第1話 「空の果ては、あったんだ」
(・・・はぁ)
美森は、部活動が終わった後、深い溜息をついた。
もちろん、心の中で。だ。
そんな深い溜息なんかついていたら、部活動に一生懸命とり組んでいる皆に失礼だ。
ちなみに美森は合唱部に所属している。歌うことが好きで、この部活に入部したわけだが、今の美森はこうして深い溜息をついている。
その理由は簡単。部活が辛くなったから。練習が厳しくて嫌だという感情が、歌うことが好きという感情を簡単に上回っていた。
美森の通っている高校の合唱部は、地元ではそこそこ有名なほうだ。県大会を勝ち抜いて、関東大会に行くのは当たり前。そして、全国大会まで行くことも珍しくはなかった。
そのため、練習が厳しいと噂には聞いていたが、前々から合唱部に入りたいと思っていたので、ほとんど迷うことなく入部した。そして、その結果がこれだ。
「美森―。今日、自主練習やってくよね?」
友達の雪奈が美森にそう問いかけた。
「やってくよ」
美森は、もちろんです、という感じに答える。
「それじゃ、そこのピアノ使ってやろ!」
「そうだね」
(・・・はぁー)
美森は心の中で、また深い溜息をついた。
本当は自主練習なんてしたくない。やっと部活が終わったんだから、今すぐ家に帰りたいというのが美森の本音だった。
美森は雪奈と一緒に、ピアノの前に立ち、楽譜を広げた。
隣の雪奈は、のろのろとしている美森とは対照的に、ピアノの鍵盤に指を置き、歌の練習を始めている。
もちろん、美森たち以外にも自主練習のため音楽室に残っている仲間はたくさんいた。むしろ、帰った人が少ないぐらいだ。
(どうして皆・・・そんなに一生懸命なんだろ)
美森には分らなかった。
厳しい練習があり、みんな疲れているはずなのに、こうも頑張っている。皆、真剣だ。
それに比べ、自分はどうだろう。
自分は頑張っていない。ただ、一応自主練習はやって、「美森は頑張っている」と思われたいだけだ。だって、そうしないと皆に悪い。皆、こうも頑張って練習しているのに。
(駄目だな。自分・・)
自分は皆に嘘をついている。・・・最悪だ。
美森はピアノの鍵盤に、そっと指を置いた。
ピアノの何の迷いも感じられないその音は、いつものように美森の耳に入ってくる。
・・・早く時間が過ぎますように。
美森はいつものように、そう願った。
次の日・・・
美森は、自室で学校に行くための準備をしていた。
制服を着て、コートを着て、マフラーを巻く。
これも日常の一部。なにも変わらない。きっとこれからも変わることはないだろう。
美森は、カーテンを少し捲って、外の景色を眺めた。
そこに広がるのは、だだっ広い畑だ。そしてそこには真っ白い霜が降りており、今日も登校するのが余計に億劫になることを美森に知らせている。
(今日も寒そうだな・・・)
いっそ、雪でも降ってくれれば、学校が休みになるかもしれないのに。
美森は、そんなことを思いながら、カバンを肩にかけ、自室をあとにした。
美森は、いつもと同じぐらいの時刻に、学校の正門を通過した。美森の他に電車通学の生徒だろうか、多くの生徒が、歩くことが遅い美森を次々と抜かして昇降口へと入っていく。
美森も多くの生徒に続いて、昇降口へと入った。
そして美森は、決められた場所にローファーを入れ、上履きに履き替え、2の7の教室へと歩いて行く。
(はー・・・。毎日、毎日同じことの繰り返し。ほんと、つまんない)
最近、いつもそのことを考えてしまう。
自分は、繰り返しの日々の中で、なにを得られるというのだろう。何のために日々は繰り返しているだろう。今だにその答えは出ていなかった。
そんなことばかり考えてる自分が、とても鬱陶しくて仕方がないはずなのに、気づいたら、いつもそのことを考えている自分がここにいた。
(だめだな・・・。自分)
ガラガラガラ・・・・・
美森は、教室のドアをゆっくりと開けた。
教室に入る。
教室は、すでにたくさんの生徒がいて騒がしかった。
美森が教室に入っても、だれも「おはよう」と声を掛けてくれる人はいない。だれも、美森が教室に入ってきたことに気づいていないようだ。しかし、それはいつものことなので、気にしていなかった。
美森は、自分の机に荷物を置いてから、クラスでも唯一、一緒に居ることのできる友達の、美羽と雪奈の所へ向かった。
二人は、何かの話で盛り上がっているようで、美森が来たことには気づいていないようだ。
「おはよー。美羽、雪奈」
美森は、少し大きめの声で二人に声を掛けた。
「あっ!おはよー、美森」
「おはよー」
二人は、満面の笑みでこちらを振り返りあいさつを返した。
美森は、微笑みを返し二人の会話に加わろうとした。
しかし、うまく会話に溶け込めない。
会話の内容は、テレビドラマのことらしかった。
美森にとってテレビドラマは、興味のない範囲に入っていた。
二人が笑うのと同時に、美森も笑っていかにも知っている振りをする。
美森は、そんな風に周りに流されている自分が、嫌だった。しかし、そのことが一番安心できる方法だった。そして、気づいたら自分の居場所はなくなっていた。
