夫の日記帳に私の名前は一度も書かれていなかった。離縁届を出した翌朝、魔法の隠し文字が浮かび上がるまでは
夫のカシウスは、三年間、私の名前を一度も呼ばなかった。
食卓では「夫人」。
夜会では「公爵夫人」。
寝室の扉越しには——ただの沈黙。
だから私は、離縁届の宛名だけは、自分の字で書いた。
フローラ・エーデルシュタイン、と。
せめてこの紙の上だけは、私に名前があることを残しておきたくて。
◆
書斎の机は、いつも整然としていた。
羽根ペンは右端に揃えられ、書類は角を合わせて重ねられ、窓から差し込む朝の光が、磨き上げられた天板にまっすぐ落ちている。
その几帳面な空間に、私は離縁届を置いた。
その上に、結婚指輪を置いた。
指先が、一瞬だけ震えた。
——震えるな。
これは逃げじゃない。自分の尊厳を守る選択だ。愛のない結婚でも役目は果たすと決めていた。でも「存在を無視される」ことだけは、どうしても耐えられなかった。
名前を呼ばれないということは、私という人間がいないのと同じだ。
三年間、そう思いながら隣に立ち続けた。
今日が、結婚三周年だった。
◆
政略結婚だと知っていた。
ローゼンヴァルト公爵——国内屈指の名門、王家の血縁——と伯爵令嬢の縁組みは、どちらの家にとっても利のある取引だった。
愛など最初から期待していなかった。
ただ、せめて人として扱ってほしかっただけだ。
私は公爵夫人として、できることはすべてやった。
社交界の運営を仕切り、領地の慈善事業を立ち上げ、屋敷の財政を黒字に転換した。先代夫人の代から滞っていた小作農との契約見直しも、私が動いた。
しかしカシウスは一度も褒めなかった。
感謝の言葉もなかった。
目を合わせることさえ、稀だった。
唯一の接点は——毎晩の紅茶だった。
私が書斎に届けると、彼はいつも机に向かったまま振り返らない。背中に「置いておきます」と声をかけると、低い声で「……ああ」とだけ返ってくる。
それだけだった。
ただ毎朝、カップが空になっているのだけが、彼が生きている証だった。
私はそのカップを下げながら、何度、床に叩きつけたいと思っただろう。
——叩きつけなかった。
貴族の妻というのはそういうものだと、自分に言い聞かせ続けて三年が過ぎた。
◆
転機は、一枚の招待状だった。
ガーデンパーティー。主催はグランヴェール侯爵家。
夜会の庭で、私はセレスティーヌ・グランヴェールに捕まった。
彼女は社交界の華だと言われている。確かに美しい女性だった。金の髪に翡翠色の瞳、完璧な微笑みの裏に鋭い爪を隠し持つ、そういう種類の美しさ。
かつてカシウスとの婚約を想定されていた、とも聞いていた。
「まあ、公爵夫人。今日はお一人で? 」
甘い声で、彼女は言った。
「公爵様はこちらにいらっしゃらないのですわね。珍しい」
「所用がありまして」
「あら、そう」
セレスティーヌの目が、憐れみと侮蔑のちょうど境目の表情になった。
「……お可哀想に。三年も名前すら呼んでもらえないなんて——公爵様にとって奥様は、家具と同じですのね」
周囲の貴婦人たちがさっと目を逸らした。
「まあ、政略結婚などそういうものかしら。でも愛されてもいないのに公爵夫人の座にしがみついているのは、ちょっと……ねえ? 」
笑い声が、庭の風に溶けた。
私は微笑んだままでいた。
表情を変えなかった。
声も震わせなかった。
馬車に乗るまでは。
扉が閉まった瞬間、手袋の下で、爪が掌に食い込んだ。
——家具。
そうか、家具か。
私はずっと、そう思われていたのか。
窓の外を流れる街灯の光を見つめながら、私は泣かなかった。泣くのはいつも一人きりの寝室だけと決めていた。
◆
書斎の棚に、高級インクの壺が並んでいることに気づいたのは、その翌週のことだった。
掃除のついでに棚を整理していると、奥の奥から、次々とインクが出てきた。
一本、二本……数えると、二十本を超えた。
しかも封を切って使いかけのものばかり。
「ヘルガ」
長年公爵家に仕えるメイド長を呼んで尋ねると、彼女は迷ったように視線を落としてから言った。
「……旦那様のご趣味です」
「これほどの量を? 」
「はい」
「どんな書き物をなさっているの? 」
「……存じません」
それ以上は何を聞いても、ヘルガは口を閉ざした。
もう一つ、腑に落ちないことがあった。
ある日の午後、書斎に資料を届けた時のことだ。
ノックをして入室すると、カシウスが机の上の紙を、素早く引き出しにしまった。
執務中に見られたくない書類だろうと、私は深く考えなかった。
