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木蔦2

 先輩に安土さんのことを話す。それから、なんとかいう儀式があってその相手に僕が選ばれたこととか、それを見極めの対象とすることまで。それらを先輩は黙って聞いてくれた。


「そう、話はわかったわ。見極めがよりによって友切とはついてないと思うけれど、三日月宗近の相手なんて光栄な話ね。頑張りなさい」


 ……訂正。

 先輩は僕の気持ちをわかってくれていないようだった。



 駅までの道を、先輩と連れだって歩く。

 先輩は巫女装束のままだった。背筋をピンと伸ばした先輩の巫女装束姿はとても似合っているし、格好いいとは思うんだけど、この姿は目立って仕方がない。

 だから、すれ違う人がみんな振り返る気持ちはわからないでもなかった。

 そういえば美星ちゃんもこの格好でお買い物に出かけたりするみたいだ。僕も巫女装束で買い物をしている美星ちゃんの姿を何回か見かけたことがあった。

 どうやら嘉上かがみ家では巫女装束というものを普段着として認識しているらしい。

 悪くはない。いや、むしろ萌え。いやいや。



 夜の音。森の音。

 虫の声と、せせらぎの音。

 水の、ころりころりと沢に砕け滑り落ちていく音と、虫の、木々を空気を震わせる求愛の声。

 いつだったか、幼い頃におじさんに連れていってもらったキャンプを思い出す。あの時まで僕は夜がこんなに騒々しいものだとは想像もしなかった。

 そして今日まで忘れていた。

 夜の森は音と生命に溢れている。

 前を行く先輩が立ち止まり、振り返った。そして無言で、僕の目をじっと見る。


「……先輩、どうしたんですか?」

「なんでもないわ。心配しないで」


 そんなこと言われると、かえって不安になる。

 先輩の夜目にも濡れたように見える瞳は、明らかに僕のことを心配していた。

 やっぱり危ない相手なんだろうなと思う。

 沢へと降りる横道に入った先輩に続く。


 足音が川原の小石を踏みしめるザクリザクリという音に変わる。

 せせらぎの音が大きくなる。

 降りた先にあったのは黒々とした川の姿。その水面が、わずかな月の光を映して、時折、魚の銀鱗のような輝きを見せる。

 東の山陰からは緩やかなふくらみを見せる月がようやく昇り始め、頭上には薄靄うすもやのような天の川。

 僕たちの学ぶ加賀瀬かがせ高校の加賀瀬は、元は星の川、つまり天の川の意味なんだと委員長が言っていたのを思い出す。

 夜空は暗くて、そして明るい。

 今この場所よりも、空間も時間も遙か遠くから訪れた光は夜空を照らすことなく、ただ彩っている。

 照らすものは昇り始めた銀の月。


 不意に虫の声が途切れた。

 川の音もスゥと引くように遠くなる。

 聞こえるのは、かすかにもれる先輩の息づかい。暗くて表情がはっきりしないせいもあるんだろうけど、やけに生々しく聞こえる気がする。

 前方の暗闇からかすかな音がした。

 いや、正確には音ではない。闇に振るわれる鋭い刃のような、そんな存在。


「へえ、たいしたもんだね」


 僕が目を向けた前方の暗闇から、すっと安土さんの姿が浮かび上がった。

 美空先輩が思わず身構えるのを見て、初めて気付いた。先輩が安土さんに気付いていなかったことに。

 信じられなかった。今まで先輩が誰かの接近を気付かなかったところなんて見たこともない。


