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木蔦1

 音が聴こえる。

 これは実際に耳で聴いている音ではない。

 そうではないのだけれど、それが音だとわかる。

 なんだかとても不思議な感覚だ。


 僕には音が聴こえる。

 正確には歌というべきかもしれない。

 世界のあらゆる事象――音によって表現できる、およそすべてのこと――を聴くことができる。

 それが僕、狭山さやま宗哉そうやの能力。

 天耳通てんじつうという能力だ。


 能力というものは、磨くことによって更にその力を増すという。

 まあ、わからなくはない。努力することによってより高いハードルを越えると考えればいい。スポーツ選手とかを見ればなんとなくだけどわかる。

 ただ僕に備わったこの能力というヤツは、一体どうやったら磨くことができるのかというのはわからない。

 黙々とダンベルを上げ下げしたり、朝夕にランニングをしたり、何百回も素振りをすれば向上するというわけではないだろう。

 おまけに他に同じ能力を持った人がいないのだから、質問することだってできやしない。

 幸いといってもいいものか、この能力は放っておいてもある程度は向上してくれるものらしい。

 というのも、目覚めてから少しずつではあるけれど、わかることが増えているからだ。

 でもだからといって便利使いできるわけでもない。

 たとえば今度の試験の問題を知りたいと思ったところで知ることはできない。問題用紙は紙に印刷されたもので、それ自体は音を発することはないのだから。

 世の中、なかなか思うようにはいかないなどと、ちょっぴり悟ってみたりする。


 いま聴こえている音はなんなのだろう。

 かすかに水の流れる音。

 水道の水……というわけではなさそうだ。もっと広い場所。たとえばプールとか川とか湖とか。流れているから湖は違うか。だとすると海? このあたりに海はないから、もしかしたら幼い頃のことを聴いているのだろうか。それとも、あり得るであろう未来の音なのか。

 推理モノのように、わずかに与えられる断片的な情報から判断をしなければいけないというのはひどくもどかしい。

 今からこうして推理力を鍛えて、将来は私立探偵にでもなれってことなんだろうか。まぁ、そういうのにあこがれる気持ちがまったくないといったら嘘になるんだろうけど。


 人の声はしないけど、とても切羽詰まったような息苦しさを感じる。

 緊迫感とでもいうんだろうか。

 こうなんというか、抜き身の日本刀でも突きつけられているような感じ。

 もっとも、そんな経験は一度としてないからそれが正しいかどうかなんてわからないんだけど。それにこれからだってそんな経験は味わいたくはない。

 ただ、背中に嫌な汗が伝い落ちるようないい知れない緊張感で一杯だ。


「おい、宗哉。こら。昼間っからぼーとするやつがあるか!」


 ぱかんとでっかい手で頭をはたかれた。


「いたた……」


 頭をさする。目から火花が出たみたいにチカチカして焦点が定まらない。


「なーにがいたただ。仕事中にぼーとしおって。近頃、たるんどるんじゃないのか、お前」


 ひげ面をした厳つい顔が僕の目の前にある。最悪の目覚めだ。

 目をパチパチして状況を確認する。

 目に入ってくるのは見慣れた光景。綺麗に磨かれたグラスやカップが並ぶ厨房に伯父さんが立っていた。

 どうやらまたらしい。ちょうど最後のお客さんの洗い物をしているところだった。手にしたお皿を落として割っていたら頭をはたかれるだけではすまなかっただろう。危ないところだった。


