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朝顔3

 川面をわたる風が、私のほほを撫でるように通り過ぎてゆきます。

 ひんやりした水気と濃い緑の匂い。

 さわさわと頭上の木々の枝が揺れ、葉がすれる音とサラサラと流れる川の音。

 川幅が細く流れの速い瀬が大きな岩山を回り込むようにカーブを描くこの場所は、流れが緩やかで幅広な流れの澱みとなっています。

 私たちがいる川のこちら岸は小石の転がる広い川原となり、水かさも私の膝ほどの浅さ。

 対岸は切り立った一枚岩の崖で、水は深緑の色の淵。崖の上から水面に腕を伸ばしている緑の枝は何か物の怪が覆い被さるようで、少し恐いかも知れません。


 パシャリと小さな音がしました。

 見ると、魚でも跳ねたのか、水面の上を波紋が広がりながらゆっくりと流れて行きます。

 先ほどから膝までを水につけてじっと流れを見ていた雪花さまが、ゆっくりとこちらに振り向かれました。

 大きな太刀を両腕に持て余し気味に抱え、興奮されたのか、目を少し見開かれて。


「いかがなされましたか……?」


 私の問いかけに、雪花さまはしばし言い淀み、小さく、


「お魚はん……」


 と、呟かれました。


「お珍しいですか?」


 コクリと、うなずかれます。

 パシャリと、また水音。

 今度は先ほどのものよりも大きな。

 水面から翠の色をした固まりが飛び出し、矢のように木々の間へと飛び去って行きました。

 翠の鳥。

 そのくちばしに銀にきらめく鱗もつ魚をくわえた翠の鳥。


「川蝉ですね。あのように枝の上から魚を狙い、水の中に飛び込んで獲る鳥です」


 不思議そうな顔をする雪花さまに教えてさしあげます。


「……青い羽根もってはった」

「そうですね。とても綺麗な羽根を持っています。……私の、一番好きな鳥です」


 それを聞くと、雪花さまはゆっくりと微笑まれました。その笑顔を見て、初めて私はこうして良かったと思ったのです。


 ……お屋敷には置き手紙をしてきたのだけれど、姉さんはちゃんとみつけてくれたでしょうか?

 勝手に雪花さまを連れ出したのですから、もしかしたら乎子さまからひどくお叱りを受けているかもしれません。

 ……いえ、きっと。

 いつもそう。

 私は姉さんに迷惑ばかりかけています。

 お料理だって姉さんはしっかり教えてくれているのに私はまともに作ることができないし、お掃除も頑張ってやっているつもりなのにいつも物を壊してしまいます。そのたびに姉さんは笑顔で私のことをかばってくれるけれど。

 いつかは姉さんに迷惑をかけないで一人でやっていけるようになりたい。それが私の目標だったはずなのに。

 また私は姉さんに迷惑をかけている。

 かけてしまって…………いる。

 私は姉さんに迷惑をかけてはいけない。

 何故なら、私がいるせいで姉さんはたくさんの我慢をしてきているのだから。


 いつだったでしょうか。姉さんは大宿曜である柳田やなぎだ杏子きょうこさまから直々に後継にしたいというお申し出を断ったりもしました。

 いいお話だからって乎子さまも熱心にすすめてくださったのに、姉さんは笑顔でそれを断ってしまいました。

 夜属の世界にあまり明るくない私ですけれど、柳田さまのお噂ぐらいは耳にしたことはあります。

 姉さんが目覚めた宿曜というのは、ちゃんとしたお師匠さまについて勉強をするものだという話を聞いたことがあります。それは先代の宿曜が集めた知識や技術というもののすべてを引き継ぐことができる、大変重要で、名誉あることなのに。