それでもしょうがない、と美森は思う。行動に移れなかった自分が悪い。少しの勇気を出すのがとても怖くて、そのことから逃げていた自分が悪い。
「どうしたの?美森。なんか元気ないよ?」
雪奈が、心配そうな表情を浮かべてこちらを見つめている。
その隣で、美羽の丸い瞳もこちらを見つめていた。
思っていたことが、顔に出ていたらしい。
「あっ。・・・大丈夫だよ」
美森は、なるべく元気にそう答えた。
雪奈は、いつも美森のことを心配してくれる、優しくてとてもいい友達だ。美森が部活で上手く歌うことが出来ず、落ち込んだときも雪奈が励ましてくれたんだっけ。
美羽は、美森と同じぐらい無口だが、だれよりも美森と気が合うし一緒にいて安心できる。美羽がいなかったら、美森は教室にいるのでさえ、嫌になっていたかもしれない。
美森は、そんな二人が大好きだ。
いつも心配を掛けない様にしているつもりだが、なかなか思うようにいかない。いつも迷惑ばかり掛けてしまう。
(だめだな。・・・自分)
授業中、美森は窓の外を見た。
遠くの方で、米粒のような車が途絶えることなく次々と流れていく。校庭に生えている大きなケヤキの木の枝がざわざわと風に揺れる。
葉が、一枚もない木の枝が揺れるのを見るのはどこか寂しげだった。一生懸命、上下に揺れることに意味はないように思われた。
美森は、そんなことを考えている自分が変に思えた。そんなこと、どうでもいいことだ。
しかし、どうでもいいことを、いつも美森は考えてしまう。・・・あの淡い青色の空は、どこまで続いているのだろうか。空の果てには何があるのか。・・・きっと空は、果てることがないだろう。だから、空の果てはないのだ。もし、あったとしてもそこは、今、美森が見ている空と同じ空だ。
それに空は、似ている気がした。
・・・日々に。色あせることなく、鮮やかになることもなく、どこまでもどこまでも続いている。
空は、果てることなく永遠であるように、この日々も、果てることなく永遠なのだろうか。
美森は行ってみたいと思った。
“空の果て”に。
たいくつな授業は終わって、そして放課後。
今日は、少し嬉しいことがあった。いや、美森にとってはとても嬉しいことだった。それは、部活が休みになったこと。どうやら、緊急の職員会議が入り、顧問の先生はそれに出席することになったらしい。
そんなことを考えながら美森は、昇降口から足を踏み出した。
三階にある音楽室からは、多くの歌声が聞こえてくる。
そう、部活が休みになっても、自主練習はできる。一生懸命な皆は、自分から進んで練習をしているのだ。
しかし、美森は、何の用事もないのに、練習もせずにここにいる。
(今日ぐらいはいいよね・・・)
部活がなければ、皆と顔を合わすこともなく、自主練習をしなくて帰っても、さほど気まずい思いはしなくて済む。部活がない時は、早く家に帰れる絶好のチャンスなのだ。
「美森~。練習やってかないんだ」
美森が、足早に学校の正門に向かって歩いていると、後ろから雪奈の声が聞こえた。美森はドキリとして立ち止まり、後ろに振り替える。
雪奈は美森の隣まで駆け寄ってくると、言った。
「私も、今日はやってかないんだー。折角、たくさん自主練できるチャンスだったのに、塾に行くことになっちゃってねー」
「あ・・・そうなんだー」
美森は内心どぎまぎしながら、そう言う。
・・・練習やっていかない理由、聞かれたらどうしよう。嘘だけはつきたくないのに。
「じゃ、もう親が迎えに来てるみたいだから、行くね」
「あっうん」
「じゃ、また明日!」
「うん。バイバイー」
美森は笑顔で雪奈に手を振り返した。そしてそのまま、雪奈の背中を見送る。
美森は心の中で、安堵のため息をつくと歩き出した。
その足取りは軽いはずなのに、いつも以上に重く感じる。
(駄目だな・・・自分)
美森は、寒さに震えながら自宅の玄関の扉を開けた。そして、靴を脱ぐと家へと上がる。
「ただいま~」
美森は台所に立っている母にそう声をかけた。
母は、美森の顔を一瞥すると、ぐつぐつと煮立っている鍋へと目線を戻す。
「おかえり。今日は早いんじゃない?」
「今日、職員会議があって、部活休みになったの」
「そう」
美森は母との最低限の会話を終えると、居間に足を踏み入れた。
「こんにちは?」
「!」
途端に、居間のソファに腰を下している青年の姿が目に留まる。美森はその場で驚きのあまり固まった。・・・なぜなら当たり前のように美森に挨拶をしたその青年は、美森のまったく知らない人だったからだ。
しかも、その青年はとてつもなくおかしな姿をしていた。肩よりかなり長めのポニーテールに結わえている髪も、身にまとっている裾が長めの変な服もすべてが銀色だった。
ただ、首から下げている三日月のような形をした大きめのネックレスだけが、よるの空のように暗い色をしている。
その青年は、固まったまま動かない美森を見て「すごい驚きようだな」と呟いた。
美森は混乱していた。
(だれっ・・・この人!?)