「気配を消して近づくなんて悪趣味ね」


 不機嫌に先輩が吐き捨てる。ただの敵意とかじゃなくて、なんというか……嫌悪感のようなものがその口調には感じられた。


「そう? 気付かない方が悪いと思うけど。それにその子はわたしに気付いてたよ」


 むしろからかうような口調よりも、その内容の方が先輩には重要だったらしい。

 僕の方を見るその目は、驚きと、それ以上の喜びに満ちていた。

 ……かなり気恥ずかしい。


「ふうん」


 安土さんは何かを納得したようにつぶやくと、そのままくるりときびすを返した。


「ついてきて。こっちだよ」



 広々とした川岸で火が焚かれていた。十分なスペースを囲むように四つの焚き木が燃えている。

 月と星しかないこの暗闇に赤々とした炎からこぼれた火の粉が舞い上がる。それは蛍のともす温かな光とは違い、もっと強く、激しく、勢いのある光だった。

 闇の中で闇を払らい、森の中で音を締め出す光。

 僕は理解した。

 これは、結界なのだと。

 ここが、儀式の場なのだと。

 四つの炎に映し出される影は三つ。

 対岸の大きな一枚岩の崖に影が大きくユラユラと揺れている。


 安土さんは僕たちとは離れた場所に陣取ったらしい。表情ははっきりうかがえないけれど、口元に点る赤はタバコの火だと思う。


「で……僕はどうすればいいんでしょうか」


 隣の先輩にそう囁く。


「多分、あの子ね」


 先輩は赤い服の女の子を指してささやく。


「宗近――彼女の望む方法で〈試儀〉を行う。それしかないわね。恐らく……戦いになるわ」


 鳶色の瞳が炎を照り返して、一瞬輝いた。


「よく聞きなさい。九十九の刀は人狼の爪と同じよ。斬られれば、なかなか治らない。ましてや三日月宗近ともなればなおさら」


 真剣な顔で救いのないことを言う先輩。

 嘘でもいいからもうちょっと希望のあることを言って欲しいんですけど……。


「なんで僕なんでしょう? 強さでいえば僕なんて下から数えた方が早いような気がするんですけど……」


 先輩は僕の頬を両手で挟んだ。


「あなたには可能性がある。それは、あなたが鬼子だから。それに、あなたには力がある。わたしにはない力が」

 冷たくて、けれど柔らかいその手。

 その手が。

 震えていた。


「先輩……」


 呆然と、つぶやく。

 先輩は、すっと手を離した。


「さあ、行きなさい」


 優しい微笑み。

 それは、僕に力をくれた。


「見届け役はわたしがやるわ。それで文句はないでしょう?」


 挑戦的な美空先輩の声に、安土さんは苦笑したように見えた。


「別に構わないよ。七世〈銀〉(しろがね)に力量が不足しているはずもないし」


 先輩が篝火の明かりの向こうへ消えると、入れ替わるように少女が姿を現す。

 抱きかかえている日本刀は1メートルぐらいはあるんじゃないだろうか。持っている女の子が小柄だからというのもあるんだろうけど、やたらと大きく見える。

 ……いや。

 耳鳴に似た音が、その日本刀から聴こえてくる。

 ゾクリとした。

 音ではない音。

 死の気配を凝縮したような音。

 そして一瞬だけ、僕の『耳』は刀と少女の聞き分けができなかった。


 5メートルほど離れたところで少女の足が止まった。炎の赤を映し込んだ瞳が、じっと僕のことを見つめる。

 白い顔が赤く輝いている。

 揺らめく炎のせいで陰影が変わり、万華鏡をのぞき込んでいるかのようにくるくると表情が変わっているのかと錯覚してしまう。

