後編
警察署内の一角にある取調室。
がやがやと騒がしい署内の音が一切遮断された静かな部屋の中で、くたびれたスーツを着た中年の刑事が苛立ったようにペンを机に打ちつけ、カツカツと音を鳴らしている。
その正面にいる痩せた男はその耳障りな音を気にする素振りもなく、くつろいだ表情で座っている。
刑事は頭を抱え、舌打ちをした。
目の前に座っている男は住所不定、無職。俗に言うホームレスだ。
他人の土地に、と言ってもただの空き地なのだが、そこに侵入し、無断でテントを設営し野宿していたところを近所の交番に勤務する警官が発見した。
職務質問をして身分証の提示を求めたが、男はそれを持っておらず、とりあえず場所を移さなければとテントを畳み、荷物をまとめていたところで警官は男の所持品の中にカメラを発見した。
「もしかすると、盗難品ではないかと思いまして。」
男を署に連行した警官は大真面目な顔をしてそう言った。
手には黒い大型の一眼レフを重そうに持っている。確かに男の薄汚れた見た目には似つかわしくないほど磨き上げられており、高価そうな品だ。
だが、刑事がその姿を最初に見たときは新人が手柄を立てたいがために大袈裟に騒いでいるようにしか見えなかった。
男は署へ連れてこられるときに全く抵抗をせず、大人しく連行されてきたのだ。
数人の警察官に囲まれ、強盗の容疑がかけられていると聞かされたときも、全く慌てた様子も、声を荒げることもなく
「これは私の仕事道具ですよ。盗んでなどいません。」
と、否定した。まるで教会にいる牧師や神父のように穏やかで力強い口調だ。
だが、男にそんな経歴はなかった。犯罪歴もない。というより、男が存在していることを表すような記録がまるで何も出てこなかった。
それが逆に怪しく思えてきた。
何かの犯罪に関わって身元を隠しているのではないかと荷物の中身を調べてみたが、所持品は登山者がよく使うような一人用の小さなテントと、空になったシガレットケース。
着替えが少しと、それを入れていたカバン。それと例の一眼レフカメラしかない。
過去を匂わせるようなものはおろか、免許証もパスポートも、財布すら持っていない。
「名前は?」
取調室に入るなり刑事が尋ねた。男は柔らかい声で答えた。
「ファニと申します。」
「じゃあ、苗字は?ファミリーネームだよ。」
「ありません。神より賜った名はただ一つです。」
「そうか……じゃあ職業は?」
「はい。天使を生業としております。」
刑事は顔を顰めた。どこかの宗教団体に所属でもしているのか、薬でもやっているのか。供述の内容が普通ではない。
とにかくこれだけの情報ではファニと名乗る男の正体も、本当にカメラの所有者なのかどうかも確かめようがない。
まずは黙って部屋を出た。タバコを一本、ゆっくりと吸い、コーヒーを飲む。
照合の結果を改めて確認したが当然、ファニという名前の若い男の情報は出てこなかったようだ。
カメラが盗難品であるという証拠も今のところないらしい。
そんなことをしている一時間ほどの間、薄暗く不気味で静かな取調室に取り残された容疑者は時間の感覚が鈍くなり、まるで何時間も閉じ込められているような感覚に陥る。
外では何が起こっているのか、自分はこのままここから出られないのではないかとありもしない想像を掻き立てられ、次第に不安に苛まれて、刑事が戻ったときには早くそこから出たい一心で必要なことから余計なことまで喋ってくれるはずだった。
また、そこまでではなくても刑事の言葉に対して敏感な反応を見せ、嘘や動揺が手に取るようにわかるようになることが多い。
それを期待していただけに、ファニの反応は予想外だった。
くわぁ、と大口を開けてあくびをしていたが、刑事が小さなダンボール箱を抱えて取調室に戻ってきたことに気付くと、その顔を見てはにかんだのだ。
刑事はしばらく唖然とし、期待通りの効果が出なかったことを残念に思いながら再び席についた。
「もう一度聞こうか。名前は?」
「ファニと申します。」
「職業は?」
「はい。天使を生業としております。」
一時間前と全く同じ口調だ。声が上ずったり、興奮したりした様子はおろか、不安になった気配すらない。
刑事は同じ質問をもう一度繰り返した。ファニの答えは一言一句変わらず、初めて聞いたときと表情までもが一緒だった。