「ったく。ちっとは目は覚めたか?」


 伯父さんは鬼の首でも取ったみたいに胸を張っていた。いや、この伯父さんなら本当に鬼の首を取ってきそうで怖いけど。


「ほれ、終わったのならとっとと帰れ。いつまでもいられたら邪魔だ、邪魔」


 それが身内とはいえアルバイトに対する言葉だろうかと思わずにはいられない。

 まったく、頭は叩かれるし、酷い職場だ。どこぞのサービスに上司に恵まれないと電話をいれるべきかと本気で悩む。


「はいはい。わかりましたよ」


 けどまぁ、喫茶店のアルバイトにしては多めにお金はくれるのだし、これぐらいは我慢すべきなのかも知れない。なにより今のは僕の方が悪かったのだし。


「返事は一回だ、バカたれ」


 ぱかんともう一度頭をはたかれた。



 いつか伯父さんよりも美味しいコーヒーを淹れてぎゃふんと言わせてやると思いつつ裏口からバイト先を後にする。今時、ぎゃふんもないものだけど。

 今日のバイトはお昼時の忙しい時間帯のみだったので、あがりの時間は早い。夕食までにはまだ時間があるし商店街にでも足をのばして時間を潰すことにしよう。

 通りへ出ると大柄な人がこちらへ向かって歩いてくるところだった。顔見知りだ。


「こんにちわ。今日も杣木さんのお迎えですか」

「ああ。お前もバイトは終わったんだな。お疲れさん」


 関川せきかわみのるさんは顔に似合わず人のいい笑顔を浮かべていた。

 関川さんとは、ちょっとした事件が縁で知り合った。ほんのわずかな時間でしかなかったけど僕には忘れることのできない出来事だ。

 そしてそれは関川さんと杣木さんにもいえることなんだろう。

 あれから――まだ一週間も経ってないんだけど――関川さんと杣木そまぎさんはちゃんと生活をしている。ただ、いくつか変わったところはあるみたいだ。

 たとえば、時間が許す限り関川さんが杣木さんを送り迎えをするようになった。

 杣木さんはまだまだ危なっかしいけど、積極的に接客をするようになった。

 関川さんは二学期からちゃんと学校に行くって話をしてくれた。

 多分、二人だけではない。その周りにいた人たちにもあの事件は影響を与えているんだろう。

 それでも前向きに生きている二人は立派だと思う。それに強いとも思う。


 大通りに出ようかというところでガードレールに腰掛けている女性を見かけた。

 なぜだか最近、嫌な予感というヤツの的中率が滅法高い。

 正直な話、嬉しい傾向ではない。その予感があたれば次の展開はほとんどの場合、僕が望まないようなことになるのだから。

 だからガードレールから腰を上げて僕の前に立つこの女性を見た時、心の中で盛大なため息をついてしまった。

 いったい、今度はどんな目に遭わされるハメになるのだろうと。


「いい若い者が路上でため息とはいただけないね」


 安土あづち月子つきこと名乗った女性はそうのたまった。

 どうやら心の中だけではなく本当にため息をついていたらしい。心の中のつぶやきまで口にしてしまわないよう注意することにしよう。

 僕は改めて女性を見た。

 ぱっと見た感じの印象を言えば、かっこいい女性だった。身長はつぐみほどではないけど、先輩よりも少し高いぐらいだろうか。必然的に僕は相手を見上げる格好になるからあまり面白くはない。黒いシャツは首の辺りのデザインがとてもおしゃれだった。すらりとした体のラインに沿ってぴったりとしている。薄手のパンツにデザイン重視のスニーカーという組み合わせは全体的に見ていいバランスだ。活動的というのがよくわかる。もう少し背があれば、モデルといっても十分に通用しそうな人だった。

 いつまでもじろじろと観察しているのも悪い気がして、とりあえず聞いてみる。


「あの、僕に何か用でしょうか?」

「用があるから、わざわざ来たんだけど」


 ちょっと呆れたような顔をされてしまった。

 だって他に何を言えと。

「よいお天気ですね」とでも言った方がよかったんだろうか。


「立ち話というのもなんだし、ちょっと付き合いなさいな。少しぐらい、時間はあるでしょ?」

「いや、それほど暇っていうわけでもないんですけど」


 夕食までは本屋で立ち読みをしたり、新譜のCDを見て回るという大切な予定が待っているし。


「美人のお姉さんのお誘いを断るなんてことはしないよね?」


 などと言いつつ怖い笑みを浮かべている。これはあまり逆らわない方がいいかもしれない。いろいろと危険が危なそうな感じがする。


「…………はぁ」


 ため息が漏れるのは止められなかった。



 近所のファミレスに入ると安土さんはウェイトレスの案内も待たずに奥まったボックス席へずんずんと入っていく。仕方ないので、僕はへこへこ頭を下げながらその後に続いた。なんというか、安土さんはとてもマイペースな人らしい。