 こと大宿曜と呼ばれる柳田さまともなれば、宿曜としてこれに勝る喜びなどはないはずなのに。

 きっとあれは、私ひとりだけでは心許ないから断ったのではないかと、そう思うのです。

 姉さんには、迷惑をかけることはできない。

 それでも。


 ふと気づくと、雪花さまは再び川面に目を向けておられました。

 水面に舞い落ち、ユルリと流れ行く木の葉。

 木々の間より漏れる陽の光が、反射してきらきらと眩しげに煌めき――。

 そして。

 スッと、雪花さまの細い右腕が、水の中に差し入れられました。

 コクリと、何故だか緊迫した空気に息を呑んだ次の瞬間。

 バチャバチャと小さな水音と共に、虹色に光るヤマメが雪花さまの手の平の中にいました。

 まるで魔法のように。


「紅玉はん。うち、川蝉みたいやろ?」


 笑顔。

 雪花さまがお屋敷に来られた五年間で初めて見せられた、心からの笑顔。


「はいっ」

「きゃっ!?」


 答えた途端にヤマメが暴れ出します。

 ほんの10センチほどの小さな魚ですけれど、雪花さまの小さな手には余るようで。

 ついにはスルリと手から抜け出してしまいます。慌てて追いかけてつかみ、その手をさらに抜け出て……。

 バシャリと、大きな水音。

 抱えていた太刀を両腕で頭上にかかげて、雪花さまは尻餅をつかれていました。


「ふわ。びしゃびしゃになってしもうた」


 きょとんとした顔で私のことを見上げている雪花さま。13歳という年相応の可愛らしい、あどけないお姿。


「紅玉はん。笑うなんてややわぁ」


 ぷぅとほほをふくらませる雪花さまに、私も、我知らず笑みを浮かべていたようです。


「風邪をひくといけませんから早くあがってください。服は石の上に広げて置いておけばすぐに乾きますよ」

「うち、平気やよ?」


 こくりと首を傾げられます。


「駄目ですよ。風邪は油断してるとひくんです。キノコお化けより恐いんですから」

「……わかったわ」


 キノコお化けというのは、姉さんが雪花さまに聞かせた作り話に出てくるお化けのことです。

 そのおかげで雪花さまはキノコの類を食べることができなくなってしまい、大変困っているのですけれど。

 雪花さまが背を向けたので、私は水を吸って固くなった帯を解き着物を脱がしてさしあげます。雪のように真っ白な肌が強い日差しを受けて輝いています。私は陽の当たる大きな岩の上に、濡れてしまった着物と帯を広げました。


 その横に用意してきた風呂敷を広げると、太刀を抱えているだけの姿の雪花さまと一緒に座ります。

 風に揺れる木々の枝葉は夏の日差しを優しい木漏れ日に変え、素裸の雪花さまにユラユラと降り注ぎます。

 その中で、雪花さまは少し寂しそうに膝を抱えました。


「残念でしたね」

「なにが?」

「ヤマメが、逃げてしまいました」


 雪花さまは、初めてそれに気付かれたのか一瞬キョトンと私の顔を見て、虹色の魚が逃げていった川面に目を向けました。


「ああ……そやなぁ。でも、ええねん」


 水面に、魚が大きく跳ねて。


「狭いところに閉じこめても、可哀想やん。うち、閉じこめるのは嫌や」

「……雪花さま」


 小揺るぎもせずに川面を見ながら、呟くように、泣き出すように。

 ああ、この方は、ヤマメに己の姿を……。


「わかっとるよ。わかっとる。うち、お屋敷に居るのが嫌や言うてるわけやない。うちが居てええんはお屋敷だけやし、紅玉はんも乎子さまもみんなええ人やし。藍玉はんのお話はちょっと怖いけど面白いしな。……それに」


 雪花さまの白く小さな手が、宗近の鞘をぎゅっと握り込みました。


「それに、うちのお役目のこともようわかっとります。誇りもあります。やけど、やけど……」


 我知らず、私の両腕は雪花さまの華奢な両肩を包んでいました。まだ十を三つ越えただけの幼い肩。運命を背負うには、細すぎるほどの。


「大丈夫。大丈夫ですよ、雪花さま。私がついています。何があっても、私があなたの味方になってさしあげます。だから……ね?」


 私の胸元に額を押しつけて、雪花さまはコクリとうなずかれ、そして小さく囁くように言いました。


「あんな」

「はい?」

「あんな、紅玉はん。もう一つだけ、うちのお願い聞いてくれへんかなぁ」

「いいですよ。言ってください。私にできることなら、何でもしてさしあげますよ」


 雪花さまは、少しためらったかのように沈黙した後、先ほどよりももっと小さな声で。


「あんな、あんな紅玉はん。うちのことは『せっちゃん』て呼んでくれへん?」

「せっちゃん……ですか?」

「うん」


 おかっぱに切りそろえた黒髪の下から、恐々とのぞき込むよう見上げる雪花さま。

 考える前に、私の頭は縦に振られていました。


「……ほんまに? ほんまにええん?」

「はい」


 この感情は、何でしょうか?

 胸の奥よりわき起こってくる、なにやらくすぐったいような、それでいて締め付けられるような。


「おおきにな。ほんま、おおきに」


 雪花さまは再びあの笑顔を浮かべました。普段のひっそりとした静かな印象が、この時ばかりはまるで太陽の下で花開くように。

 私はこの時、強烈に、この方をお守りしたいと思ったのです。そしてその事を当然のこととして受け入れたのです。

 それはまるで欠けていた絵画の一片が、ある瞬間に見事はめられたような。


 不意に雪花さま……ではなくせっちゃんさまが真剣な顔で頭を上げられました。

 ジャリリと川原の石を踏みしめる音。

 振り返ると、いつの間に近づいたのか黒いシャツの女性がそこに立っていました。


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