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夫の日記帳に私の名前は一度も書かれていなかった。離縁届を出した翌朝、魔法の隠し文字が浮かび上がるまでは

作者: 秋月 もみじ
掲載日:2026/02/18


夫のカシウスは、三年間、私の名前を一度も呼ばなかった。


食卓では「夫人」。

夜会では「公爵夫人」。

寝室の扉越しには——ただの沈黙。


だから私は、離縁届の宛名だけは、自分の字で書いた。


フローラ・エーデルシュタイン、と。


せめてこの紙の上だけは、私に名前があることを残しておきたくて。



書斎の机は、いつも整然としていた。


羽根ペンは右端に揃えられ、書類は角を合わせて重ねられ、窓から差し込む朝の光が、磨き上げられた天板にまっすぐ落ちている。


その几帳面な空間に、私は離縁届を置いた。


その上に、結婚指輪を置いた。


指先が、一瞬だけ震えた。


——震えるな。


これは逃げじゃない。自分の尊厳を守る選択だ。愛のない結婚でも役目は果たすと決めていた。でも「存在を無視される」ことだけは、どうしても耐えられなかった。


名前を呼ばれないということは、私という人間がいないのと同じだ。


三年間、そう思いながら隣に立ち続けた。


今日が、結婚三周年だった。



政略結婚だと知っていた。


ローゼンヴァルト公爵——国内屈指の名門、王家の血縁——と伯爵令嬢の縁組みは、どちらの家にとっても利のある取引だった。


愛など最初から期待していなかった。


ただ、せめて人として扱ってほしかっただけだ。


私は公爵夫人として、できることはすべてやった。


社交界の運営を仕切り、領地の慈善事業を立ち上げ、屋敷の財政を黒字に転換した。先代夫人の代から滞っていた小作農との契約見直しも、私が動いた。


しかしカシウスは一度も褒めなかった。

感謝の言葉もなかった。

目を合わせることさえ、稀だった。


唯一の接点は——毎晩の紅茶だった。


私が書斎に届けると、彼はいつも机に向かったまま振り返らない。背中に「置いておきます」と声をかけると、低い声で「……ああ」とだけ返ってくる。


それだけだった。


ただ毎朝、カップが空になっているのだけが、彼が生きている証だった。


私はそのカップを下げながら、何度、床に叩きつけたいと思っただろう。


——叩きつけなかった。


貴族の妻というのはそういうものだと、自分に言い聞かせ続けて三年が過ぎた。



転機は、一枚の招待状だった。


ガーデンパーティー。主催はグランヴェール侯爵家。


夜会の庭で、私はセレスティーヌ・グランヴェールに捕まった。


彼女は社交界の華だと言われている。確かに美しい女性だった。金の髪に翡翠色の瞳、完璧な微笑みの裏に鋭い爪を隠し持つ、そういう種類の美しさ。


かつてカシウスとの婚約を想定されていた、とも聞いていた。


「まあ、公爵夫人。今日はお一人で? 」


甘い声で、彼女は言った。


「公爵様はこちらにいらっしゃらないのですわね。珍しい」


「所用がありまして」


「あら、そう」


セレスティーヌの目が、憐れみと侮蔑のちょうど境目の表情になった。


「……お可哀想に。三年も名前すら呼んでもらえないなんて——公爵様にとって奥様は、家具と同じですのね」


周囲の貴婦人たちがさっと目を逸らした。


「まあ、政略結婚などそういうものかしら。でも愛されてもいないのに公爵夫人の座にしがみついているのは、ちょっと……ねえ? 」


笑い声が、庭の風に溶けた。


私は微笑んだままでいた。


表情を変えなかった。


声も震わせなかった。


馬車に乗るまでは。


扉が閉まった瞬間、手袋の下で、爪が掌に食い込んだ。


——家具。


そうか、家具か。


私はずっと、そう思われていたのか。


窓の外を流れる街灯の光を見つめながら、私は泣かなかった。泣くのはいつも一人きりの寝室だけと決めていた。



書斎の棚に、高級インクの壺が並んでいることに気づいたのは、その翌週のことだった。


掃除のついでに棚を整理していると、奥の奥から、次々とインクが出てきた。


一本、二本……数えると、二十本を超えた。


しかも封を切って使いかけのものばかり。


「ヘルガ」


長年公爵家に仕えるメイド長を呼んで尋ねると、彼女は迷ったように視線を落としてから言った。


「……旦那様のご趣味です」


「これほどの量を? 」


「はい」


「どんな書き物をなさっているの? 」


「……存じません」


それ以上は何を聞いても、ヘルガは口を閉ざした。


もう一つ、腑に落ちないことがあった。


ある日の午後、書斎に資料を届けた時のことだ。


ノックをして入室すると、カシウスが机の上の紙を、素早く引き出しにしまった。


執務中に見られたくない書類だろうと、私は深く考えなかった。


——考えなかった。


でも今思えば、あの動きはどこか、焦っているように見えた。


もう一つ、思い出すことがある。


