一初3
お昼の忙しい時間が過ぎる頃、目標はバイトが終わるらしい。初穂から新たに仕入れてきた情報のおかげで歩き回る手間が省けた。
バイト先は喫茶店『タラモア・デュー』。なんのことはない、午前中に初穂と一緒に入ったお店だった。きっとそのことを承知していた上で待ち合わせに利用したに違いない。こういう回りくどい手はいつものことだった。
写真で確認をしてあった人相の少年がタラモア・デューのある緩やかな坂道を降りてくる。
小柄で華奢な体つき。ちょっとクセのある髪。間違いなかった。
「狭山宗哉君だね。わたしは安土月子。九十九……と言ってもわからないか。ま、夜属なんだけどさ」
彼の前に立ってわたしは名乗った。ふと見ると、わかるかわからないかぐらいではあったけれどため息などついている。
「いい若い者が路上でため息とはいただけないね」
からかい半分で言ってやると、少年はますます憮然とした表情をした。随分と、わかりやすくて素直なようだった。
「あの、僕に何か用でしょうか?」
「用があるから、わざわざ来たんだけど」
夜属と名乗っている相手にこういう対応をとるのはちょっと見かけない。変わった少年だ。
「立ち話というのもなんだし、ちょっと付き合いなさいな。少しぐらい、時間はあるでしょ?」
「いや、それほど暇っていうわけでもないんですけど」
「美人のお姉さんのお誘いを断るなんてことはしないよね?」
うふふふふと笑ってやる。
「…………はぁ」
返事ともため息ともとれないけど、わたしは承諾と受け取ることにした。どちらにせよ、少年の意志を尊重するつもりはないのだからいいんだけれど。
どうにも煮え切らない態度の少年の背中を押すようにして、わたしは近くにあるファミレスへと足を向けた。
店員の案内は待たずに空いたスペースへと向かう。当然、喫煙席だ。
合皮のシートに腰掛ける。
なぜだか知らないが、後からついてきていた少年は呼び止めたらしいウェイトレスにぺこぺこ頭を下げていた。面白い子だ。無視してシートに座っていれば勝手に注文を取りに来るというのに。あんなに気を遣って疲れないんだろうか。
少年がわたしの向かいに座るのを待って話を始める。
「ちょうどおやつの時間だし、ケーキセットぐらいにしておこうか。なに、心配しなさんな。わたしのおごり」
といっても、ケーキとドリンクバーのセットの値段なんてたかだが知れているし、味なんて期待する方が間違っているんだけどさ。
ファミレスを場所に選んだのには、ちゃんとした理由がある。
多少込み入った話をしようと思ったら、こういったある程度オープンな場所のが向いているからだ。どうせ隣の席に座っている奴がどんな話をしているかなんて聞き耳を立てていることなんてないのだし。
ウェイトレスへの注文を済ますと、わたしはさっそくドリンクバーへと向かった。
グラスをアイスコーヒーのところにセットしてボタンを押した。
だぼだぼとこぼれ落ちるように黒い液体がグラスに溜まっていくのを冷めた目で見つめる。作り置きしたコーヒーほど不味いものはないが、合成着色料の入ったジュースなんて飲めたものではないし、我慢することにする。
氷を入れてから席に戻った。遅れて席に戻ってきた少年のグラスにはオレンジジュース。
「さて。改めて自己紹介からにしようか。わたしは安土月子。表向きの仕事としては雑誌のライターなんてものをやっているんだけど、今からする話にはあんまり関係ないかな。
君のことは大体知っているつもりだけれど、簡単な自己紹介をしてもらえると助かる」
そう促しておいてストローをグラスに差し込む。
「狭山宗哉です。加賀瀬高校の二年生です。もっとも、そのあたりはご存じみたいですけど」
顔に似合わず、皮肉っぽいことを言う少年だ。けどまぁ、子犬が必死になってぐるぐるうなっているような感じで好感が持てる。
ストローに口を運ぶ。
黙ってコーヒーが入ったままのグラスを持ってドリンクバーへ向かった。
飲み残しを排水口に流し込む。冷水でよくグラスの中をすすいでから、冷茶を改めて入れる。
ドリンクバーから去り際に右手を一閃させた。
黙って席に戻ると、少年が呆然とした表情でわたしを見ていた。
「わたしの顔に何かついてる?」
「あ、いえ。なんでまたドリンクバーへ行ったのかなーと思って」
「なんでもないよ。とりあえず話を続けよっか」
「でも、なんかドリンクバーのほうが大変なことになっているみたいですよ」