 本来、マイペースっていうのは他人に気がねしたりまどわされたりせずに、自分なりの行動の仕方や速度のことをいう。別にのんびりしていることを指す言葉ではない。

 そんなわけで、安土さんのことをマイペースだと思った僕の認識は全く正しいのだけれど、同時に理不尽だと思ったのも事実だ。


「あれー、狭山君じゃない。こんなところにどうしたの?」


 思わず動きが止まる。こういうときに知り合いに出会うのはなんとも言えず気まずい。

 振り返るとお店の制服を着た委員長が立っていた。最悪かも……。


「やあ、委員長。こんなところとはお言葉だね。ここはファミレスだから僕がいたってなんの問題があるっていうんだい」


 我ながら声と台詞回しが白々しい。


「それはそうだけど、でも珍しいじゃない。狭山君が外食するなんて」


 委員長、それは偏見です。

 普段は学校の制服姿しか見たことないから、違う姿をみるとちょっと新鮮な感じだ。

 意外に委員長はこういう格好も似合うらしい。


「なに? そんなにじろじろ見ないでよ」

「あ、うん。似合ってるよ、委員長」

「こんなところで委員長って言われても困るし」

「それもそうだね。えーと……小泉さん」


 慣れない名前で呼んだら、ぷっと委員長が吹き出した。


「いいよいいよ。やっぱり狭山君に名字で呼ばれるのって変な感じがするから」

「委員長は今日もバイトなんだ。夏休みももう終わるっていうのに精が出るね」

「うーん、そうねえ。私もいろいろあってお金貯めておきたかったから。狭山君は夏休みの宿題、ちゃんと終わってる?」

「もちろん……といいたいけど、あと一つだけ残ってるんだ」

「そうなんだ。なんの宿題が残っているか当ててあげようか?」

「どうぞ」

「うーん、読書感想文……じゃない?」


 ……なんでわかるかなぁ。


「狭山君ってばわかりやすすぎ。顔に正解って出てるよ」


 委員長は笑顔だった。もっとも僕の方は苦笑いなんだけど。


「ところでさっきのお客さんって狭山君のお知り合い?」


 ついと目で喫煙席の方を示す。


「あ、うん。ほら、年の離れた従姉妹でさ。こっちに遊びに来たからって案内しているんだ」


 こういう嘘がさらりと出るようになるのもどうかと思う。


「そうなんだ。でもあんまり似てないね」


 似てたら困る。


「じゃ、私はまだ仕事があるから。ごゆっくりね」


 営業スマイル以上の笑顔を見せて、委員長は奥へと入っていった。

 なんだかどっと疲れちゃったよ。

 さっさと席について待っている安土さんの向かいに座る。


「ちょうどおやつの時間だし、ケーキセットぐらいにしておこうか。なに、心配しなさんな。わたしのおごり」


 お腹もそれほど空いてないしそんなぐらいがいいかも。食べ過ぎて晩ご飯が入らないと困るし。別におごりって言葉に反応したわけではないけど、おごってくれると言うのならこちらに断る理由はない。

