朝顔1
――お前さえいなければ。
そうだ。
お前さえいなければ、あれを一族の者として受け入れられたものを。
――お前さえいなければ。
そうだ。避子などが生まれなければよかったのだ。
――お前さえ。
お前さえいなければっ!
陰々と声が響く。
ゆらりゆらりと影が揺れる。
声は壁に跳ね返る。
かすかな灯りに影が浮かぶ。
それは記憶。
すでに消えかかっている記憶。
心の奥底でようやく形を保っている記憶。
いずれ消えゆくものだった。
消えて欲しいと望むものだった。
しかし。
決して消すことのできないものでもあった。
ここ最近は、近々ある〈会〉の準備で、とても忙しかったりする。
古くから続く家柄の方が多いから、上座と下座といった並び順や、お出しするお料理の格。そういった細々したものにまで気を配っておかないと、思ってもないところから苦情があがったりする。
下手に苦情を受けようものなら私のお仕えする額辺の家に傷が付いてしまうので、絶対に気を抜くことはできなかった。
おまけに今度あるのは一年に一度しかない〈大宴〉ということもあって、何かと気を遣わないといけないのでとても大変だったりする。普段は顔を出されないような方も遠方からいらっしゃるので、注意しないといけないことが山のようにあるし。
きっと〈会〉が無事に終わるまではゆっくりと眠れることはないんだろうなーと、半分諦めが入っちゃっているんだけど。
そういえば、今朝は紅玉ちゃんの顔をまだ見ていない。
ここ最近はお互いに忙しくて、朝ご飯を一緒によばれることもないからちょっぴり寂しい。私の作ったお料理を紅玉ちゃんが美味しいねって言ってくれるのが一番の楽しみなんだけどな。
舞殿の設置準備がそろそろ始まる頃だから、そちらのお手伝いをしているんじゃないかなーとは思うんだけど。
洗い物のついでにお台所を覗いてみると、紅玉ちゃんの分の朝ご飯はそのままになっていた。椅子に座った様子もない。
もしかして朝ご飯も抜いてお仕事をしているのかしら? いくら忙しいからといって、朝ご飯ぐらいちゃんと食べておかないと、力仕事の多い紅玉ちゃんの方が参っちゃわないかと心配になってしまう。ただでさえ紅玉ちゃんは無理をしがちなんだし。
もっとも身体の方は文字通りいたって丈夫だから、そうそう寝込んだりはしないとは思うけど。
仕事の合間を縫って、それとなく紅玉ちゃんに声をかけてあげようと探してみることにする。
でもなかなか見つからない。
もともとお屋敷の中を私が担当して、紅玉ちゃんが外を担当しているというのもあるんだろうけど、今は〈会〉の準備でバタバタしているってこともあるし。
うーん、なかなか思うとおりにはいかないなぁ。
お仕事は山のようにある。
基本的にこのお屋敷――乎子様がいらっしゃる上屋敷――のさまざまなことは私と紅玉ちゃんの二人に任されているから、もともと大変なんだけど。
そういえばお客様のために大机を用意しないといけないんだった。あれは私一人で運ぶのは無理があるから、紅玉ちゃんに手伝ってもらわないと、とてもじゃないけど持ち出せない。
なんだか言い訳じみているけど、紅玉ちゃんでないと運べないものなんだからと自分に言い聞かせ、女中の部屋のある棟へ足を向けることにした。
基本的に上屋敷には乎子様と私たち姉妹しか住んでないから、このあたりはよほどの用事がなければ訪れる人もいない。そういうこともあって人の気配もなくてとても静かだ。遠くから鳥の鳴き声も聞こえてきたりする。
こんな日にのんびりと日向ぼっこをしつつお茶でも飲んでお話ができたら最高だろうなー。まだお茶菓子が残っていたはずだから、三時のおやつの時間になったら紅玉ちゃんと二人でくつろぐことにしよっと。
決定決定ぃ~と鼻歌を歌っていたら紅玉ちゃんの部屋の前についた。
ノックをしてみる。
へんじはない。
ただのしかばねのようだ。
…………それはそれでちょっと困るけど。
もう一度ノックをする。
シーンと静まりかえっている。
うーん、もしかして本当に寝込んでいるとか?
あの紅玉ちゃんが?
天変地異の前触れかしら?