そんな男を目の前に刑事の方が苛立ち始めていた。
ただ本当の名前を言えばいい。それで身元が判明すれば、盗んだ証拠はないのだから他に犯罪歴がなければすぐにでも釈放できるはずだ。
ファニを連れてきた警官の顔が浮かんだ。面倒な奴を連れてきやがって、と再び舌打ちをする。
長年、刑事をやってきた。
これまでに言葉遣いや態度の悪い奴、先程の作戦で小一時間ほど放っておいただけなのに何を不安に思ったのか、かわいそうになるほどみっともなく自分の無実を訴えてきた奴がいた。
犯した罪の重さを実感できないのか、平然と取り調べに応じる奴や、ちょっと肩に触っただけで痴漢だの、暴行だのと大騒ぎした奴もいる。あまりにうるさいのでそれを理由に逮捕してやりたいと思ったほどだ。
実に様々な人間を見てきたつもりだったが、これは初めてのケースだった。
天使なんて逮捕したことがない。
目や、肌、口元を観察しても、薬物をやっているような特徴は見当たらないので、本当に自分を天使だと思っているのだろう。
それとも本当に天使なのか?だったら何の記録も残っていない事実も納得できる。人間ではないのだから。
刑事は眉間に寄った皺をペンの後ろで掻いた。
「天使って言っても、おたくには羽根も生えてないし、頭の上に輪っかもついてないじゃないか。」
自分の考えを否定するようにそう呟く。ファニは困ったように微笑んだ。
「羽根が生えるのは上級天使だけです。私のような下働きの者とは身分が違いますよ。頭の上の輪は神々のような万物の力を持つ方か、神より力を分け与えられた特別な方にだけ現れます。これも私には縁のないお話ですね。」
「へぇ、天使にも身分ってもんがあるんだな。」
「一応ですよ。神からお言葉を戴くために仕える天使が皆一斉に押しかけたりしたら神殿がパンクしてしまいますからね。代表者を決めているだけであって、神の愛は皆に平等ですよ。」
「……そういうもんか。」
「それに人界で羽根は生活の邪魔になるだけですから、上級天使の方々もこちらでは我々と同じ姿をしていることが多いのです。」
教会で説教を聴いているような気分になってきて、刑事は訝しげに頷いた。
どこかの国の絵に描かれたような大きな羽根を肩の付け根から生やした天使が自分たちと同じ生活をしている姿を想像した。
あの大きさの羽根を背負っていてはドアの一つもくぐれないだろう。確かに不便そうだ。
と、一瞬納得しかけて首を振った。刑事としてはそんな漫画や小説の世界のような御伽話を信じる訳にはいかなかった。
ファニが子供のように輝く目で刑事の目を見つめていることに気付き、慌てて視線を逸らした。
やっぱりあの警官の勘違いだ。言っている内容こそおかしいが、犯罪に関わったという証拠は何もない。聞くだけのことを聞いてさっさとここから追い出そう。
刑事は咳払いをし、足下に置いた箱の中から黒くて重い一眼レフを取り出した。
ファニはそれを見るなり、顔を輝かせて腰を浮かせた。
「ニコ!よかった。そこにいたんですね。」
「は?ニコ?」
「はい。そのカメラの名前です。こちらに来てからずっと姿を見かけないのでどこへ行ったのかと……怪我はしていませんか?」
ファニの伸ばした指先がカメラに触れると、電源が入っていなかったはずのカメラから小さく唸るような電子音が聞こえた。
「あぁ……傷つけてはいない。」
刑事はそう答えたがあまり自信のなさそうな言い方だ。
証拠品かもしれないカメラは間違いなく大切に扱われ、汚れの一つもつかないように細心の注意が払われた。
中に入っているデータから何かわかることがあるかと思ったが、カメラの電源が入らなかった。
充電が切れているかもしれないので、メモリーカードを取り出してデータをスキャンしてみることにした。
だが、カメラから出てきたカードは家電量販店でよく見かけるようなものではなく、クレジットカードを一回り小さくしたようなもので、普通のカードリーダーでは型が合わない。
何とか合うカードリーダーを見つけて読み込もうと試みたが、データがバグを起こしたため写真の一枚どころかソースすら見られなかった。
やっぱりカードリーダーの型が合っていなかったのではないかと、今度はカメラに直接ケーブルを繋いでデータを取り出そうということになったが、こちらも珍しい型の差込口で署内にあるケーブルを全て集めても、このカメラに合うケーブルを見つけることができなかった。
