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一初1

 天井についている古めかしい扇風機が懸命に首を振っている。でもどう考えたって、熱気がこもってしまっている車内がそれで涼しくなるはずがない。あれはただ、なまぬるい空気をかき混ぜているだけに過ぎないのだから。

 それなら、わずかに開けられた窓から入り込む風のほうがよっぽど涼しい。


 勢いよく風が吹き込むと、わたしの長い髪が風にあおられて、ふわりと泳ぐ。

 それを右手で押さえて、わたしは目を細めて外の景色を見た。

 緑は相変わらず多かった。山がちな土地であるというのもあるのだろう。窓から入り込む風も、都会のそれとは違ってひんやりしているように感じる。

 一面に見える田圃では、風にたなびくように稲穂が揺れていた。ざぁと音を立てて風が通りすぎていく様子が見て取れる。もうしばらくすると刈り入れなのだろうか。


 正直なところ、このあたりも随分、変わったんじゃないかと思う。

 わたしがこの街を出て十年になる。

 あれからわたしはいろんな経験を積んできたし、さまざまなものを目にしてきた。だからというわけじゃないが、この街が変わっていくことに特別な感情を持ってない。

 むしろ、物が手に入りやすくなったり、民放が増えたりして、暮らしやすくなっているんじゃないだろうか。

 もっとも、そういうのを長老連中は毛嫌いするんだろう。


 わたし――安土あづち月子つきこ――は、人ではない。

 人ならぬもの。人外の化生けしょうだ。

 水面すらも駆け抜ける脚があり、鉄をも斬り裂く鋭い刃がある。

 わたしは、刀に憑かれている。

 夜を駆け、ケモノを狩る。

 九十九つくもと呼ばれるものだ。


 旧友――というのも嫌な話ではあるが――から呼び出されて、久しぶりにこの街を訪れることにした。

 それはわたし――正確にはわたしの家にだ――に課せられている使命を果たすための呼び出しでもある。それはなによりも、たとえわたし自身の命よりも優先されなければならないことだった。存在意義と言い替えてもいい。

 もっとも、あれはわたしのそういった事情を承知した上で呼び出しているんだろう。

 そういうところは昔から頭が回る奴だったし、おかげで助かったことも一度や二度ではなかった。もっとも、トラブルに巻き込まれた回数は十や二十じゃきかなかったりする。

 考えてみたら収支はマイナスじゃない……。


 見覚えのある景色が増えてきた。どうやら目的の駅は近いらしい。

 車輪がレールをこすりつける甲高い音が響き渡ると、徐々に列車はスピードを落としていく。

 独特な言い回しで車内放送が流れる。それを背中で聞きながら、わたしは荷物棚から鞄を降ろして電車を降りる準備を終えた。

 鞄はそれほど大きな物じゃない。数日分の着替えとか洗顔用具とか、そんなものしか入っていない。どうせ長い滞在にはならないのだから。


 ――見極めること。

 それこそがわたしの使命。


 まるで野球を始めたばかりの小学生のような不器用さで列車は駅のホームへ滑り込んでいく。

 それほど長くないホームが二両しかない列車をのんびりと迎え入れる。

 最後にがたんとひとつ揺れると列車は動くのをやめた。モーターの唸るような声も止まる。

 空気の抜ける音とともに、がたがたと抗議の声を上げながら扉が開く。

 それを見届けてから、一歩、足を踏み出す。

 途端にむわっとした熱せられた空気がわたしを包み込む。頭上からは差すような日差し。午前中だっていうのに、この暑さには辟易する。

 8月も終わりだというのにも関わらず、まだまだ暑い日が続いていた。湿度が比較的低くて、からりとしているのは救いだろうか。

 暑さから逃げるようにして影になっている改札へと小走りで駆け込む。普通は急に暗いところに入れば、一瞬、目の前が真っ暗になる。だが訓練された目は即座に光の変化に対応する。

 駅員が暇そうに立っていた。

 まだ夏休み中ということで高校生の姿こそ見えないが、本来、この駅を利用している人の数はかなり多いはずだ。なにしろ、わたしは十年前まで高校へ通うのにこの駅を使っていたのだから間違いない。