 ケーキとセットになっているフリードリンクを取りに安土さんの後ろについてドリンクバーへ向かう。グラスをセットしてオレンジジュースのボタンを押す。

 どうやら安土さんはコーヒーらしい。

 席に戻ると安土さんはすでに僕のことを待っていた。


「さて、改めて自己紹介からにしようか。わたしは安土月子。表向きの仕事としては雑誌のライターなんてものをやっているんだけど、今からする話にはあんまり関係ないかな。

 君のことは大体知っているつもりだけれど、簡単な自己紹介をしてもらえると助かる」

「狭山宗哉です。加賀瀬かがせ高校の二年生です。もっとも、そのあたりはご存じみたいですけど」


 ちょっとむっとしながら僕は自己紹介をした。

 安土さんはストローを口にしたかと思うと、やおら立ち上がってまたドリンクバーへ向かった。

 なんだろう。背中からすごいオーラが立ち上っているみたいだった。

 ドリンクバーを離れ際、安土さんが右手を振り抜いたのが見えた。

 席に戻ってくるのを呆然と見つめる。何をしたのかまでは見えなかったけど、僕の見間違いでなければ、あの一瞬にコーヒーメイカーが真っ二つになっているはずだ。


「わたしの顔に何かついてる?」


 さも何事もなかったような問いかけ。


「あ、いえ。なんでまたドリンクバーへ行ったのかなーと思って」

「なんでもないよ。とりあえず話を続けようか」

「でも、なんかドリンクバーのほうが大変なことになっているみたいですよ」


 指さす先では床一面を黒色に染めるコーヒーをなすすべなく眺める男性客と、必死に床を拭いている店員さんの姿があった。


「そ。でも、わたしには関係ないことだね。不良品だったんじゃない?」

「そうなのかもしれませんけど、だからといって、まっぷたつに割れる不良品なんて聞いたことありませんよ」


 これはもう間違いない。あれは僕の見間違いではなく、安土さんはあの一瞬に何かをしたのだろう。


「珍しい不良品なんだね」


 やけにきっぱりとした口調。確信犯だ。なんでこう、僕の前に現れる人はこういうのばかりなんだろう。ちょっと、いや、かなりブルーになる。


「見られるのは嫌いじゃないけど、惚れたりしないでよ。わたしは年下に興味ないから」


 ぷぃ、とそっぽを向いた。そういう話の逸らし方はズルイと思う。


「そんなんじゃありません」

「なら、お話を続けましょうか」


 これ以上問いつめたところで事態がどうなるわけでもない。僕は渋々うなずいて、安土さんの話を聞くことにする。


「さて、話を戻そう。さっきも言った通り、わたしは君と同じく夜属なの。で、その役割が『見極め』なわけ」


 なんのことかさっぱりわからない。ただ夜属に関することなのだから、僕にとってあまり喜ばしい事態ではないというのはなんとなくだけどわかる。


「あの、何を見極めるんですか」

「君が夜属として相応しいかどうか。ちゃんとこれから先もやっていけるかどうかを見極めるの。検定試験官みたいなものかな」


 やっぱりそうなんですか。なんかもう予想通りって感じで喜んでいいやら悲しんでいいやら自分でもわからなくなってきましたよ。

 とすると、さっきのバイトのときに聞こえたのはこのことなのかもしれない。もちろん全然別の出来事って可能性もあるんだけど。

 ああ、もう少しこの能力が扱いやすかったら生きていくのは今よりもいくらか楽になると思うんだけどなあ。

 などと頭を悩ませていたところで事態が改善されるはずもない。このところ諦めるということに随分慣れてきたように思う。……あまりいい傾向ではないとは思うんだけど。

 とりあえず少しはあがいてみることにしよう。努力もせずに投げ出すのはよくないし。


「……それは辞退を申し出ることはできるんでしょうか?」

「できると思う?」

「寛大さと見て見ぬふりができる人なら」


 期待を込めて言ってみた。


「残念、わたしは自分の役割に誇りを持っているから、見て見ぬふりなんてとてもできないね」


 そうですか。やっぱりそうなんですね。世の無常をしみじみと噛みしめる。神様っていないんだなーなどとも思う。

 って、待てよ。具体的な見極めの方法とか聞いてなかった。そのあたりに突破口があるかもしれないじゃないか!