少年が指差す先をわたしは決して見なかった。
「そ。でも、わたしには関係ないことだね。不良品だったんじゃない?」
「そうなのかもしれませんけど、だからといって、まっぷたつに割れる不良品なんて聞いたことありませんよ」
疑わしそうにわたしを見る少年。可愛い顔をしているクセに、追及は厳しい。
現場を見なくても周囲の客たちのもたらすざわざわとした様子と、店員の状況を収めようと右往左往する様が手に取るようにわかる。
「珍しい不良品なんだね」
きっぱりと言い切るわたしの顔をじっと少年が見つめる。
「見られるのは嫌いじゃないけど、惚れたりしないでよ。わたしは年下に興味ないから」
ぷぃ、と少年は横を向く。微妙に頬が赤くなっているのが可愛らしい。
「そんなんじゃありません」
「なら、お話を続けましょうか」
はっきり言って不味いコーヒーを出す方が悪い。これはもう、絶対に向こうが悪いのだ。
「さて、話を戻そう。さっきも言った通り、わたしは君と同じく夜属なの。で、その役割が『見極め』なわけ」
グラスに入ったお茶を飲む。さっきよりはいくらかマシだった。
「あの、何を見極めるんですか」
「君が夜属として相応しいかどうか。ちゃんとこれから先もやっていけるかどうかを見極めるの。検定試験官みたいなものかな」
もっとも無事に卒業できる者はいいとして、失格者には死後の世界をプレゼントしないといけないんだけど。
少年は何やら考えを巡らせているらしい。テーブルの上をじっと見つめている。
「……それは辞退を申し出ることはできるんでしょうか?」
随分と面白いことをいう少年だ。
「できると思う?」
「寛大さと見て見ぬふりができる人なら」
「残念、わたしは自分の役割に誇りを持っているから、見て見ぬふりなんてとてもできないね」
がっかりとばかりに少年は肩を落とす。なかなか面白い子だ。
少年が顔を上げる。
「見極めというのは具体的にどういうことをするんですか? たとえば僕の生活の様子を逐一見守るとかそういうのだとちょっと困るんですけど」
「そういうのがお好みならそれでもいいけど?」
少年は慌てて頭を振る。
「遠慮しておきます」
それを見て、わたしはくすりと笑う。
「よくある例としては狩りに同道したり訓練に手を貸したりというところだね。そういうのを通じて、夜属としての生き方をきちんと学んでいるかを判断するわけ」
ただし手助けをすることは絶対にない。そこで死んだとしたらそれまでであったとするだけだ。
「それには判断基準とかあるんですか? たとえばこれをしてはいけないとか、あれはしてもいいだとか。事前に教えてもらえたら手間も省けるんじゃないかと思うんですけど」
長いことこの役をやっているけど、こんな質問をしたのはこの少年が初めてだ。要領がいいというかなんというか。
この少年があの〈銀〉の〈仔〉というのも面白かった。さぞや、お堅い〈銀〉の態度に頭を悩ませていることだろう。
「特にこれというのはないね。しいてあげるとしたらわたしの趣味ってことになるけど?」
少年はげっそりした顔をする。どうやらこの回答はお気に召さなかったらしい。
「気に入らない?」
「……傾向と対策も立てられないんですね」
「世の中、そんなものだし。絶対の正義なんてものが存在しないように、普遍の正解も存在しない。たとえ同じ行動であったとしても、状況が異なれば正解は違う。そういうものでしょ」
少年は黙ってわたしのことを見ている。
からりとグラスの中の氷が形を変えた。
「そう……ですね。なんとなくですけどわかるような気がします」
「ご理解頂けたようで幸いね」
少年がむっとしたような顔をする。
「ああ、ごめんごめん。別に悪気があって言ってるんじゃないんだ。気を悪くしたんなら謝る」
腰のポーチからタバコを取り出して、百円ライターで火をつける。
ゆっくりと煙が天井へ向かって立ち上る。
「タバコ、吸われるんですね」
白い煙の向こうに見える少年の目には、少しばかり非難の色があるような気がする。
「女がタバコを吸うのは嫌い?」
「そういうわけじゃありませんけど。むしろ安土さんの場合は様になっているというか、格好いい感じがしますね」
「おだてたって、なにも出ないんだけど」
二人してひとしきり笑う。
「父さんがタバコを吸っていたから。だから、好きじゃないんです」
少年の肩が小さく落ちるのを目の端に止める。