 少子化が叫ばれて久しいが、高校がちゃんと続いている以上、そこの生徒が駅を使わないはずがないだろう。


 鞄を持ち直すと、駅員に切符を渡して表通りに出た。

 久しぶりに見た街は……電車から見た時ほど変わっているように思えなかった。

 どこか時間の止まったような場所だと思っていたが、こうしてしばらくぶりに改めて見てみると、それを強く実感する。

 もちろん建物は増えたし、車の数も増えた。

 でも、わたしが感じるのはそういった変化ではなく、この街に漂っているような気配とでもいえばいいんだろうか。古来より夜属が治めてきた場所というにおいが厳然と残っているように感じられる。

 正面のビルの一階に見えるのは、美味しいと評判のケーキのチェーン店だ。しっとりとした生クリームでいっぱいのショートケーキは絶品で、午後には売り切れていることも多々あるという話だった。時間があったら、立ち寄ることにしよう。


 いつまでも時間を潰しているわけにもいかない。待ち合わせの時間だってあるのだし。

 ポーチに突っ込んであった紙切れを取り出した。そこに、これから会う相手と待ち合わせている場所の住所が書いてある。

 わたしたちが通っていた高校にほど近い喫茶店だった。あのころはまだなかったから、その後になってできたんだろう。

 喫茶店の名前を見て、わたしは思わずにやけてしまった。機会があったらマスターに聞いてみよう。「アイリッシュ・ウィスキーはお好きですか?」って。


 周りの景色と記憶の中にあるそれとを見比べながら歩き始めた。

 高校時代にこの通りはよく歩いたものだ。わたしはここから数駅先に行ったお屋敷から、この先にある加賀瀬高校に通っていた。

 古くからある家柄の額辺ぬかたべと、わたしの家の安土、あと芙貴ふきの家は古来よりつき合いがある。ちょうど同い年の子供がいるからという実に安易な理由によって、わたしは高校三年間をこの街で暮らすことになった。

 ちなみに、これから会う約束をしている旧友というのがその芙貴の家の娘だ。娘っていう年齢ではないんだが、それをいったらわたしも同じことなので口に出すことはしないでおく。


 わたしの場合は幼い頃に母親を亡くしてしまっていたから、そうした人が集うという生活に、どこかあこがれみたいなものを持っていたんじゃないかと思う。だからその話を聞いた時はとても喜んだ。

 他の二人はどう思っていたのか知らないが、少なくともわたしは不満なんて持たなかった。

 おかげで、高校生活はそこそこに楽しかったし、いい思い出だってある。多分、忘れているだけで悪い思い出はいい思い出以上にあったんだろうが、忘れているんならそれはいい。