 いやあるさ。

 あってくれ。

 あってくれたらいいな……。


「見極めというのは、具体的にどういうことをするんですか? たとえば、僕の生活の様子を逐一見守るとかそういうのだとちょっと困るんですけど」

「そういうのがお好みならそれでもいいけど?」


 いや、それは勘弁してもらいたいです。これ以上頭痛の種は増やしたくないし。


「遠慮しておきます」


 きっぱりと言い切ったら、安土さんはくすりと笑った。いや、ここは笑うところではないんですけど……。


「よくある例としては狩りに同道したり、訓練に手を貸したりというところだね。そういうのを通じて夜属としての生き方をきちんと学んでいるかを判断するわけ」


 正直、そういうのは先輩だけで手一杯です。訓練と称して死にかけた回数が片手では足りないという事実を思い出してブルーになる。

 これ以上やったら「死にかけた」から「死んだ」へ一足飛びになりそうで怖いんですが。

 せめてヒントなりでももらえないとやってられない。抜き打ちのテストにだって試験範囲はあるのだから。


「それには判断基準とかあるんですか? たとえばこれをしてはいけないとか、あれはしてもいいだとか。事前に教えてもらえたら手間も省けるんじゃないかと思うんですけど」

「特にこれというのはないね。しいてあげるとしたらわたしの趣味ってことになるけど?」


 趣味……ですか。それはなんですか。まずは試験管である安土さんのご機嫌でも取らないといけないってことなんでしょうか。いくらなんでもあんまりだと思うんですけど。


「気に入らない?」

「……傾向と対策も立てられないんですね」


 予習させてくれたって罰は当たらないと思うんだけど。


「世の中、そんなものだし。絶対の正義なんてものが存在しないように、普遍の正解も存在しない。たとえ同じ行動であったとしても、状況が異なれば正解は違う。そういうものでしょ」


 ちょっと感心してしまった。

 僕も同じようなことは考えている。

 多分、世の中に絶対的な正義、普遍的な正解というものは存在しないと思う。

 たとえば戦争。互いの国は正義を主張しあうけれど、第三者から見ればそれが正しいと思えることは少ない。

 たとえば宗教。難しいことはわからないけれど、悟りを開いた人の言葉が常に正しいとは限らないと思う。


「そう……ですね。なんとなくですけどわかるような気がします」


 だからといって、安土さんのしなければならないことと僕の境遇に納得するわけではないけれど。


「ご理解頂けたようで幸いね」


 その言葉にむっとする。

 安土さんの言葉からすれば僕がこの状況を甘んじて受けなければならないという理由はないはずだ。

 確かに僕は夜属の世界のことをまったく知らない。知っていることといえば、美空先輩から教えてもらうことだけ。これでは「夜属のことは何でも知っています」なんて言えるはずがないんだけど。


「ああ、ごめんごめん。別に悪気があって言ってるんじゃないんだ。気を悪くしたんなら謝る」


 ぺこりと頭を下げられて僕の方が驚いてしまった。安土さんは僕よりも随分年上なはずなのに、こうして自分の過ちを認めてすぐに頭を下げられる人なんて滅多にいないと思う。

 意外に悪い人ではないのかも知れない。

 まあ、安土さん個人が悪くないとしても、おそらく僕を見極めるということを遂行するだろうし、事態の改善にはならないんだけど。それでも人を積極的に嫌う必要はないだろう。