機械についての知識が乏しい刑事には、その顛末を聞いただけではそれだけのことをした後でも預かる前と同じ状態だと言い切る自信はなかった。
カメラを渡すと、ファニは慣れた操作で写真を確かめ、本体をぐるりと眺め回して
「無事みたいですね。よかった。」
安心したように呟いたのを見て胸を撫で下ろした刑事は、愛しそうにカメラを見つめるファニに尋ねた。
「大事なものなのか?」
「はい。ニコは私が天使の仕事を始めたときからの相棒なんです。」
「ふーん……天使って、何の仕事をしてるんだ?」
「興味がありますか?」
ファニが急に立ち上がる。刑事は驚いて身構えたが、ファニはその横を素通りしてドアノブに手をかけた。
「待て!」
と声をかける間もなく、ドアは開かれた。
「どうぞ。ご案内致しますよ。」
ファニはにこやかにそう言った。刑事は困惑した顔で椅子から立ち上がり、開いたドアを閉めようと手を伸ばした。
一応は事情聴取中であり、まだ何もわかっていない以上、この男を帰すわけにはいかない。
だが、ドアの向こう側の景色はその冷静な思考を吹き飛ばした。
まず気が付いたのはドアの向こう側から見える光がいつもより明るいことだ。音も違う。
騒がしいことには変わりないが、刺々しく緊張感のあるいつもの音ではなく、笑い声と話し声の混ざった温かい音だ。
「これは……一体……」
ドアの向こう側に足を踏み入れた。背後でドアが閉まる音がした。
白い壁に、温かみのある明るい照明。たくさん並んだ長椅子に腰掛けた人々の姿は、役所か診療所の待合室といった雰囲気だ。
刑事の知っている警察署の廊下らしい部分は見当たらなかった。
「ここはどこだ?」
「神査管理局。皆さんが天国と呼ぶところです。私の仕事の事務所でもあります。」
天国。
そう言われたとき、「何を馬鹿なことを」「あり得ない、戻るぞ」とファニを引っ張って元の部屋に帰ることは簡単だった。
こいつは何の抵抗もせず、ほんの少し寂しそうな顔をしながら黙ってついてくるだろう。
だが、刑事にはその簡単なことが何故かできなかった。
「ここは日本なのか?」
「そうですね。世界各地にこれと似たような場所があります。でもここは日本の扉からでなければ入れないので、日本支部と言ったところでしょうか。」
ファニの説明を上の空で聞いて、頷いた。
刑事にとってこんなところは初めてだった。見える全てが明るく、優しい。
しかし何処かに悲しみと、軽んじてはいけない重みを感じる。
それは歴史ある寺院に祀られている仏像の前に立ったとき、神様など信じたことはなくてもそれに力が宿っていることを感じて受け入れてしまうのと同じで、信じる以外になかった。
「不思議なところだな。」
「そうですね。まずは私の仕事を片付けさせていただいてよろしいですか?それから中を案内しましょう。」
ファニの後に従って、和やかに談笑している人々の横を通り過ぎ、窓口のカウンターの前に立った。
他の窓口には入れ替わり立ち替わり人が訪れるのに対し、このカウンターにはほとんど誰も寄り付かない。
「ここは天使専用の窓口なんです。あちらに座っていらっしゃる方のほとんどは刑事さんと同じ、一般の方です。あ、同じと言っても生きている人は少ないと思いますが。」
そう言われてもう一度、座っている人の姿をよく見た。輪郭がぼやけて、誰もが薄く光を放っている。
どうやらこの部屋の明るさの半分は照明ではなく、人々が放つ光のせいらしい。
「これが、全部死人だってのか?」
刑事が呟いた。ファニが頷いた。窓口の女性が声をかけてきた。
「ファニ!久しぶりね。カードをどうぞ。」
「サキもお元気そうですね。では、お願いします。」
ファニはカメラから取り出したカードをカウンターに置いた。
サキと呼ばれた女性はそれを受け取り、カードリーダーに差し込む。小さな電子音がして、カードが自動的に飛び出した。
「はい。確認できました。」
そう言ってカードをファニに返し、代わりにカメラを受け取る。
カメラにケーブルが繋がれて傍のモニターに写真のサムネイルが表示された。
あれだけ機械に詳しい人間が大勢で時間をかけて四苦八苦しても見ることのできなかった写真をあっさり見てしまったことに刑事は苦笑いを浮かべた。