 よく学校の帰り道に立ち寄った甘味処とか、角のたばこ屋のおばあちゃんとか。そういった場所は、思い出と同じ場所にちゃんと残っていた。

 たばこ屋のおばあちゃんに会釈をすると、しわくちゃになった顔が微笑んでくれた。

 さすがにわたしのことを憶えていることはないと思うが、そういった人と人のつながりっていうのは気持ちがいいものだ。

 しばらく歩くと目的の店らしきものが見えてきた。大通りから一本入ったところに、こぢんまりとした喫茶店が建っている。このあたりは住宅街ということもあって随分静かだ。

 喫茶店『タラモア・デュー』。

 そこが待ち合わせの場所だった。


 軽やかなドアベルの音が店内に澄み渡る。

 クーラーがほどよく効いていた。暑い中を歩いてきたわたしにとって、それだけで生き返る気分にさせてくれる。やはりクーラーは人類の至宝だ。

 かすかに流れる洋楽は有線放送だろうか。イーグルスのもの悲しい声が落ち着いた作りの店内によくマッチしていた。


「あ、あの……い、いらっしゃい……ませ……」


 随分とおどおどとしたウェイトレスだった。目線を合わせると、すっと下げてしまう。

 なんだか、このまま放っておくと泣き出すんじゃないかっていう気さえする。こんな性格でよく接客業なんてやっているものだ。


「待ち合わせなんだけど」

「あらン。がっちゃん、来るのが遅いのねン」


 一度聞けば絶対に忘れられない、鼻にかかった声に呼びかけられる。

 声の主は奥まったボックス席からひらひらと呑気に手を振っていたりする。

 ……だから、注目を集めるなって。

 遅すぎる朝食か早すぎる昼食かはしらないが、食事をとっていた男どもの視線が彼女に集まっていた。

 気持ちはわからんでもないが、正体知ったら引くと思うぞ、君たち。


「……と、いうわけ」


 わたしが声をかけると、なぜだか申し訳なさそうな顔をしてウェイトレスが奥に案内をしてくれた。


「ンもう。がっちゃんは昔から人を待たせすぎなのねン。そーゆーところは直さないと、あたし、がっちゃんのこと嫌いになっちゃうわよン」


 わたしは心の中で嫌いになってくれて結構と返事をしつつ、荷物を奥の椅子の上に置いて、手前の椅子に腰掛けた。

 ウェイトレスはわたしが座るのを待って、お冷やをテーブルの上に置いた。そのままテーブルの横に立つ。どうやら注文を待っているらしい。


「アイスコーヒーを一つ」

「……かしこまりました」


 お冷やを口に含む。暑い中を歩いてきたせいか、やたらと美味い。そのままごくごくと飲み干す。


「がっちゃん。それ、下品よン」

「わたしをそう呼ぶなってずーっと言ってるでしょ」


 だいたい、月子がなんで「がっちゃん」なんていう呼び方になるんだか。小一時間でも問いつめたいが、初穂相手のそれは無駄な努力でしかない。

 そのかわりにじろりと睨みつけてやるが、目の前に座った悪友――文字通りの意味で――は気にした様子もなかった。


「あらン。じゃあ、とーちゃんって呼んだ方がいいのかしらン?」


 人差し指をあごにあててこくりと首を傾げる。どうでもいいが、三十を前にした女がそんなポーズをしても痛いだけだと思うんだが。


「それもダメ。わたしの名前は月子。つきこって普通に呼べばいいじゃない」


 芙貴ふき初穂はつほは、むーと唇をとがらせる。だからそんな仕草を三十前の女がやったって痛いだけだっていうのに。


「それじゃあ、面白くないわン」

「……面白くなくていいの」


 口に入れた氷をかりかりと噛みながら初穂を見る。

 相変わらず上から下まで黒かった。この暑いのにご苦労なことだ。この季節にハイネックの上着を着るという服装センスもどうかと思う。

 きちんと手入れされた栗色の長い髪が、店内の柔らかな灯りにきらきらと輝いている。

 わたしの髪も綺麗だとは思ってるけど、なんていうか初穂の場合は気合いの入り方が違うって感じ。毛先の一本一本まで抜かりがない。


 初穂との付き合いは長い。もともとは家同士での交流があったこともあり、幼い頃から何度か顔を合わせていた。

 あの頃は、もうちょっとまともな感じだと記憶しているが……時が経つっていうのは怖いことだ。

 高校に入った頃には今の初穂の性格はほぼ確立していた。自分勝手で、独立独歩で、唯我独尊。欲張りで意地っ張り。おまけにしたたかでしつこいという、言葉だけ並べたら欠点だらけの性格だ。

 それでもどこか憎めないところが初穂にはある。本人もそこのところは熟知しているようで、それを利用しているところがあるのは本当にタチが悪い。わたしが初穂のことを「悪友」と呼ぶのはそういうところに原因があったりする。


 初穂は人ではない。

 人ならぬもの。人外の化生だ。

 彼女は土蜘蛛つちぐも――あるいは洛新婦じょろうぐもと呼ばれることもある。

 土蜘蛛というのは概して奸智かんちに長ける。裏から人や物や情報を操り、自分の思う通りの結果を得る。その手練手管は他の種族では遠く及ばない。

 知らぬ間に張り巡らされた糸の中に入り込んでしまい、望まないダンスを踊らされ続けるなんてことはざらにあるのだ。

 その能力故、古よりまつりごとに関わることが多かった。敵対する勢力に属する有力な人物を政治的に抹殺するなんてのは朝飯前。土蜘蛛によって改ざんされなかった歴史上のイベントの方が少ないぐらいだったりする。