 実際は僕のことを見つめながら、表情はいささかも変わってはいない。ただひたりと、僕のことを見つめているだけだ。

 彼女がそっと目を伏せた。よく見ていなければ見逃してしまいかねないかすかな表情の変化。


「うちは友里ともさと雪花せっかゆうんよ。でな、これが宗近」


 小さな声でそう名乗り、抱えている大刀を少しあげてみせてくれた。小柄な彼女が抱えているからなのかもしれないけど、随分と大きな刀だった。


「あ、えっと、狭山宗哉です」


 なんていうか、ものすごく間抜けな挨拶をしているなーなんて自分でも思った。


「どうして、僕なの?」


 尋ねてみる。理由を聞いておかないと、どうにも落ち着かない。


「僕は君を知らない。君も僕を……」

「うち、宗哉はんのこと、よう知っとるよ」


 言葉に詰まる。


「額辺のお屋敷に〈銀〉はんに連れられて来はった時は、いつも見とった。うちだけやないよ。みんな、宗哉はんのことは気ぃかけとる」


 知ってはった?と、少女はそう、小首を傾げてみせる。

 そんなことを言われても、僕は自分のことに必死で他を見る余裕なんてなかった。

 突然放り出された暗い森の中で、先輩についていくのがやっとだった。きっと先輩がいなかったら僕はその森の中で進むことも戻ることもできずにただ立ち尽くしているだけだったと思う。

 だからこの子のことは……見ては、いなかった。


「宗哉はんは、〈銀〉はんの恋人さんなん?」


 突然の質問に、また僕は答えることができない。チラリと先輩を見ると、暗いからよくわからないけど平然と僕を見返している……ように思う。

 そう。恋人じゃないと、思う。たぶん。

 確かにああいうことはあったけど、あれは僕の暴走した結果だったし、あれ以来、そういうことをしてないのかというと……実は結構あるんだけど。なんというかそれは、押し切られてるというか成り行きというか、先輩自身は子孫を残すためとか言い切ってるし……。

 先輩にそのつもりはないと、思う。たぶん。

 ……じゃあ、僕は、どうなんだろうか?


「エエな」


 ポツリと、赤い少女は言った。

 僕の沈黙を、どう受け取ったんだろうか。


「うちは、一人や」


 寂しげにそうつぶやく。


「うちはな、この三日月宗近の鞘にならなあかんのやわ」


 そっと小さな手に握りしめられた日本刀をあげてみせる。それはまだ幼い彼女の手にはあまりに大きいものだった。


「うちはこの儀式で宗近の鞘にならなあかん。やから……やからな、宗哉はんにその相手になってもらいたいんよ……堪忍え」


 ゆるりと。

 水が流れるような、なめらかな動作で、少女は刀を抜いた。


 ――どうやって?


 実際に目にしていたはずなのに、自分の目を信じることができない。

 大きな弯曲のある刀は、少女の身長ほどの長さがある。重さだって尋常なものではないはずだ。

 それなのに少女は、ただの一動作で彼女の身に余るような刀を抜きはなってみせた。

 美しかった。

 刀身が篝火を映して紅く輝く。

 刀身の輝く紅に、緋色の着物。

 凛とした姿は、まさに一振りの刀のようだ。

 そして左手を刀身の棟に添え、掲げるように切っ先を僕へと向けた。


「……堪忍え。うち、宗哉はん殺さなあかん」


 幼い言葉が、さざ波のように耳から入ってくる。

 理解できない。

 彼女は何を言っている?