それは様々に彩られた美しい花の写真ばかりだった。詳しくはないが、花の季節が入り混じっていることは何となくわかる。
「その写真は何なんだ?」
「これは人の幸福を映したものです。被写体が幸せなら花開き、不幸であれば枯れていたり、蕾だったりします。」
「何のためにこんな写真を?」
刑事が聞くと、ファニはいたずらっぽく笑った。
「神様は何をお召し上がりになると思いますか?」
「そりゃあ……供えられた果物とか、飯とか、あと酒だろ。」
「いいえ。違います。神様は人の心をお召し上がりになっているのです。」
「じゃあ、祭りのときとかに神様に酒やら食い物を供えるのは意味がないのか?」
「その場合はそういうものを神様のために準備し、お供えした人々の信心を食しているのです。そういう物は結局、後で人が食べたり飲んだりするでしょう?」
そう言われてみれば、刑事の地元では祭壇に並べられた食べ物を祭りの最後に集まった人たちで分け合って食べていたような気がする。
「さて、評価が終わったわよ。」
サキが声をかけてきた。さっきまで写真が並んでいたモニターに今度は数字が表示されている。
それを見たファニは低く唸った。
「あんなに数があったのにこれだけですか?もう少し上がりませんか?」
「無理よ。今回は条件のいいものがなかったから。数打ちゃ上がるってもんじゃないのよ。」
がっかりしたように俯き、ため息をつきながらさっき返されたカードを渡す。
サキはそれをまたカードリーダーに差し込み、何やら手元から記号とアルファベットの書かれた小さなキーボードを差し出した。
「暗証番号をどうぞ。」
ファニが暗証番号を押すと電子音がして、画面に『しばらくお待ちください』の文字が表示された。
しばらく待って文字が『完了しました。』に変わるとカードリーダーからカードが飛び出す音がした。
「ニコとカードをお返しするわね。次は頑張りなさい。」
「……ありがとうございます。」
カードとカメラを受け取って窓口を離れた。
「今のが今回の仕事に対する報酬です。あの写真に込められた心が私たち天使の給料になります。今回はあまりよくなくて……またしばらく贅沢はできませんね。」
カメラの画面を覗き込み、再びため息をつく。その肩にかける言葉が見つからず、刑事は辺りを見回した。
忙しなく動き回る人たちは、サキと似たような白い服を着ている。
ここの職員か、ファニと同じ天使なのだろう。来ている人から話を聞いたり、掃除をしたり、窓口への案内をしたりと見える範囲だけでも様々な仕事をしている。
それ以外の人たちはフォーマルなスーツ姿だったり、ラフな服を着ていたりしている。
あれが天使ではない人たちで、恐らく自分と同じ人間なんだろう。
その中に見かけた顔の男がいた。
職業柄、顔と名前はよく覚えている方だと思うがどこで会ったか思い出せない。知り合いというほど親しい関係ではないのかもしれない。
だとしたら犯罪者か?指名手配犯の顔写真や似顔絵は覚えている。その中の一人だろうか。
だが、どうにも自信がなかった。
「なぁ。ここは天国なんだろ?だったら犯罪者のような悪人はいないはずだよな?」
刑事は言った。ファニは首を傾げて少し考える素振りを見せてから、やがて思いついたように口を開いた。
「犯罪者というのがそちらの世界での犯罪、という意味でしたらいますよ。神々にとって人界の法は学校の校則のようなものですから、生前の行いを気にする方はいません。」
「じゃあ、悪人でも天国に来れるのか。」
「そうですね。でも他の方と同じように快適な生活を出来る訳ではありませんけど。」
「生前の悪事は気にしないんだろ?違いがあるのか?」
「ありませんよ。ですが、そういう方々にとっては皆と同じ生活が地獄のような苦痛に感じられるようです。」
なるほど、と刑事は頷いた。
他人の幸せを奪って自分だけが幸せになろうという悪人が、質素な生活にも幸せを見出せる善人と同じ生活に堪えられるはずがないのかもしれない。
それに天国に来ているということは既に死んだ人間だ。犯罪者だからと言っても、死人は逮捕できない。
「この先はマーケットコート。必需品を買うことが出来ます。行きましょう。」
ファニはそう言ってスタスタ歩き出した。刑事が慌ててその後を追う。
長い廊下に陽だまりのような光が満ちていて温かい。