 山瀬、葛城、瀬織せおりというところが代表的な土蜘蛛の家系だ。これに初穂の芙貴の家をあわせた四家によってこれぞと認められた人物が、土蜘蛛一族を束ねる長として芙貴の君の名前を受け継ぐ。

 そうそう認められるだけの人物が出るわけではないので、鬼族のように常に長がいるというわけではない。話によると、先代の芙貴の君は400年ほど前の人物だったそうだ。

 現在はこの初穂がその五代目。つまり、芙貴の君ということになる。


 わたしの高校三年間は、初穂と、あとは額辺ぬかたべ乎子かこのヤツと一緒だった。

 古くから続く家柄ということもあって、わたしのところの安土家と初穂のところの芙貴家、それからこのあたりに根を下ろしていた額辺家は家同士の付き合いがあった。

 たまたま同い年の子供がいたっていうこともあるし、夜属として覚醒する者の数が減少していたというのもあるんだろう。わたしと初穂は額辺の家に高校三年間だけという条件で預けられることになった。

〈試儀〉を済ませていなかったとはいえ、既に夜属として覚醒していたわたしの近くに二人を置くことで、目覚めるきっかけになればという計算もあったんだろう。

 そういう長老たちの思惑は置いておいて、わたしにとっては額辺の家に預けられることに異存はなかった。異なる環境で生活できるということをわたしは結構楽しみにしていたし、実際、楽しい生活であったと思う。

 結果としては、おおむねにおいて長老たちの望みは叶ったといえるだろう。

 乎子は弱いながらも水蛟みずちとして目覚めたし、初穂に至っては400年ぶりに芙貴の君の名前を継ぐほどの存在になった。もっとも初穂の場合は手がつけられなくなったという話もあるが。


 歳の近い同士が一緒に暮らすというのは楽しいことだった。

 天性のトラブルメイカーである初穂と四六時中顔を合わせなければならないという一点を除いては。

 初日からだった。

 初穂は、

「まぁまぁ、この娘ったら、とーってもかわいいわン。ほーんと、たべちゃいたいくらいン☆」

 とのたまって、女中の一人を部屋に連れ込んだ。

 で、実際に美味しくいただいてしまったらしい。翌日からの彼女の初穂を見つめる時の潤んだ瞳を見れば、それは明らかだった。


 額辺の屋敷で過ごした三年間で、わたしが知る限り、76人が初穂の毒牙にかかっている。

 もちろんこれは、わたしが把握している数なのであって、実際はもっとずっとずっと多いはずだ。百人切りは高校二年の時に終わらせたなんて噂話も聞いたし。

 その数が多いか少ないかとか、あまりにもペースが速すぎないかというのは別の議論を待ちたい。ついでといってはなんだが、いたいけな少年少女、そして妙齢の男女を問わずの美人から素敵な紳士淑女までというストライクゾーンの広さも一緒に議題にあげてもらいたいところだ。

 初穂にとって「美しいもの」は何ものにも代え難いらしい。それは美術品も、宝石も、人も同じ。

 良く言えば幅の広い。悪く言えば節操がないんだけど、初穂は気に入ったものを手に入れるためならば驚くほどの情熱を燃やした。

 目的を達成するためならば、少々――正直に言えば、犯罪行為と紙一重――手荒なこともしていたらしい。

 らしいというのは確たる証拠を絶対に掴ませなかったから。そういうところも芙貴の君としての資質を兼ね備えていたことの証明なのかも知れない。


「それで、わざわざわたしを呼んだ理由は? あんたのことだから、どうせろくな用件じゃないとは思うけど」

「いやねン。あたしがとーちゃんの嫌がることをしたことがあったかしらン?」

「名前の呼び方」


 びしっと指を突きつけてやる。

 初穂はそれをくすくす笑って受け流した。


「それは些細なことでしょン」

「見解の相違だね」


 会話がとぎれた時を待っていたのか、ウェイトレスがわたしの前にコースターを置いて、それからグラスに入ったアイスコーヒーを置く。ストローを手前に、グラスの横にはシロップとクリーム。