「そ。ま、そんなこともあるでしょ。……わたしの場合、タバコが好きなわけじゃないんだ。ただ、なんとなく。救われるような気がするから……かな」
少年の瞳の色を見てしまったせいか、わたしまで柄にもないことを言ってしまった。
慌てて灰皿にタバコを押しつける。
「あー、暗い話はここまで。さっきの話を続けるとしよっか」
わたしはウェイトレスが持ってきた、さして美味しくもなさそうなチョコレートケーキにぶすりとフォークを突き刺す。半分に切って、それを口の中に放り込んだ。
……甘すぎる。いくらなんでもこの甘さはチョコレートに失礼だろう。月子のオススメ度#★。ちなみに星が黒いのはマイナス評価。
「どうかしたんですか?」
少年がわたしの顔を見て問いかける。眉間に三本ぐらいシワが寄っていれば聞きたくもなるだろう。
「なんでもない」
フォークを置いてお茶を飲んだ。というか、液体で流し込まないととても食べられそうになかったんだけど。
これ以上はとても食べられそうにもないのでケーキの乗ったお皿は脇へやる。
「とりあえず君の見極めについてなんだけど、額辺の屋敷に伝わる九十九が〈試儀〉の相手に君を選んだからそれにするつもり。がんばんなさい」
「…………は?」
「だから〈試儀〉の相手。三日月宗近だから人狼の相手に不足はないでしょ。いい勝負になるのを楽しみにしているよ」
「………………は?」
少年は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてわたしを見ている。
「〈試儀〉のことを知らないの?」
こくこくとうなずいている。
どうやら〈試儀〉についての説明を〈銀〉がしていなかったらしい。
もっとも種族も違う九十九独自の通過儀式について、人狼である〈銀〉がその由来や謂れを知らないのも当然なんだろう。おそらくわたしが知らないだけで、人狼の特殊な儀式や能力なんてものもあるはずだ。
「〈試儀〉というのは、いわゆる通過儀式。日本でいうところの元服みたいなものだと思えばわかりやすいかな」
「元服って、武士とかが一人前として認められるためのあれですか」
「必ずしも武士だけに限らないけどね。ま、あんな感じのものだと思ってもらえればいい。わたしたち九十九というのは本体が器物なの。わたし個人はただのヒト。人狼や鬼のように本来の姿に戻るってこともない」
本来の姿というところで少年が少し反応したが、それを無視して話を続ける。
「で、憑いた器物を使いこなしてはじめて一人前として認められるわけ。失敗したら資格なしとして夜属の世界から放逐される。結構、厳しいものなのよ、これって」
つまりヒトの世界からも夜属の世界からも外れた存在であるわけだから行き着く先は死しかない。人知れず始末されるのが九十九の常だ。
「僕はどんなことをすればいいんですか? 希望としては命の危険がないものがいいなーなんて思っているんですけど」
わたしはほぅとため息をつく。
「それはわからないね。たとえば楽器の九十九だった場合は一緒に演奏をするとか、舞をあわせればいいこともあるし。もっとも三日月宗近は天下五剣といわれる名刀だから、自ずとすることはわかると思うけど?」
少年の表情が微妙に固まっていた。
「結局、そこへ行くわけですね」
ため息混じりに漏れる言葉。
「ま、光栄に思うことだね。〈試儀〉の相手に選ばれるというのは名誉なことなんだから」
おまけに額辺の三日月宗近といえば、二本とない名刀だ。こんな機会は滅多にない。
けれど、少年はぶすっとした表情を変えようとはしなかった。
「不服?」
「僕の事情を考慮してくれない状況に対してはそうですね」
「ま、腹くくっときなさい」
わたしからはそれぐらいしか言えることはない。
「ところで、僕の見極めの結果、不適当と見なされたらどうなるんでしょうか?」
「知りたい?」
「それはそうですよ。なんといっても自分のことですから。できれば穏便に済ませてもらえると嬉しいなーという個人的な希望もあったりしますが」
わたしはほぅとため息をつく。
「なんだか嫌なタイミングのため息ですね」
「あら、わかる」
「ええ。これまでの会話の流れからしても、僕にとってあまり嬉しくない結末が待っていそうな気がします。できれば、気のせいであってくれるととても嬉しいのですが」
「安心して。165以上の肉片に切り刻んであげるから。呼吸ひとつぐらいで終わるし」