結婚初日、カシウスが黙って差し出してきた革装の日記帳。


「何かあれば、開いてほしい」


それだけ言って、彼は部屋を出た。


中を開いたら、白紙だった。


一ページも、何も書かれていなかった。


——からかわれた。


私はそう思い、それ以来、日記帳は引き出しの奥にしまったままにしていた。



そして今日、三周年の朝。


私は離縁届を書いた。


書斎の机に置いた。


指輪を並べた。


震える指をぎゅっと握りしめ、振り返らずに扉へ向かった。


——終わりにしよう。


これ以上ここにいたら、自分が何のために生きているのか分からなくなる。



荷造りを始めようとした時、屋敷の玄関に来訪者があると知らされた。


宮廷魔術師、オルランド・ファーリス。


おどけた笑みを常に貼り付けた、銀髪の男。カシウスの幼馴染だと聞いたことがある。


客間に通すと、彼は私の顔を見るなり少しだけ目を細めた。


「公爵に届け物があって参りました。……旅支度のようですね、奥様」


「もう私は公爵夫人ではありません」


オルランドの手が、一瞬止まった。


笑みが、かすかに揺れた。


「……そうですか」


短い沈黙があった。


それから彼は、ゆっくりと立ち上がった。


「では最後に一つだけ。——結婚初日に渡された革装の日記帳、まだお持ちですか? 」


私の足が止まった。


「……白紙のものですか。あの日記が何か? 」


「白紙」


オルランドが呟いた。


目線が、遠くなった。


「……ああ、そうか。あいつ、"解き方"を伝えていなかったのか」


「どういう意味です? 」


彼は私を見た。その眼差しには、珍しく、遊びの色がなかった。


「あの日記は魔道具です。——最も大切な人の涙でしか、インクが現れない仕掛けになっています」


「……魔道具? 」


「理由は、本人に聞いてください」


オルランドは一礼した。


去り際に、振り返らずに言った。


「ただ——あの男の筆跡は、あなたの名の字だけ異常に美しいですよ」


扉が閉まった。


私はしばらく、その場に立ち尽くした。



荷物を置き、自室の引き出しを開けた。


革装の日記帳は、三年間、そこにあった。


取り出すと、意外なほど重かった。


——なぜ重い? 白紙なのに。


表紙を撫でると、微かに筆圧の跡があった。


何かが書かれた痕跡——布越しに、確かに凹凸がある。


ページを開いた。


白紙だった。


一行も、何も見えない。


最も大切な人の涙でしか、インクが現れない。


——涙など流すものか。


そう思ったのに。


白いページの上に、見えない文字の跡があるのが分かった。指の腹でそっとなぞると、誰かがここに確かに何かを書いたと分かる微細な溝。


三年分の日記。


1,095日分。


もし本当に、毎日何かを書いたとしたら——


喉の奥が、締め付けられた。


——泣かない。


でも。


もし本当に毎日、ここに何かを書いていたとしたら。


あの背中が、あの振り返らない沈黙が——


一滴が、落ちた。


気づいた時には、白いページの上に小さな染みができていた。


その染みの端から、ゆっくりと、墨が滲み出した。


一文字。


また一文字。


行間から、文字が浮かび上がってきた。


```

フローラ。

今日、初めて君を妻として迎えた。

君の名を呼べないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。

```


手が震えた。


ページをめくった。


次のページにも、文字が現れた。


```

フローラ。

今日の夜会で、君は青いドレスを着ていた。

誰よりも美しかった。

隣にいるのに、名を呼べない。

```


また次のページ。


```

フローラ。

君が届けてくれた紅茶を、今日も振り向かずに受け取った。

振り向いたら名前を呼んでしまいそうで怖い。

——許してくれ。

```


またページをめくった。


```

フローラ。

今日、君が領地の件で代官と交渉しているのを廊下から見た。

少しも臆さず、理路整然と言葉を並べていた。

素晴らしいと思った。

言えなかった。

```


泣きながらページをめくり続けた。


一日も、欠けていなかった。


一日も。


1,095ページ、すべての書き出しが——「フローラ」だった。


中盤のページに、これまでと少し違う雰囲気の文章があった。


```

フローラ。

君に、話さなければならないことがある。

でも話せない。

話せば、君の名を呼んでしまう。

呼んでしまえば——君が死ぬ。

```


手が止まった。


```

フローラ。

ローゼンヴァルト家には呪いがある。

当主が最も愛する者の名を、三度口にすると——

その者の命が奪われる。

父が母を愛しすぎたから、母は死んだ。

「愛している」と三度、名前と共に言ったから。

だから私は、一度も言わない。

呼ばない。

君が、死ぬから。