「どうして?」

「……堪忍え」


 滑るようにスルスルと少女が動いた。


 迷う。

 狼身へと変わるべきか、もう少し話してみるべきかを。

 ほんの一瞬だけ、迷った。


「宗哉くんっ」


 美空先輩の叱咤に、戦いにおける最大のミスを犯したことに気付いた。

 彼女の姿が消えていた。とっさに前に出る。意識なんてしていない。視界の範囲にいないのなら、見えていないところから攻撃がくるだろう。ただそう思っただけのことだ。

 風音。

 一瞬先まで僕がいた場所を銀光が薙ぐ。

 嫌な汗が背中を伝う。

 判断が遅れていたら間違いなく僕の首と身体はわかたれていただろう。

 これは冗談抜きで、全力で相対さないと命が危ない。このままの姿では数瞬後には殺されてしまうだろう。

 思った途端に、全身が火のように熱くなった。

 細胞が猛烈なスピードで活動を開始し僕の身体を作り替えて行く。

 筋繊維の質が変えられ盛りあがる。骨格がギシギシと音を立てながら密度を増し変形していく。毛穴という毛穴から獣臭を放つ毛が伸び、青みがかった灰色の毛並みとなる。

 そして平らな人の歯がぎりぎりと伸びて鋭い肉食獣の牙となる。

 狼身への変化は一瞬で終わった。


 ちりちりとたてがみが逆立ち震えている。

 絶対的な危機。人狼の驚異的な回復能力をもってしても補うことのできない危険が迫っている。変身することによってむき出しになった本能がそう告げている。

 それが目の前に立つ小柄な少女によってもたらされるなんて、冗談にしては出来が悪い。

 にじり寄るような、すり足の一歩。

 少女の腰はしっかりと下ろされており、容易に隙を見出すことはできない。

 じりじりと間合いが詰まる。

 おれは地面を蹴って後ろへ飛んだ。10メートルほど離れた場所に着地する。


「ええ判断どすな」


 少女は口の端をわずかにあげて笑みを浮かべている。先ほどとは、まるで別人のように。

 ぎちぎちと歯を噛み鳴らす。

 危ないところだった。

 おそらく、あの距離が彼女の間合い。剣の結界ともいうべき距離なのだろう。

 一歩……いや、半歩でも踏み込めば無事ではすまない。


「離れたゆうても、まだうちの距離どすえ」


 少女は右下に切っ先を下していた刃を、一歩踏み出して振り上げる。

 刹那。

 己の肩が弾けた。


「宗哉くんっ!」


 その声を聞き流す。答えている余裕はなかった。

 左肩を押さえる。

 出血はない。だが肩の肉が大きく抉り取られていた。

 この距離で刃が届くはずはない。カマイタチのようなものだろうか。

 以前戦った忌の能力を思い出す。似たような技があっても不思議ではない。

 わずかに左肩を動かす。引きつるような痛みはあるが動かせないほどの怪我ではないのは不幸中の幸いか。

 だが、いつもと違って治る気配がない。人狼の回復能力が働かない。これが九十九の刃に斬られるということか。

 こんな事態になってはじめて、死というイメージが頭の中で具体化する。


「次は、首どす」


 再び、少女の腰が降りた。

 納刀はしていないが、左腰に刀を構えている。居合のような格好だった。近づいたら、真一文字に横薙ぎに斬られる。

 それでも爪と牙が届かなければ、こちらとしてもお話にもならない。距離をとっても中途半端な距離でも一方的にやられるだけだ。

 だからあの長い刀の間合いのさらに内側、体が密着するような距離にまで踏み込む。

 頭を振る。

 ぐるりぐるりと首を回すことによって相手との距離を正確に測る。


 先手必勝。

 思い切り地面を蹴りつける。

 足元で小石が舞い上がる。世界が左から右へと溶ける。一気に5メートルを飛ぶ。少女は視界に捕らえている。動きはない。

 左足でもう一度地面を蹴る。今度は右から左へと景色が飛ぶ。

 二度のフェイント。少女の振り出しとクロスするような突入なら、その交差する一瞬の攻撃さえ外すことができれば勝機はある。

 視界に収めた少女は両目を瞑っていた。

 くっ――。

 構わずに少女の右前方から左後方へ抜けるように迫る。

 転瞬、少女の姿が消えた。