——考えなかった。
でも今思えば、あの動きはどこか、焦っているように見えた。
もう一つ、思い出すことがある。
結婚初日、カシウスが黙って差し出してきた革装の日記帳。
「何かあれば、開いてほしい」
それだけ言って、彼は部屋を出た。
中を開いたら、白紙だった。
一ページも、何も書かれていなかった。
——からかわれた。
私はそう思い、それ以来、日記帳は引き出しの奥にしまったままにしていた。
◆
そして今日、三周年の朝。
私は離縁届を書いた。
書斎の机に置いた。
指輪を並べた。
震える指をぎゅっと握りしめ、振り返らずに扉へ向かった。
——終わりにしよう。
これ以上ここにいたら、自分が何のために生きているのか分からなくなる。
◆
荷造りを始めようとした時、屋敷の玄関に来訪者があると知らされた。
宮廷魔術師、オルランド・ファーリス。
おどけた笑みを常に貼り付けた、銀髪の男。カシウスの幼馴染だと聞いたことがある。
客間に通すと、彼は私の顔を見るなり少しだけ目を細めた。
「公爵に届け物があって参りました。……旅支度のようですね、奥様」
「もう私は公爵夫人ではありません」
オルランドの手が、一瞬止まった。
笑みが、かすかに揺れた。
「……そうですか」
短い沈黙があった。
それから彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「では最後に一つだけ。——結婚初日に渡された革装の日記帳、まだお持ちですか? 」
私の足が止まった。
「……白紙のものですか。あの日記が何か? 」
「白紙」
オルランドが呟いた。
目線が、遠くなった。
「……ああ、そうか。あいつ、"解き方"を伝えていなかったのか」
「どういう意味です? 」
彼は私を見た。その眼差しには、珍しく、遊びの色がなかった。
「あの日記は魔道具です。——最も大切な人の涙でしか、インクが現れない仕掛けになっています」
「……魔道具? 」
「理由は、本人に聞いてください」
オルランドは一礼した。
去り際に、振り返らずに言った。
「ただ——あの男の筆跡は、あなたの名の字だけ異常に美しいですよ」
扉が閉まった。
私はしばらく、その場に立ち尽くした。
◆
荷物を置き、自室の引き出しを開けた。
革装の日記帳は、三年間、そこにあった。
取り出すと、意外なほど重かった。
——なぜ重い? 白紙なのに。
表紙を撫でると、微かに筆圧の跡があった。
何かが書かれた痕跡——布越しに、確かに凹凸がある。
ページを開いた。
白紙だった。
一行も、何も見えない。
最も大切な人の涙でしか、インクが現れない。
——涙など流すものか。
そう思ったのに。
白いページの上に、見えない文字の跡があるのが分かった。指の腹でそっとなぞると、誰かがここに確かに何かを書いたと分かる微細な溝。
三年分の日記。
1,095日分。
もし本当に、毎日何かを書いたとしたら——
喉の奥が、締め付けられた。
——泣かない。
でも。
もし本当に毎日、ここに何かを書いていたとしたら。
あの背中が、あの振り返らない沈黙が——
一滴が、落ちた。
気づいた時には、白いページの上に小さな染みができていた。
その染みの端から、ゆっくりと、墨が滲み出した。
一文字。
また一文字。
行間から、文字が浮かび上がってきた。
```
フローラ。
今日、初めて君を妻として迎えた。
君の名を呼べないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。
```
手が震えた。
ページをめくった。
次のページにも、文字が現れた。
```
フローラ。
今日の夜会で、君は青いドレスを着ていた。
誰よりも美しかった。
隣にいるのに、名を呼べない。
```
また次のページ。
```
フローラ。
君が届けてくれた紅茶を、今日も振り向かずに受け取った。
振り向いたら名前を呼んでしまいそうで怖い。
——許してくれ。
```
またページをめくった。
```
フローラ。
今日、君が領地の件で代官と交渉しているのを廊下から見た。
少しも臆さず、理路整然と言葉を並べていた。
素晴らしいと思った。
言えなかった。
```
泣きながらページをめくり続けた。
一日も、欠けていなかった。
一日も。
1,095ページ、すべての書き出しが——「フローラ」だった。
中盤のページに、これまでと少し違う雰囲気の文章があった。
```
フローラ。
君に、話さなければならないことがある。