 安土さんはポーチからタバコを取り出した。なぜだか、赤いマニキュアを塗った爪がやけにけばけばしく見える。ライターは百円で買えるような代物だった。


「タバコ、吸われるんですね」

「女がタバコを吸うのは嫌い?」

「そういうわけではありませんけど。むしろ安土さんの場合は様になっているというか、格好いい感じがしますね」


 でも百円ライターは安土さんに似合わないように思う。


「おだてたって、なにも出ないんだけど」


 二人とも声を出さずに笑った。


「父親がタバコを吸っていたから。だから、好きじゃないんです」


 僕は父さんがあまり好きではない。いつも自分のことばかりで、家にはろくにいなかったからだろうか。理由なんてもう忘れてしまった。ただ僕は、父さんが嫌いだ。

 だから僕は一人暮らしをしている。

 もちろん高校生の身分で完全に生活を維持することはできない。それでも父さんの力を借りるばかりじゃダメだと思うからバイトをしたりして生活費の足しにしている。

 母さんが死んだ日だって父さんは仕事で出かけていた。

 別に仕事が悪いなんてことは思わない。父さんのおかげで母さんも僕も生活して行けたんだから。でも、もう少し母さんに気を使ってくれたって罰は当たらなかったと思う。

 父さんとは高校に入ってから一度も顔をあわせてはいない。まだしばらくは、会いたいとも思わない。


「そ。ま、そんなこともあるでしょ。……わたしの場合、タバコが好きなわけじゃないんだ。ただ、なんとなく。救われるような気がするから……かな」


 そうもらした安土さんの顔はどこか寂しそうだった。見てはいけないものを見てしまったようで、ひどく居心地が悪い。

 突然、安土さんはごしごしとタバコを灰皿に押しつけた。


「あー、暗い話はここまで。さっきの話を続けるとしよっか」


 そうして上げた顔には、さっきまでの暗い色はすでになかった。

 タバコの代わりにケーキを口に入れた安土さんがなんとも言えないような顔をする。こめかみのあたりに青筋でも見えそうだった。美人のこういう顔はなんとも恐ろしい。


「どうかしたんですか?」


 おそるおそる聞いてみる。


「なんでもない」


 そう言ってケーキの皿を横にどける仕草が、ちょっと乱暴だった。味が気に入らなかったようだ。さっきのコーヒーの件といい、この人、ひょっとして味にうるさい人なんだろうか。


「とりあえず君の見極めについてなんだけど、額辺の屋敷に伝わる九十九が〈試儀しぎ〉の相手に君を選んだからそれにするつもり。がんばんなさい」

「…………は?」


 いきなりそんなことを言われても意味がわからないんですけど。


「だから〈試儀〉の相手。三日月宗近だから人狼の相手に不足はないでしょ。いい勝負になるのを楽しみにしているよ」

「………………は?」


 いや、だから全然意味がわからないです。もう少し初心者向けに、わかりやすく説明してもらえませんか。


「〈試儀〉のことを知らないの?」


 うんうんとうなずく。そんな話は初めて聞いた。夜属特有の儀式だかそういうのだとはわかるけど、具体的なものはこれっぽちも知らない。全財産を賭けたっていい。


「〈試儀〉というのは、いわゆる通過儀式。日本でいうところの元服みたいなものだと思えばわかりやすいかな」

「元服って、武士とかが一人前として認められるためのあれですか」

「必ずしも武士だけに限らないけどね。ま、あんな感じのものだと思ってもらえればいい。わたしたち九十九というのは本体が器物なの。わたし個人はただのヒト。人狼や鬼のように本来の姿に戻るってこともない」


 人狼形態を本来の姿といわれるのは、正直なところ納得ができない。

 たしかに美空先輩に指示されて何度か獣の姿になってはいる。時には自らの意志で変身し、どうしても倒さなければならない相手を倒したりもした。

 それでも僕にとってその獣の姿が本来の姿であるということは受け入れられない。それはきっと、これまで16年間付き合ってきた人間としての狭山宗哉という感覚がなじみ深いからだと思う。

 いつか獣の姿のがしっくり来ることになるのだろうか。それはそれで、やりきれないように思う。


「で、憑いた器物を使いこなしてはじめて一人前として認められるわけ。失敗したら資格なしとして夜属の世界から放逐される。結構、厳しいものなのよ、これって」


 話だけを聞いていると僕と同時にその人の試験でもあるような感じだ。互いに健闘しようなどとがっちり握手でもしつつ口裏を合わせて試験をパスするなんて裏技はなんてないものだろうか。

 あれば今持ち合わせている全財産をあげたっていい。月末ってことで4000円ぐらいしか入ってないけど。


「僕はどんなことをすればいいんですか? 希望としては命の危険がないものがいいなーなんて思っているんですけど」


 安土さんはため息をついた。


「それはわからないね。たとえば楽器の九十九だった場合は一緒に演奏をするとか、歌を歌えばいいこともあるし。もっとも三日月宗近は天下五剣といわれる名刀だから自ずとすることはわかると思うけど?」


 それはつまり、戦うってことなんでしょうか? さすがに耳掻きみたいなのを持って刀をぽんぽん叩きつつ、「見事な刀身ですな」なんて展開は希望するだけ無駄だとは自分でも思う。

 だけど、もう少し穏便に済ませるということは考えてもらえないのでしょうか?