 微妙に指先が震えているのが見て取れた。張りつめた緊張感がこっちにまで伝わってきて、ひどく落ち着かない。まぁ、コーヒーをひっくり返されないなら問題はないだろう――と思った瞬間。


「きゃっ!」


 彼女は思いっきりバランスを崩した。黒い液体を満たしたグラスがテーブルから離れる。

 反射的に手が伸びた。


「相変わらず見事な手並みねン☆」


 コーヒーグラスは、その中身を一滴たりとも減じることなく、わたしの手の中にあった。

 うっとりした表情で初穂がつぶやく。周囲からもため息が漏れるのが聞こえた。

 なんとなく、わたしのしたことよりもウェイトレスがコーヒーをひっくり返したことに対するため息のように聞こえたのは気のせいか?

 ……やれやれ。


「ごゆっくり……どうぞ」


 ストローを取ってグラスに差し込んだ。からんと澄んだ音がして、氷の並びが変わった。

 ストローに口をつける。冷たいコーヒーがのどを通っていく感覚がたまらない。

 口の中に広がる澄んだ苦み。柑橘系のようなさわやかな酸味とビターチョコレートのようなほんのりと舌に感じる甘み。それらを総合して、味の広がりと厚みを加えるコク……。


「驚いた。このコーヒー美味しい」


 一口飲んだ後の素直な感想だった。

 月子のおすすめ度は間違いなく最高級の☆☆☆☆☆だ。


「でしょン。このあたりでは評判なのよン」


 嬉しそうにそうのたまった初穂のグラスにはたっぷりとクリームが放り込まれていた。おそらく、シロップも大量に投入されていることだろう。


「あんたねぇ。それでコーヒーの味がわかんの?」

「あらン。ストレートしか飲まないなんて、とーちゃんこそ体に悪いわよン☆」


 わたしはふんと鼻を鳴らす。

 カウンターを伺うと、どうやらこの店のマスターらしきヒゲの男性が、むっつりとした表情を崩さないまま洗い物をしていた。

 服の上からだからはっきりとはわからないが、まくり上げられた袖口から見える腕廻りはかなり鍛えられている。しゃきっと伸ばされた背筋や、さり気ない体の使い方からすると、相当に「できる」ようだ。喫茶店のマスターよりは、むしろ戦場とかが似合う感じだった。