その中を歩くと、疲れや悩みが薄れて消えていくような気がした。
行き交う人々は穏やかで、ここでは老人も子供のように駆け回り、若い人は老人のように静かな気持ちでいられるようだ。
廊下を抜けるとほんの少しだけ温度が下がった。
カゴを持った人やカートを押して棚の間を歩いている人々の姿は大型のショッピングセンターを思わせるが、店内の広さや棚の大きさはホームセンターか外国のスーパーマーケットのようだ。
ファニがカートを押しながら歩き出す。食べ物の棚には脇目も振らず、まっすぐにガラスの扉がついた冷蔵庫のような棚に向かった。
扉を開けてタバコのカートン箱のようなものを二つ、三つ取り出し、カゴに投げ入れる。
「タバコか?」
「いえ。これは見た目はタバコと同じですが、フィルターと呼ばれるものの一種です。周りの空気をこれを通して吸うことで清浄化し、体に取り込みます。」
「それに何の意味があるんだ?」
「そうやって清浄な空気を吸うことが天使の食事なんです。ただ、シガレット型はあまり上質とは言えない粗悪品です。携帯に便利でどこでも食事ができることと、安いので稼ぎの少ないときでも手に入れられるということで人気があります。」
そう説明して今度は違う扉を開け、数本の瓶がビニールでぐるぐる巻きにされたものを取り出した。
「それも”食事”か?」
「はい。これはアンプル型と言ってこの小さな瓶の中に圧縮された空気が入っていて、口を折って袋の中や部屋などに入れることでその場の空気を爆発的に清浄な空気に換えます。他にも高級な物ではボンベ型という顔を覆うマスクを装着して使用する型がありまして、高濃度の上質な空気を吸うことができます。こちらは神に近いところで仕事をなさっている高給な方々が人界に下りるときによく利用しているようです。」
「へぇ……色々あるんだな。」
「はい。一般的によく使われるのはこのアンプル型とタブレット型ですね。タブレット型は大き目の錠剤で容器に水を入れて、中に一粒溶かすことで周りの空気を清浄化します。囲まれた空間が用意できないときはその方が便利ですが、私はテントを持ち歩いていますのでアンプル型を使用しています。」
刑事はガラス扉の中に並んだ商品を眺めて呟いた。
「綺麗な空気なんか、山とか田舎に行けばいくらでもあるだろ。」
「そういう場所にはその土地を守る神様がお住まいです。他の神様に仕えている天使が食事の度に他人の家に上がりこむような失礼なことはできませんよ。」
「なるほどな。」
刑事が唸った。空腹の度に他人が食事をしに家に上がり込んでこられては温厚な神様もイラつくだろう。
ファニはそれからTシャツと靴下の替えをカゴに入れてレジに並んだ。
棚に並んでいるものはほとんどが刑事の生活でも見かけるものが多く、食べ物は野菜、お菓子、レトルト食品も並んでいる。
酒やジュースやお茶もあり、その向こう側に衣料品、本などの嗜好品もあるようだ。
会計は皆一様にカードを使っての支払いで、電子マネーのようにかざすだけで支払えるようになっている。
前や後ろに並んでいる人のカゴを覗き込むと、ファニと同じ物を買っている人はいなかった。
刑事が休日に買うような物を買っている。普通の、天使ではない人間はどうやら空気を食べて生きている訳ではないらしい。
「天使以外の人間は天国でどうやって金を稼いでるんだ?」
「彼らは私たちと違ってお金ではなく生前に行った善で支払っています。足りなかった分は来世への借金になりますが、余程こちらに長居しない限りは転生前に借金を抱えることはないと思いますよ。」
「どんな極悪人でも?」
「どんな方でも生まれてから死ぬまでに一度くらいは善行があるものです。それで十分生活できますよ。」
ファニは天使らしい笑みを浮かべてそう言ったが、刑事は納得できずに渋い顔をしただけだった。
レジで会計を終えて、カートン箱を破ったファニはズボンのポケットを探って困惑した表情で体中を叩いた。そして刑事の顔を見て思い出したように
「あぁ、荷物はそちらに預けたままでしたね。」
そう言って封を開け、一本だけ取り出してポケットにしまった。
「一本、試してみますか?」
刑事は頷いてシガレット型のそれを手に取り、自分のライターで火をつけた。
苦味と刺激のあるタバコとは違い、フィルターを通ってくる空気は甘く、何かはわからないが濃く感じた。