 頭で考えるよりも早く、しゃにむに地面を蹴る。

 体が大きく浮き上がり、己は無様に背中から川の中に落下した。

 肺に入った水を吐き出しながら起きあがる。

 少女は、先ほどまで己が立っていた位置から、平然とこちらを見ていた。


 ――速い。

 目が追いつかない。

 人狼の敏捷さは他の種族の追随を許さないと聞いていたが、こと踏み込みのスピードに関しては刀剣九十九に軍配が上がるらしい。

 目で追えないどころではない。瞳にさえ映らないスピードだ。これでは話にもならない。

 いや。

 川原なら、そうだろう。

 だが、水の中ならどうだろうか。

 腰まで浸かった水の中では水に身体をとられ動きが制限される。足場も乾いた川原に比べて格段に悪い。

 もちろん己のスピードも落ちる。

 だが筋力が圧倒的に劣る相手の方がより大きなハンデを負うはずだ。そうなれば互角に戦える。


 ジリと、後ずさりする。

 緩やかな水の流れとはいえ、予想以上にバランスを取ることが難しい。

 あのカマイタチの間合いはどのくらいなのか。

 水底は川原から離れるに従い深くなっていく。あまり深みへ近づいては自分自身が動けなくなってしまう。

 少女は無表情のまま、刀を左脇に、切っ先を地面にするほど低く構えた。

 さらにジリリと後ずさる。


 耳鳴が聴こえる。

 耳鳴に似た音。むせび泣くような三日月宗近の音。まるで死の気配を凝縮したような。

 それを操る無表情な少女。

 ふと、疑問に思った。

 こんな状況にも関わらず疑問に思った。

 彼女自身の音はどこにあるのだろう。

 九十九の本体はそれを操る人ではなく物の方だと言っていた。

 だったら今あの刀を振るっているのは、あの子ではなくあの刀そのものではないだろうか。

 ならば、彼女自身は、どこにいる?


 ――うちは、一人や――


 彼女の――雪花の言葉が頭に浮かび上がる。

 寂しげなセリフと寂しげな表情と。

 馬鹿か、己は。

 今そんなことを考えたら――。


 予備動作もなく、静止していた少女が動いた。

 カマイタチを放つまでもなく、自らの足で水の上を駆ける。

 …………駆ける!?

 少女の足先は水面に波紋を作るだけで沈むことはなく、速度を落とさず己に向かってくる。

 バケモノめッ!


 両手を組み力任せに水面に叩き付ける。

 巨大な水柱が立つと同時に右の水中へと身を投げる。そして横目に、とんでもない物を見た。

 水柱が、斬れた。

 中程から斜めに。

 凍っていない水がまるで何でもない板のように、スッパリと斬れた。

 その向こうから赤い服を着た少女が飛び込んでくる。

 彼女の身体は宙にある。

 チャンスだ。

 己はまだ不安定な体勢を無理やり起こし、まとわりつく水をパワーにまかせて振り切って、彼女へと飛びかかる。

 踏ん張ることのできる地面がなければ動きは制限される。ここを逃せば勝機はない。

 少女がこちらを見下ろす。

 腕は頭上。大上段から、あらん限りの力を持って今まさに振り下ろさんとしている。

 直感した。

 罠だ。

 罠にはめたつもりで逆にはめられた。

 ドクンと心臓が大きく一打ちする。

 それは、熱く、激しく、猛々しい。

 身体の奥から狂暴な何かが頭をもたげた。

 狼の本性。

 己は止まらずに、牙を剥きだし、彼女の細い首筋を狙った。

 時間の進みが急に遅くなる。

 彼女が腰をひねり、剣尖が己の頭目がけて理想的な螺旋を描く。

 身体の動きが鈍い。

 殺られる。

 少女の顔がふと曇ったように見えたのはその時。

 切っ先が耳を掠める。

 左腕が断ち斬られる。


「宗哉くん!」


 先輩の声が耳朶を叩く。


 己は――


 勢いを殺すことなく彼女の脇をすり抜け、より岸に近づく。左腕からは血が滝のように流れている。

 失策だったか。

 このままではそう長くは戦えない。

 だが。

 己は彼女の表情が気にかかっていた。

 あの気味悪い太刀の意志じゃない。

 彼女自身は、何を思っている?

 彼女自身は、何を望んでいる?

 そして何故、己は選ばれた?