 そういえば、このコーヒーはマスターじゃなくてさっきのおどおどしたウェイトレスが煎れていたように思う。


「さすがに夫婦ということはないと思うけど」

「それは失礼ねン。彼女はただのアルバイトよン。でも、お店のマスターさんよりコーヒーを煎れるのがお上手なの。あと、このお店はパフェが美味しいって評判よン」


 くくっとのどの奥で初穂が笑っている。相変わらずどうでもいいことまでよく知っていることだ。


「ちなみに、あの娘のお姉さんがいみだったんだけどねン」


 さり気なく続けた初穂は、少しだけ声のトーンを落とした。


「だから?」


 わたしはコーヒーの味に満足しつつ、ストローに口をつける。

 正直なところ、わたしには関係のない話だった。わたしは忌を相手にすることはない。それはわたしの使命から外れるからだ。


「そうだったわン。九十九の『友切ともきり』は忌を斬らないンだった」

「それは正確じゃないね」


 初穂は「あらン」と笑っている。


「向こうが襲ってくれば斬り捨てる。こちらから手を出さないだけ。忌を狩り出すことは、戦事いくさごとに長けた者がやればいい」


 鬼とか、人狼とかがそれに当てはまる。

 鬼は想像を絶するような怪力を持っているし、人狼は全てを切り裂く牙と爪を有している。共に古来より忌を狩り出してきた、戦いに秀でた種族だ。


 わたしたち夜属は、そうしたヒト以外のものとして畏れ、敬われ、崇められてきたものたちの末裔。

 九十九はその夜属の中でもかなり変わっているといえる。そもそも、わたしは変身したりはしない。身体のつくりだってヒトとまったく変わらなかったりもする。

 九十九とは物に憑いた神――付喪神つくもがみが本体で、それを扱う者はただの人間でしかない。

 一般的には刀や鏡、面に憑かれることが多いとされている。


 わたしの家――安土家は同族斬りの家系だ。より正確には夜属の掟からはみ出た者を斬る役目を背負った家。

 親を持たずに夜の世界を彷徨い続ける鬼子や夜に呑まれた同族――それらはすべて、安土家にとって討つべき対象となる。

 もっとも、夜属を相手にするということは、この世界でも最強クラスの生き物と戦うということを意味する。危険な使命ゆえに一族の寿命は短い。天寿を全うできる者は稀だ。

 ただ、言葉をどう言い繕ってみても安土家がやっていることは同族狩りであるのにかわりはない。他の夜属の安土家に連なる者を見る目が嫌悪感に満ちているのも仕方がないだろう。

 わたしの父親は安土の十二代『友切』だった。わたしが物心ついた時にはすでに母親は亡かった。病死と聞いた。

 わたしの夜属としての目覚めは早く、五歳の時にはすでに夜属であったらしい。

 九十九は目覚めた時点で完全な夜属になるわけではない。ある儀式を必要とする。それまでは夜属よりも人に近い存在だ。

 目覚めてから、わたしにすべての知識と技術を教えてくれたのは父親だった。

 あの日。

 わたしの手がその血に赤く染まり、わたしが十三代『友切』となる日まで――。

 名を継いで十年ほどが過ぎた。

 わたしはこれまでに幾人もの同族を斬り捨ててきた。そのどれもが夜属として年を経た強者であった。

 狩らなければならない理由はさまざまだ。

 信念を貫き通すための者もいたし、己の中のケモノに負けた者もいた。

 そのどれもことごとく斬り捨てている。掛け値なく、今のわたしは夜属でも最強の一人だろう。


 はみ出した同族を狩るのと同様に、安土家にとって重要な仕事がもう一つある。それが新たに覚醒した者を監視するというものだ。

 彼らが夜に負けて呑まれるようなことはないか、掟を軽視して夜からはみ出すことはないか。

 それらを見届け、大丈夫だと監視者が判断してやっと鬼子は新参者ではなくなる。

 今回、この地を訪れたのは新たに鬼子として覚醒した人狼を見極めるためだ。


 ふと目線をあげると、のぞき込むようにしていた初穂と目があった。


「なに?」

「とーちゃんはその忌を狩った夜属にきょーみないのかしらン?」

「ないね」


 そっけないわたしの返事に、初穂はまた口をとがらせる。だから、三十前の女がそんな顔をしたって痛いだけだというのに。

 ため息をつく。機嫌をとっておかないと、どんな報復を受けるかわからない。〈芙貴の君〉という名を継いでいる土蜘蛛を敵には回したくはなかった。それなら虎や熊を相手にしたほうが一万倍はましだ。

 もっとも芙貴の君を味方にしたいとも思わないが。なるべくなら、中立という立場をとっておきたいというのが正直なところだ。


「誰なの、その忌を狩ったのは。このあたりだと、やっぱり額辺の関係者?」


 話に乗ってくれて嬉しいという顔を初穂はする。どうせわたしが相手をしなくたって勝手に話すつもりではいたんだろうけど。


「きっと、とーちゃんだって興味があるはずよン。だって、目覚めたばかりの鬼子なんだものン。その忌を狩ったの」


 ストローの途中で、コーヒーが止まる。口を離すと、コーヒーはグラスの中へ戻っていった。


「その鬼子の名前は?」


 初穂はまるでチェシャ猫のような笑みを浮かべていた。


狭山さやま宗哉そうや――人狼よン」


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