赤く燃える先端部分から出る煙はむせ返るほど甘い匂いがする。
「……美味いな。」
「でしょう?」
ファニが満足げに頷いた。今吸っているのは自分のお気に入りのバニラで他にもラベンダーやミントの香りがあるんだと教えてくれた。
「タバコに種類があるのと同じか。」
「そうですね。食事に違う味付けをするようなものです。」
と、何やら噛み合わない会話をしながらさっき歩いてきた廊下をまた通って元の場所に戻る。
待合室は相変わらず混んでいて賑やかだ。刑事が視線を走らせるとさっきの男がまだ座っていた。
だが、さっきとは様子が少し変わっている。悲しげに肩を落とし、俯いている。
「先程からあの方のことを気にしていますね。」
「……気付いてたのか。」
「ええ。もしよければ彼の話を聞きに行きませんか?」
その言葉に賛成して、二人は男のところへ近寄っていった。
人が近付いてきたことがわかると、男は顔を上げて力なく微笑み、首を傾げた。
「どちらさん?」
「私は天使のファニと申します。こちらは刑事さんです。」
「俺は洋平だ。天国にも刑事なんて職業があるのか。」
「いえ。この方はまだ死んでいませんよ。」
「生きてるのか。珍しいな。」
洋平は刑事を観察するようにじろじろ見ながら言った。その不躾な視線が落ち着かなくて、刑事が顔をしかめたのを見て、今度は苦笑した。
「いや、すまない。生きてるっていうのが羨ましくてね。」
そう言って肩をすくめた。ファニは悲しげに頷いて、その肩に優しく手を置いた。
刑事は思い切って聞いてみた。
「前にどこかで会ってないか?見た顔だと思うのに思い出せないんだ。」
「いや、ないと思うよ。刑事に知り合いはいない。」
洋平は首を振った。その言い方に棘を感じた。やはり犯罪者なのか、と訝しんでいると洋平が続けて言った。
「刑事に知り合いがいたら、死んだその日に子供のことを頼みに行ったはずだ。」
「子供?」
「俺には小学生の子供がいる。さっき面会の申請をしたが……ダメだった。」
そう言って手の中でくしゃくしゃになった紙を握り直した。
「死んでから一度も会いに行けなかった。それに、もうすぐ誕生日なんだ。」
「死出の旅では会わなかったのですか?」
死出の旅というのは人間が死んで天国へ行くまでの間に与えられる時間のことだとファニが説明した。
出来ることは限られているし、僅かな時間だが、その間に死んだ人は生前お世話になった人のところへ挨拶に行ったり、心残りなことを片付けたりできる重要な時間なのだそうだ。
「俺はその時間を、俺を殺した男の所へ行くために使った。」
「殺した男?あんた、殺されたのか?」
「ああ。ただし、刺された訳でも首を絞められた訳でもないぞ。」
「どういうことだ?」
「交通事故だ。仕事から帰る途中で車に轢かれたんだよ。」
それを聞いて刑事の頭の中に一つの記憶が甦った。
少し前に交通事故で死亡した男がいた。
道路を横断している途中に信号無視をしてきたスピード違反の車と衝突し、数メートル飛ばされて地面に横たわった。
運転手は酩酊状態だったが、事故を起こして酔いが醒めたようで、警官が着いたときには混乱こそしていたがまともに話ができる状態だった。
轢かれた男は救急車で搬送される途中に死亡し、家に連絡をして署に来たのは男と同年代くらいの女性と、小さな男の子だった。
女は死んだ男とは離婚していると言った。男の子は二人の子供で離婚後は母親と別れ、死んだ男と一緒に暮らしていたらしい。
泣くまいとして服の裾を掴んで堪える男の子の肩を支えるようにして母親が立っていたが、本当に支えられているのは母親の方なのではないかと思わせる二人の姿が印象的だった。
「俺は死んだ後、俺を轢いた男のところに恨み言を言いに行ったんだ。離婚したばかりで寂しい思いをしている子供が家にいるんだ。飲酒運転なんかした奴に殺されて、黙っていられなかった。」
「その人を取り殺してやろうと思ったんですか?」
「……そのつもりだった。でも実際に相手を見てみると、想像していたほどろくでもない奴じゃなかったんだ。」
死んで幽霊になった洋平は運転手のところへ行った。
恨みを込めた強い力で生きている人間に触れれば、その人は取り憑かれた状態になり、やがて精神が衰弱して死ぬという。