おまけに笑顔もサービス。
少年の表情はものの見事に固まっていた。わたしとしては、それほど意外な返答をしたつもりはないんだけど。
「お断りしたいですね。僕は捨て石にはなりたくありませんし」
そんな気の利いた回答をするあたり、この少年は元ネタを知っているらしい。嬉しくなって、わたしは思わずにやけてしまった。
「あはは、気に入った。やっぱり君は面白い。できれば見極めを見事突破してもらいたいものだね」
少年はげっそりとした顔をする。
「そんなに嫌?」
「嫌というよりも、自分が自分でなくなっていくような感じがして……」
それはそうだろう。夜属に覚醒をすれば、ヒトというカテゴリーから外れるわけだから。
それが血筋として伝えられている場合にはそれなりの心積もりもできるだろう。しかし、鬼子の場合はある日突然、ヒトという枠から外れてしまう。
他人とは違うものになるということ。ヒトという種の限界を超えた力を持つということ。それに振りまわされずに己を保てる者は限られている。
夜属はヒトを超えている。それは生命種としての絶対的な差でもある。それに奢ることなく生きていくことは実のところ難しい。
自分に他を圧倒するだけの力があったとき、それを振るわないでおく自制心を持ちつづけられる者は意外に少ないのだ。
だからこそ、わたしのような存在がいる。
力に溺れて己を見失う夜属が出ないように。昼の世界を謳歌する人間たちに、もう一つの夜の世界で細々と生き続けてきた夜属という存在を知られないために。
たしかに夜属の能力は人間を超えている。
個々の能力――走力や跳躍力、筋力など――に限れば人間よりも優れている生命体は数多い。単体で空を飛び、地に潜り、水中を行く。どれもが人間にはできない芸当だ。
にも関わらず、何ゆえ生命体として人間が頂点に立っていられるのか。
それは人間という存在の絶対的な力のせいだといえるだろう。
人間は長い時間をかけて神秘をひとつずつ解き明かしてきた。分類し、区分けし、分析した。それぞれに名前をつけ、ラベルを貼り、共通項でくくり、失われた意味を掘り出した。
そうすることでかつて神秘であったものは既知のものとなり、畏怖の対象ではなくなった。
また道具を作り、足りないものを補っていった。長距離を移動するには自動車や電車を。空を飛ぶときは飛行機を。海を渡り、そしてついには宇宙にまでその勢力範囲を伸ばそうとしている。
それこそが人間の持つ力だ。
加えて人間は社会に規範というルールを作って自分たちを保護している。そうしなければ多くの人間は自分を自分たらしめることができないからでもあるのだが、だからといってその保護力が劣るものとは限らない。
互いを縛りあい、助け合っているからこそ人間は今の社会を維持している。
家族、地域、学校、会社、国――集団のあり方はさまざまだが、その結びつきは非常に強固だ。
しかし、ひとたびそのカテゴリーから外れてしまったらどうなるだろう?
人間という種族はひどく仲間意識が強い。裏返せば排他意識が強いとも言える。それはおそらく種としての特性といってもいいだろう。人間は個体能力が劣る分、群体を形成する。そうすることで人間社会という全体を守り、結果、個を守っているわけだ。
それゆえ人間は自分たちと異なるものにはひどく敏感になる。マイノリティは常に淘汰され、それによって全体を保護していく。
夜属として目覚めるということは、そのマイノリティ側に立つということでもある。
存在が明るみになれば必ず狩りたてられる。追い詰められ、包囲され、やがて根絶やしにされる。それは間違いない。これまでの人類の歴史がそれを証明しているのだから。
だから夜属はその存在を隠す。
だからわたしのような役割を担ったものがいる。
だから鬼子は警戒される。
つまりは、そういうことだ。
少年は何やら言いたげな顔をしていたが、わたしは目でそれを黙らせた。口にしなくても言いたいことはわかる。だが、それを言ったところで事態の改善にはならないし、わたしにもできることはないのだから。
「夜10時」
「……はい?」
「今晩の10時に額辺の屋敷の下にある河原に行きなさい。そこで待っているから」
「……はい」
それでわたしのやることは終わりだ。あとは結果を見極めるだけ。
この少年――狭山宗哉が夜属として相応しいか否かを見極める。
それだけのことだった。