```


```

フローラ。

セレスティーヌが君に何か言ったと聞いた。

馬車から降りてきた君の表情が、いつもより固かった。

あの女には二度と君に近づかせない。

ただし理由を君に言えない。

言えば全て話してしまう。

話せば、名を呼んでしまう。

……君が、死ぬから。

```


喉の奥で、何かがかみ砕かれた。


泣いているのに、笑いたいような気持ちになった。


「……ばか」


誰にでもなく、声が出た。


「大馬鹿者」


そして最後のページ。


昨夜の日付。


```

フローラ。

今日、君が離縁届を書いているのを知った。

止める資格が、私にはない。

名を呼べない男の隣にいる理由など、君にはないのだから。


——だが一つだけ。

この日記を、いつか読んでくれ。

君の名を1,095回書いた。

声に出せなかった分を、全部。

一日も忘れた日はなかった。


愛している。

声では、永遠に言えないが。

```


私は日記帳を胸に抱きしめた。


三年間、一人で泣いてきた。


でも今日は、声を上げて泣いた。



書斎の扉を開けると、カシウスがいた。


椅子に座ったまま、離縁届を手に持っていた。


署名は、していなかった。


彼は私の顔を見た。


泣き腫らした目を、日記帳を胸に抱えた私を——ゆっくりと見た。


灰色の瞳が、微かに揺れた。


「……読んだのか」


声は静かだった。


私は一歩、踏み込んだ。


「あなたはなぜ」


「……」


「なぜ話してくれなかったの。呪いのことを。私に言ってくれたら、私は——」


「言えなかった」


カシウスが初めて、私の目を真正面から見た。


「言えば……全て話してしまう。話せば、名を呼ぶ」


「呼んでいいわ! 」


「——死ぬ」


「一回じゃないの! 三回でしょう! 一回くらい呼んでくれても——」


「一回では足りない」


低い、静かな声だった。


「……一回では、足りないんだ。私には」


私は息が詰まった。


カシウスが目を伏せた。


「……君の名前を、書くことしかできなかった。毎日。一日も、欠かさず」


私は歩み寄り、離縁届をカシウスの手から取り上げた。


そのまま、真ん中から破った。


「名前を呼ばなくていい」


声が、震えた。


「呼ばなくていいから——もう背中を向けないで」


長い沈黙があった。


それから、カシウスの目から、静かに涙がこぼれた。


三年間、妻の前で、初めて。



後日談は、それほど長くなかった。


オルランドが、呪いの解呪に成功しかけていると、手紙で知らせてきた。

長年研究を続けてきたのだと、さらりと書いてあった。


セレスティーヌは、私の離縁が社交界で噂になりかけた矢先に、それが撤回されたと知り、赤恥をかいた。


それだけでは終わらなかった。


カシウスが、静かに宣言したのだ。


「妻に不快な思いをさせた者は、公爵家として相応の対応を取る」


グランヴェール侯爵家との取引が、翌日から全て止まった。


激しい怒りではなく、淡々とした当然の帰結として——それがかえって、重かった。


私はそのことをカシウスから聞かされた時、何も言わなかった。


ただ、少しだけ笑った。


「……ヘルガ」


後でメイド長を捕まえると、彼女は観念したように言った。


「……奥様。旦那様のインク代が、この三年間で、屋敷の食費を超えていることを——ご存じでしたか」


私は目を閉じた。


——ばか、とまた思った。


大好きな、大馬鹿者。



その夜。


三年間で初めて、廊下で止まっていた足音が部屋の中まで来た。


カシウスが扉を開けて入ってきた。


黙ったまま、私の手を取った。


それから、手のひらに、指先で一文字ずつ書いた。


フ。


ロ。


ー。


ラ。


「——今日から毎晩、こうして書いてもいいか」


私は目を閉じた。


手のひらに、温かな文字が刻まれていく。


その温度を感じながら、答えた。


「毎晩、聞かせて」


窓の外、冬の星が、静かに輝いていた。



声で聞いたことは一度もない。


けれど世界で一番多く私の名を書いた人が、今、隣にいる。


——きっとこれが、この人なりの「愛している」だ。

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― 新着の感想 ―
名前を呼ぶのって愛の言葉と同じですものね…そりゃ呼べないわ…。 古今東西男が女を名を呼ぶことはそのまま愛の告白と相似だと思われていたのだから、そりゃ一回でも言ったら止まらないよね…!! 日記は1人で対…
えーと、そもそも公爵家は何故呪われてるんですか? 当主だけに現れる呪いなのか一族全てなのか…? 事情を話したら名前を呼んでしまう位奥さんを愛してるのは、結婚前から好きだったとかなんですかね? 呪いの事…
対話だろうと日記だろうと二人の関係が縮まる事で名前を呼ぶ可能性=カシウスがフローラを殺す可能性が高まるなら、そもそも日記すら残すべきではないと思われます……。
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