「結局、そこへ行くわけですね」


 絶対に諦めたくはないけど、諦めるしかないのだろうか。希望はないのだろうか。


「ま、光栄に思うことだね。〈試儀〉の相手に選ばれるということは名誉なことなんだから」


 そんなこと言われたって全然嬉しくないです。もうちょっとこっちの事情とか考えてくれたっていいじゃないですか。


「不服?」

「僕の事情を考慮してくれない状況に対してはそうですね」

「ま、腹くくっときなさい」


 それで腹がくくれるぐらいなら、とうの昔にくくってると思います。


「ところで、僕の見極めの結果、不適当と見なされたらどうなるんでしょうか?」


 たとえば尻尾を巻いて逃げ出したりすればなかったことにしてくれるとかするとすごく嬉しいんだけど。


「知りたい?」

「それはそうですよ。なんといっても自分のことですから。できれば穏便に済ませてもらえると嬉しいなーという個人的な希望もあったりしますが」


 安土さんがほぅとため息をつく。


「なんだか嫌なタイミングのため息ですね」

「あら、わかる」

「ええ。これまでの会話の流れからしても僕にとってあまり嬉しくない結末が待っていそうな気がします。できれば気のせいであってくれるととても嬉しいのですが」


 どうあっても僕の望むような穏便な結果になることはないらしいことはわかっているんだけど。


「安心して。165以上の肉片に切り刻んであげるから。呼吸ひとつぐらいで終わるし」


 それで安心できる人は、いっそ脳の病院にでもかかった方がいいんじゃないだろうか。

 思春期を迎えるゾンビじゃあるまいし、二つにされた時点で僕の命は終わってしまうに違いない。


「お断りしたいですね。僕は捨て石にはなりたくありませんし」

「あはは、気に入った。やっぱり君は面白い。できれば見極めを見事突破してもらいたいものだね」


 その見極めをする本人に言われたって困るんですけど。

 僕が不満そうな顔をしているからだろう。


「そんなに嫌?」


 なんて聞かれた。


「嫌というよりも、自分が自分でなくなっていくような感じがして……」


 それが偽らざる僕の気持ちだ。

 少しずつだけれど僕が僕でなくなっていくような感じがする。それは夜属としては正しいことのなのかも知れない。でもヒトとしての僕の感情はどこへいけばいいのだろう?

 先輩との訓練で僕は本来の姿である狼の形をとる。そうして感覚を広げ、身体を使い、本来の自分になる。そう美空先輩は言う。

 でもそれは16年間の間、ヒトとして生活してきた僕にとっては必ずしも正しいことだとは思えない。どこかしっくりこない部分がある。


 欠けたパズルのピースを持っているのは、一体、誰なのか?