それを知って復讐しようとしたのだ。
だが、運転手には家族がいた。生まれたばかりの子供と若い妻に洋平を殺したことへの後悔を語っているところだった。
「ほんの少し飲むだけのつもりで店に行ったんだ。そんなに量は飲んでいなかったし、店を出たときだって意識がはっきりしてた。家までなら運転くらいできると思ってた。こんなことになるなら、まっすぐ家に帰るんだった。」
「私がいけないの。私が微熱くらいであなたに『早く帰ってきて』なんて電話したから……。」
「俺が轢いた相手にな、子供がいたんだ。小学生くらいの男の子だよ。病院の廊下でまっすぐ俺のことを見ていたんだ。」
「その子が何か言ったの?」
「言わないさ。母親から離れて廊下に出て、うずくまって泣いていたんだ。まだ幼い子供なのに、父親が死んだっていうのに、大人に心配されまいと声を殺して泣いていた。俺に何か言えるはずがない。俺も何も言えなかった。君の父親を殺したのは俺だ、悪かったなんて言えるはずない。いくら謝ったって意味なんかないんだ。」
そう言って運転手は涙を流した。鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔は嘘のない、目を逸らさず罪を背負った人間のものに見えた。
その後、飲酒運転で事故を起こした運転手はそのことが原因で仕事をクビになり、再就職を試みたが事故が理由で上手くいかない。
まだ手のかかる子供がいる妻は仕事に就けない。子供には容赦なく金がかかるので、家族の生活は貧窮し、見るに堪えない様子になっていった。
「その家族の様子をずっと見ていたんですか?」
「ああ。気になって見続けていたらいつの間にか旅の期間が過ぎてしまっていた。」
洋平は苦笑いした。
「生きていても地獄はあると思った。怒りに任せて殺さなくてよかったよ。運転手の妻や子供には何の罪もないのに、更に苦しませるところだった。」
「そいつをもう恨んでないのか?許したのか?」
「全てを許した訳じゃない。だが、今はいいんだ。俺のせいで苦労する子供が一人から二人に増える必要はない。」
そう言った洋平の顔は清々しいほど晴れやかだった。だが、すぐにまた表情を曇らせて
「俺の子が今、どうなっているか知りたかった。だから息子のところに行けるように面会を申請したんだ。だが、却下された。」
「理由は聞いたのか?」
「今、神の世界にいる奴は息子に関わったらいけないんだと。どういう意味だ?俺はただの人間だ。神じゃない。」
刑事が縋るような目でファニを見た。ファニは優しく笑った。
「息子さんは、あなたが亡くなったことで運命の分かれ道に立ったのです。それはその人が生きる気力と自分の意思を持って選ばなければならないものであると決められています。その気力と意思に強く影響を及ぼすと見做された方に面会の許可は下りません。」
優しく静かな声とは裏腹に、その目は怒りに燃えたような鋭さと強さを見せていた。信念。その言葉が刑事の頭を過ぎった。
「俺はどうすればいい?言葉の一つをかけてやることもできない、俺のせいで苦労させるのに謝ることも、支えることもできないのか?」
洋平はうな垂れてそう呟いた。刑事が言った。
「あんたの子供なら心配いらないぞ。」
「どういうことだ?」
刑事は泣かない子供のことがずっと気になっていた。家が近かったこともあり、時々様子を見に行った。
子供は毎日学校へ行って、小さなアパートに帰って母親が飯を作るのを手伝う。
口数は少ないし、笑顔を見ることもあまりなかったが、挨拶のできるいい子だった。
やがて子供は父親と住んでいたアパートを引き払い、出て行くことになったようだった。
荷物の入ったカバンを抱えて出て行くところに遭遇し、話をすることができた。
「ここを出て、どこへ行くんだ?」
「お母さんと一緒に住むんです。」
子供が答えた。そこで部屋から母親が出てきた。刑事は挨拶をした。
「聞きましたよ。この子を引き取るんですか。」
「そうです。離婚したときは生活に余裕がなくて育てられないと思ったので手放したんですけど、あの人が死んでこの子が一人になると思ったらいてもたってもいられなくて……。」
「生活のアテはあるんですか?」
「ええ、大丈夫です。」
部屋の中から今度は男が出てきた。
「この人と再婚するんです。この子のことを話したら、三人で暮らそうって言ってくれたの。」
