぼう。僕は今、とにかく、百合子が欲しいのだ。

 日の光の中、僕はそのまま、百合子の蛹に腕をまわし、その額にキスをした。

 早く、早く出てきておくれ。


 ふと、視界の隅で、何かが光った。なんだろうと目をやると、百合子の蛹のつるりとしたお尻の脇に、何か銀色のものが落ちていた。

 ちゃらりと拾い上げたそれは、あの、薫の首にかかっていた、蜂のペンダントだった。


 不意に、本当に不意に、薫の顔が浮かんできて、僕は泣いた。

 悲しかった。涙が止まらなかった。

 僕は今、自分が、自分が今、本当に、嫌だった。


 パキリという音がした。

 見ると、百合子の胸に小さなひびが入っていた。

 おかしい、脱皮は、普通頭から始まるはずだ。

 何が起きているのか、解らなかった。

 ふと、何故、ペンダントがここにあるのか、疑問に思った。このハチのペンダントは、薫のお墓に一緒に、埋葬されたはずだ。そう考えて、気付いた。百合子は、立志式の日、僕に会う前に、山に行っていたのだ。

 頭の中に、薫の話が浮かぶ、優しい声で語った、あの怖い話。


――子供が山に行くと死が移る


 百合子の胸のひびが大きくなり、百合子の全身が弛緩して、折りたたまれていた手足が、ゆっくりと伸びた。子供の、奇麗な体のままで固まっていた百合子は、その手足を伸ばし、胸から臍のかけて、切れ目が入った。

 何かが、百合子の体の中で動いていた。

 黒い牙が、百合子の下腹部を丸く切り開き、そして、蓋を開けるように、百合子の殻を持ち上げて、黒い艶々した複眼が出てきた。その顔に、見覚えがあった。あの日、山で薫と見た蜂だ。

 百合子は、立志式の前に、薫の墓へ行ったのだろう。そして、卵をもらってきてしまったのだろう。あの、薫が好きだった蜂に、内臓を食われてしまっていたのだ。

 蜂は、ゆっくりと、百合子の体から抜け出すと、その虹色の翅を二回、パタパタと広げて、ぶるりと体を振るわせた。

 あの日と見たのと同じ、奇麗な、青だった。


 百合子は、死んでしまった。

 百合子は、蜂になったのだ。

 薫と同じように、奇麗な姿のまま眠り、薫の好きだった蜂になったのだ。

 僕が、馬鹿みたいな気持ちで、大人になりたくないと呟いて、今はこうして、自分の体の本能に心を任せているのに。百合子は、奇麗な生き物のまま、奇麗な蜂の姿になって、僕を見つめていた。

 天井の穴から入る太陽の光が、一瞬かげり、また戻り。対峙する僕と、蜂を照らした。

 僕は、自分の筋肉の動きを感じながら、その蜂に手を伸ばした。

 蜂は、複眼に恐ろしい姿に変わってしまった僕を暫く映していたけれど、触覚を、一回ピクリと震わせて、天井の穴へと飛び去っていった。

 もう、涙なんて出なかった。

 もう、心が鈍くなっていっているのを感じていた。


 僕はもう、昔みたいに、周りを嫌悪しないだろう。

 さっきの、世界が明るくなた気分は、きっと変態後の、情緒のゆらぎ。

 今、お父さんやお母さんの同級生の顔を思い浮かべても、何も感じない。安らかな顔で横たわっている、百合子の抜けがらを見ても、僕はもう何も感じない。何故、自分にとって、薫があんなに大切な存在だったのかも、もうわからない。

 僕は、大人になってしまったのだ。

 大人になったのだ。


 銀色の蜂のペンダントを拾い上げて、自分の首にかけた。

 百合子の蛹は、中のものが抜け出しても、僕の抜け殻みたいに、びしゃびしゃに萎びることなく、奇麗なままでつやつやと輝いていた。

 僕は、百合子だったそれの唇に、キスをして。その指を、がりりと齧って、飲み込んだ。

 何の味もしなかった。


 視界の上で、青い光が反射した。

 蜂はまだ、僕の上空を飛んでいるらしい。


 さようなら、僕。

 僕は、空を見あげて。なんだか、性器のあたりがむずむずして、とりあえず、服を着たいと考えた。





―――終


友人との会話の中で出た「女の子から蜂が出てくる話」を即興で書いたものです。テーマと内容がはっきりしていたので非常に書き易かった。

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