 もどかしさ。焦燥感。

 本当に僕はこれでいいのだろうか。

 仮に元に戻れることはできないとしても、心まで夜属に染まってしまうことはないんじゃないのだろうか。

 もしもヒトに戻れる手段があるのだとしたら。昼の世界に――黛や、つぐみや、委員長や、美星ちゃんたちのいる世界に戻れる方法があるのならば知りたい。

 そして、できるのならば帰りたい。

 でもそれは美空先輩には言えなかった。

 だってあの人は僕が夜属として目覚めたことを本当に喜んでいるのだから。


「夜10時」

「……はい?」

「今晩の10時に額辺の屋敷の下にある河原に行きなさい。そこで待っているから」

「……はい」


 僕がうなずくのを確認してから、安土さんは立ち上がった。


「ここの会計は約束通りわたしが持っておくから。君はもうしばらくここにいてもいいよ。ただ、今晩の時間だけは間違えないでね」


 もう一度うなずく。

 安土さんは長い後ろ髪をひょこひょこ揺らしながら、会計へと向かっていった。


 安土さんの姿が消えてから、ゆっくりと息を吐き出した。なぜだかすごく緊張していたらしい。肩を上げたりさげたりするとコキコキと小気味いい音がした。

 こそこそと周囲を窺いながら委員長が僕のいるテーブルのところまでやってきた。

「従姉妹のお姉さんが出てっちゃったけど、狭山君はいいの? このあたり案内しなくて」

「こっちの知り合いに会う用事があるんだって。だからここからは別行動」

 委員長はなーんだって顔をした。

 すらすらと嘘が出てくる自分がイヤになる。

「それにこのあたりって案内するほどの名所とかってないでしょ」

「たしかに言われてみるとそうよね。昔話とかはそれなりに面白いのがあったりするんだけど、ああいうのって好きじゃないと案内されても楽しくないだろうし」

 僕は図書室での一件を思い出した。委員長は意外にそういった民話とか伝承に詳しいらしい。人は見かけによらない。

「狭山君はこのあとどうするの?」

「特にこれといって予定があるわけじゃないからどうしようかなって考えているところ」

「そう。じゃあゆっくりしていきなよ。ついでに注文してくれると嬉しいかな」

 まだ仕事が残ってるからと委員長はテーブルを離れていった。


 さて、委員長のお言葉に甘えてもうしばらくここで時間を潰そうか。それとも――


 やっぱり、いつまでもここでのんびりはしていられないな。

 ともかく夜属についてのことなら先輩に聞くのが一番だ。なんとか先輩に連絡をとって今回のことを相談すべきだろう。

 会計は安土さんが済ませてくれているので、僕はそのまま店の外に出た。


 クーラーの利いていた店内から外に出ると、この暑さに思わずくらりとしてしまう。しかし今はそんなことに気を配っている余裕はない。

 美空先輩は最近の高校生としては珍しく携帯電話を持っていない。見たことくらいあるって言ってたけど、どうも文字通り見ただけのことだったらしい。これまでどうやって生活してきたのかものすごく疑問だけれど、事実なんだから仕方がない。

 なんとか使い方を覚えてもらおうと思ったんだけど一時間ぐらいで挫折した。

 先輩は根本的に機械モノを扱うのは向いていないってのがわかっただけでも収穫だっただろう。あのときの右往左往する先輩は実に可愛らしかった。

 ……いやいや、そんなことは置いておいて。

 だからというわけではないけれど、外出しているときの先輩を捕まえるのはとても難しい。美空先輩は夜属では名の知れた存在だから、あれこれと頼まれ事も多いらしく、家にいることは滅多にない。

 ただ幸いなことに今日は夕方から額辺のお屋敷に行くことになっていて、今の時間ならおそらくは家にいるだろうってことだ。

 今は夕食前。まだ出発はしていないはずだ。

 走って嘉上神社へ向かうことにした。


 階段を二段とばしで駆け上がる。途中で顔を上げて振り返ると、ゆっくりと西の空から赤く染まり始めていた。

 周囲の木々からはヒグラシのもの悲しげな声が聞こえてくる。ふと感じる秋の気配。

 僕たちがどんな夏を過ごしていようが、季節は確実に巡り、次の季節への準備を着々と整えている。

 携帯電話の時計を見る。

 ここまでおよそ10分ってところか。

 夜属として覚醒したからといって、突然、100メートルを5秒で走れるようになったり、高い塀を飛び越えたりできるようになるわけじゃない。人間の姿の時はやはり、それなりの結果しか出ないってことだ。

 もっとも先輩のように鍛えれば、人間の姿をしていてもある程度のことはできるようになるんだそうだけど。

 階段を上りきって裏手へ回ろうとしたところで巫女装束姿の美星ちゃんをみかけた。何やら荷物を抱えている。

 小柄で愛らしい美星ちゃんが巫女装束を着ていると、本当にお人形じゃないかと思ってしまうほど可愛らしい。もっとも本人にそう言ったりしたらぷーと頬をふくらませた上に、丸一日は口を利いてくれなくなりそうだから黙っているけど。

 声をかけようか迷ったけれど、先輩に会いに来たのだから、今はそっとしておくことにする。夜属のことで美星ちゃんを煩わせたくはなかった。

 裏口に回ると美空先輩が庭の掃き掃除をしていた。巫女装束を着ている先輩が掃除をしているのを見るのはこれが始めてだ。

 僕の足音に気がついたのか先輩が顔を上げる。

「いらっしゃい」

 先輩はかすかな笑顔と共に僕を迎えてくれた。


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