「そうですか。おめでとうございます。」
「ありがとう。」
母親は子供の小さな肩を今度はしっかりと支えて幸せそうに笑った。
子供と、再婚相手の男はまだぎこちない雰囲気だったが、子供は男に心を許し、信頼しようとしているのがわかったし、男も子供を守る父親になろうと努力しているように見えた。
刑事の話を聞いて、洋平は少しだけ寂しそうな顔で微笑んだ。それでも安心したように
「ありがとう。」
と言った。
そのとき、カメラが小さく唸った。ファニはそれを顔の前に抱えて、男に
「写真を一枚、いいですか?」
そう言って、シャッターを切った。カシャリ、と音がした。カメラをそっと下ろしたファニは
「神のご加護がありますように。」
天使のような笑顔で男に言った。
洋平は手の中で小さく丸まった紙をゴミ箱に投げ入れた。
「息子が一人じゃないならもういいんだ。妻は、俺とは上手くいかなかったが息子にはいい母親だった。きっと俺なんかより息子を幸せにしてくれる。あいつが幸せになってくれるなら、もう思い残すことはない。おめでとう、と言えないことだけが残念だがな。」
洋平は刑事にもう一度お礼を言い、ファニにも話を聞いてくれたことへのお礼を言った。
そして別れを告げ、雑踏の中に消えて行く姿を見て、ファニが呟いた。
「彼はきっとすぐに転生できるでしょう。人間は迷いがなくなったら道を違えず次の旅に出られるはずですから。」
洋平が見えなくなってからもじっと同じ方向を見つめていた刑事が口を開いた。
「……ずっと考えていたんだが。」
「はい。何でしょうか。」
「天国側の人間が何か言うのはいけないことなんだろ?俺なら、あいつの力になれるんじゃないか?」
「どういう意味ですか?」
「俺は生きてる。だから、運命の選択に口を出してはいけないなんていう天国の決まりに縛られる必要はない。父親のことを話すのも、子供の選択に手を貸すのも自由。違うか?」
刑事は伺うようにファニの目を見た。その目は楽しそうに輝いてイタズラな笑みを見せた。
「そうですね。あなたがここで見聞きしたことを人界の方に話すのは、あなたの自由ですよ。」
「やっぱりな。さては、仕組んだだろ。」
「何のお話かわかりません。さて、私たちも帰りましょうか。」
そう言ってファニはすぐ傍にあった扉に近付き、おもむろに開いた。
開いた扉は来たときとは違う扉だったが、その向こう側は見間違えようもなく二人がいた取調室だった。
カメラが入っていた箱の位置も、机の上に置かれた書類とペンも、出てきたときと全く何も変わっていない。
「あんたが本物の天使だってことはよくわかった。その態度は食えないが、悪い奴ではないな。」
「そう思っていただけたのなら、よかったです。」
ファニが後ろ手で扉を閉めた。人の声が消えた薄暗い部屋ではさっきまでの光景が夢だったように思えて、刑事はそっと扉を開けてみた。
だけどそこは陽だまりのような光に満ちた場所ではなく、冷たい蛍光灯の光に照らされた見慣れた警察署の廊下だった。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。さて、あんたはもう帰っていいぞ。」
「そうですか?」
「カメラはあんたの物だったし、捕まえておく理由はない。それに、俺には他にも仕事があるんだ。」
「そうですね。お忙しいところを邪魔しては悪いですから私はそろそろ失礼しましょう。」
開かれた扉から出て行こうとするファニに、刑事は言った。
「もう他人の土地では寝るなよ。わざと捕まるような奴は追い出すからな。」
「はい。気をつけます。」
「……だが、あんたと会えてよかった。ありがとな。」
少し困ったように笑った刑事に向かってファニはカメラを構えて、シャッターを切った。
モニターには春に咲く、満開のラッパ型の小さな青い花が映っていた。
ファニはカメラを下ろして、刑事に言った。
「あなたにも、神のご加護がありますように。」
以前、賞に応募した物の一部です。
ファニシリーズですが、ファニが主役になることはなく
基本的には主役として動く人間の補助的な役割を担っています。
これからも機会があればファニシリーズをいろいろと載せていこうと思います。
お読みいただきありがとうございました。