 振り返る。

 少女はじっと己を見ていた。

 無言で、一分の隙も見せずに刀を構えて。

 音が、聴こえた。

 微かな、幽かな音。

 それはやっと聴こえた、彼女自身の音。

 不安げで、寂しげな。


 ――そうか。


 不意に理解する。

 彼女自身はきっと一人なんだ。

 こんな戦いは早く終わらせよう。

 狙いはあの刀だ。

 彼女より実力で劣る己が、彼女を傷つけずに刀を奪い取るなんて不可能かも知れないけれど。

 でも、こんな小さくて独りぼっちの女の子を殺す選択はどうしても選べない。

 左腕から血が抜けていく。

 この分だと、もう持たない。

 刀が月光を反射し玲瓏れいろうに輝く。


 ゴオと己は喉の奥から吠え、水を盛大に蹴りたてながら彼女へ向けて駆けだした。

 策はない。

 ただ一直線に刀までの最短距離を駆ける。

 目指す太刀――三日月宗近は半円を描いて、やや左斜め上、八相に構えられる。

 少女の右足が半歩前に出た。

 己は前傾にスピードを上げ、大きく一声吠える。

 剣の結界に踏み込む。

 太刀が振り下ろされ、そして。

 白銀の光が目の前に現れた。


「――っ」


 しまった。

 考えが浅かった。

 このままでは斬られる。見事に。完膚無きまでに。二つに。分かたれる。

 目をつぶる。

 もう、ダメだ――

 思った瞬間、急速に頭の芯が冷えた。

 聴き分ける。迫る刃の音を。

 次の瞬間、己の顎はがっきと三日月宗近の刀身をくわえ込んでいた。

 並の刀ならそのままへし折れるほどの力が加わっているにもかかわらず、宗近の刀身には傷一つつかないようだ。

 それをつかんでいる細い腕からは信じられないほどの力が込められていた。ぎりぎりと牙と刃が競り合う。

 まずい。失血のせいか力が抜けてきた――。


「そこまでっ!」


 ゆっくりと目を開けると美空先輩がいた。

 右腕で少女の刀を持つ手を押さえ、左腕で己の顎に手を添えていた。

 ずるりと刃が力を失った顎から外れた。その瞬間、僕の身体は人の姿をとる。


「勝負あったわ。宗哉くんにはもう、戦う力はないから」

「……先輩、僕はまだ……」

「もっと自分の状況を把握するようになさい。そんなことでは生き残れないわよ」


 途端、ガクリと膝が折れ座り込んでしまった。

 確かに先輩に止められなければ、競り合いに負けてそのまま切り裂かれてしまっただろう。

 先輩が服が血で汚れるのも構わず、僕を抱き起こす。

 ……ちょっと情けない。


「……あの、宗哉はん、大丈夫どすか?」


 恐る恐るといった調子で声をかけられた。先ほどまでの凛とした空気はどこかに消えている。


「大丈夫……とは、とても言えないけど、なんとか生きてるよ。君は?」


 返事の代わりに少女は大きくうなずく。

 きっと大丈夫だろう。結局、僕の牙も爪も彼女に掠りもしなかった。

 美空先輩が、やや苛立ったように少女に尋ねる。


「それで、儀式の結果は?」

「おかげはんで、うちと宗近は、一つどす」


 ヒュンと太刀を一振りし、彼女は刀の切っ先を己の左手に差し入れた。

 刀は刺さらず、スルスルとまるで手品のように小さな左手の中に収まっていく。

 鞘になるとはこういうことか。

 視界が暗くなってくる。

 そろそろ意識がやばい。


「……よかったよ。君の役に立てて」

「あの……宗哉はん、君やのぉて……」


 沈黙。

 少女が戦いの最中よりももっと緊張した面持ちになる。

 たっぷり十秒ほどためらった末に、少女は言った。


「うちのこと、せっちゃんて、呼んでくれへん?」

「……わかったよ。せっちゃん……」


 そして暗黒に包まれる。

 せっちゃんの笑顔と美空先輩の面白くなさそうな顔が、最後に印象に残った。


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