なんて失礼なことを考えていたら、足下に折り畳んだ紙が落ちているのが見えた。手に取ってみる。
乎子さまと姉さんへ
しばらくのあいだ、雪花さまと一緒にお屋敷を離れることにしました。
でも心配しないでください。そんなに長くなることはないと雪花さまも
おっしゃっていますから、二、三日のうちには戻れると思います。
姉さんにはまた迷惑をかけてしまってほんとうにごめんなさい。
でも、今は雪花さまのお願いをきいてさしあげたいのです。それはきっと
姉さんもわかってくれるのではないかと思います。
乎子さまは雪花さまのことを大変ご心配されるかと思いますけれど、
私の命にかえましてもご無事でお戻しします。
ですから、どうかこのわがままをお聞き届けください。
それでは。
紅玉
だんだんと目の端から暗くなっていくような感覚。すーと紅玉ちゃんの丁寧な文字がかき消えていくような錯覚。
それは大切なものが手の届かない遠くへ去っていってしまう「恐怖」だった。
かたかたと震える肩を両手で抱きしめて抑えようとしたけれど、ますます体が震えていく。
ぐらりと視界が傾いた。
どすんと尻餅をつく。
痛みはない。そんなものは私にはない。もっと痛いものがあるから感じられない。
いやだ。いやだよ。紅玉ちゃんが私から離れていってしまうなんていや。絶対にいや。何があってもいや。世界が消えてしまっても、紅玉ちゃんだけは消えないで欲しいと願っていた私。きっと紅玉ちゃんも同じ気持ちであると知っている私。だから安心だった。だから心穏やかだった。だから私は強くいられた。
――それなのに。どうして。
イナクナッテシマウナンテ――
どれだけぼーとしていたんだろう。時間の感覚があまりない。
足下に落ちている紙はそのままだった。当然、書いてある内容だって変わるはずがない。それはつまり、夢ではないってこと。
私は紅玉ちゃんの書き置きを手に、乎子様のもとへと急いだ。
すぱーんと勢いよく障子を開ける。
そこには朝から呑気に新聞を読みふける乎子様がいらっしゃった。相変わらず目に痛い派手な色使いの着流しを着こなしている。
部屋へ入ってむんずとばかりに乎子様の襟元をつかむ。それでもって思いっきり、これ以上ないほどに、力一杯、前後に揺する。
そりゃもうガクンガクンとばかりに。紅玉ちゃんがやったら首がもげちゃいそうな勢いで。
「ちょ、ちょっといきなりなんですか藍玉さん」
乎子様は私の両手を押さえて動きを止めようとする。私は紅玉ちゃんみたいな力持ちじゃないから、男性の力には敵わない。
むきー。もうちょっとガクンガクンやらせてください。
「まったく、どうしたんですか、藍玉さんともあろうお方がそんなに取り乱すなんて。ゴキブリとクモとダンゴムシでも一度に出ましたか」
どれも私の大嫌いな生き物だった。絶対、乎子様は私に嫌がらせをしているんだわ。セクハラよ、セクハラ。紅玉ちゃんのことが無事に終わったら、絶対に復讐しちゃうんだから。
しばらくの間、ご飯のおかずはメザシだけにするとか。たまには冷や奴ぐらいはつけてあげてもいいけど。
そんなことはどうでもよくって。
いやいや、あんまりよくはないんだけどそれよりも優先することが。
いつか絶対復讐することは固く心に決めておくにとどめておいて、ともかく紅玉ちゃんのことのほうが今は大切だった。
乎子様に紅玉ちゃんの置き手紙を見せる。ずいと新聞の上に手紙を置いて、私は無言のまま乎子様の前に正座した。
手紙を読み終えた乎子様は思っていたよりも平静だった。ちょっと意外。乎子様のことだから私以上に慌ててしまうかと思っていたのに。やはりこのあたりは額辺家の御当主様としての貫禄なのかも。
「ともかく人をやりましょう。紅玉さんはこうおっしゃっておられますが、なにぶん女性一人では心許ない。下屋敷へ行ってくれますか」
「雪花様もいらっしゃいますから二人ではありませんか?」
「ん? ああ、なるほど。しかし宗近は九十九ですから問題はないでしょうよ」
かしこまりましたと私が頭を下げたとき、玄関から声がかかった。