でも話せない。
話せば、君の名を呼んでしまう。
呼んでしまえば——君が死ぬ。
```
手が止まった。
```
フローラ。
ローゼンヴァルト家には呪いがある。
当主が最も愛する者の名を、三度口にすると——
その者の命が奪われる。
父が母を愛しすぎたから、母は死んだ。
「愛している」と三度、名前と共に言ったから。
だから私は、一度も言わない。
呼ばない。
君が、死ぬから。
```
```
フローラ。
セレスティーヌが君に何か言ったと聞いた。
馬車から降りてきた君の表情が、いつもより固かった。
あの女には二度と君に近づかせない。
ただし理由を君に言えない。
言えば全て話してしまう。
話せば、名を呼んでしまう。
……君が、死ぬから。
```
喉の奥で、何かがかみ砕かれた。
泣いているのに、笑いたいような気持ちになった。
「……ばか」
誰にでもなく、声が出た。
「大馬鹿者」
そして最後のページ。
昨夜の日付。
```
フローラ。
今日、君が離縁届を書いているのを知った。
止める資格が、私にはない。
名を呼べない男の隣にいる理由など、君にはないのだから。
——だが一つだけ。
この日記を、いつか読んでくれ。
君の名を1,095回書いた。
声に出せなかった分を、全部。
一日も忘れた日はなかった。
愛している。
声では、永遠に言えないが。
```
私は日記帳を胸に抱きしめた。
三年間、一人で泣いてきた。
でも今日は、声を上げて泣いた。
◆
書斎の扉を開けると、カシウスがいた。
椅子に座ったまま、離縁届を手に持っていた。
署名は、していなかった。
彼は私の顔を見た。
泣き腫らした目を、日記帳を胸に抱えた私を——ゆっくりと見た。
灰色の瞳が、微かに揺れた。
「……読んだのか」
声は静かだった。
私は一歩、踏み込んだ。
「あなたはなぜ」
「……」
「なぜ話してくれなかったの。呪いのことを。私に言ってくれたら、私は——」
「言えなかった」
カシウスが初めて、私の目を真正面から見た。
「言えば……全て話してしまう。話せば、名を呼ぶ」
「呼んでいいわ! 」
「——死ぬ」
「一回じゃないの! 三回でしょう! 一回くらい呼んでくれても——」
「一回では足りない」
低い、静かな声だった。
「……一回では、足りないんだ。私には」
私は息が詰まった。
カシウスが目を伏せた。
「……君の名前を、書くことしかできなかった。毎日。一日も、欠かさず」
私は歩み寄り、離縁届をカシウスの手から取り上げた。
そのまま、真ん中から破った。
「名前を呼ばなくていい」
声が、震えた。
「呼ばなくていいから——もう背中を向けないで」
長い沈黙があった。
それから、カシウスの目から、静かに涙がこぼれた。
三年間、妻の前で、初めて。
◆
後日談は、それほど長くなかった。
オルランドが、呪いの解呪に成功しかけていると、手紙で知らせてきた。
長年研究を続けてきたのだと、さらりと書いてあった。
セレスティーヌは、私の離縁が社交界で噂になりかけた矢先に、それが撤回されたと知り、赤恥をかいた。
それだけでは終わらなかった。
カシウスが、静かに宣言したのだ。
「妻に不快な思いをさせた者は、公爵家として相応の対応を取る」
グランヴェール侯爵家との取引が、翌日から全て止まった。
激しい怒りではなく、淡々とした当然の帰結として——それがかえって、重かった。
私はそのことをカシウスから聞かされた時、何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「……ヘルガ」
後でメイド長を捕まえると、彼女は観念したように言った。
「……奥様。旦那様のインク代が、この三年間で、屋敷の食費を超えていることを——ご存じでしたか」
私は目を閉じた。
——ばか、とまた思った。
大好きな、大馬鹿者。
◆
その夜。
三年間で初めて、廊下で止まっていた足音が部屋の中まで来た。
カシウスが扉を開けて入ってきた。
黙ったまま、私の手を取った。
それから、手のひらに、指先で一文字ずつ書いた。
フ。
ロ。
ー。
ラ。
「——今日から毎晩、こうして書いてもいいか」
私は目を閉じた。
手のひらに、温かな文字が刻まれていく。
その温度を感じながら、答えた。
「毎晩、聞かせて」
窓の外、冬の星が、静かに輝いていた。
◆
声で聞いたことは一度もない。
けれど世界で一番多く私の名を書いた人が、今、隣にいる。
——きっとこれが、この人なりの「愛している」だ。