お母さんの知り合い?いや、違う。お母さんの知り合いなら、さっき美森にそのことを言っていたはずだ。それに、こんな変な格好をしている人が美森の家にいること自体、おかしなことだ。
美森は、迷うことなく台所に戻ると、母に助けを求めた。
「お母さん!!変な人がいる!!」
が、様子がおかしい。
母は、美森の必死な声を聞いてもこちらに振り向くどころか、美森に背を向けたままぴくりとも動かない。
「え・・・!?」
美森急いで母のもとへ駆け寄る。
母は、全く表情を動かさず、瞬きさえしている様子がなかった。
美森はいつもと違う周りの雰囲気に気付き、ぞくりとした。
あたりは、しんと静まりかえっている。音が全くないのだ。そして、鍋から立ち上る煙も、一時停止をしたときのようにぴたりと空気中で固まっていた。
(何これ!?)
「はじめまして、だね!」
「!」
美森が、後ろに振り向くと、すぐそばにあの銀色の青年がにこにこしながら立っていた。
美森はその青年の瞳を見て、どきりとする。
彼の瞳は、水晶玉のような美しい銀色だった。その瞳の色は、人間らしさが感じられないようにさえ見える。
「うーん・・・と、名前は・・・日菜野美森っていうんだね」
青年は、美森のバッグに入っていたはずの学生手帳を開き、納得したようにうんと頷いた。
「・・・・一体何なの・・」
美森は頭の中が混乱している中、なんとかその言葉を口にすることができた。
青年は美森の言葉を聞くと、困ったような表情を浮かべ、言った。
「何なの・・・か。説明するには、ちょっと面倒くさいな!はいっ・・・これ」
青年は、美森が思いもしないことを口にすると、学生手帳を美森にさしだした。
「・・・・」
どうやら青年は、学生手帳を美森に返そうとしているらしい。
次の瞬間、美森は駈け出した。
絶対にここは、なにもかもがおかしい。
美森は、ただ玄関を目指して走った。
後ろなんて振り向けない。そんなことより早く家から抜け出したい。そうしたら、いつもと変わらない外の景色が美森を待ってるはずだ。
美森は今までになく早まった鼓動を感じながら、玄関の扉を開いた。
「!」
しかし、美森の目に飛び込んできたのは外の景色ではなかった。
いつの間にか美森は、もといた家の居間に立っていたのだ。
「・・・え?」
美森には、何が何だか分らなかった。混乱することがありすぎて、右も左も分らなくなってしまいそう。
(確かに外に出たはずなのに!どうして!?)
「僕からは、絶対に逃げられないよ」
「!」
美森の横隣には、あの青年が腰に手をあてにこにこしながら立っていた。
「なっ何で!?」
美森の心臓は、バクバクと大きな音をたてている。
「なんでって言われてもなぁ。そのままの意味だよ」
青年は、頭をポリポリとかきながら答える。そして、固まったまま動けないでいる美森の目を見据え「よしっ」と言うと、その掌を美森の首元に押し当ててきた。
「!」
すると、その部分に肌が焼けるようなもの凄い激痛が走った。
「・・・・っ!やめて!!」
美森は、青年の手を自分の首元から離そうと、歯をくいしばりながら必死に抵抗する。
しかし、青年の掌は、接着剤でくっつけられたように美森の首元から離れる気配はない。
そうやっている間にも、痛みは止まることを知らず、ますます激しくなる。
「やめてぇぇぇぇ!!!」
そう叫んだ直後に、美森は意識を手放した。