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第一幕 第一話:「尾張戸神社 ― 千種の息吹」

夕暮れの風が運ぶのは、懐かしき名を呼ぶ声。

放課後の喧騒の向こう、義輝の胸に芽生えたのは、得体の知れぬざわめきでした。

導かれるように辿り着くは、古より二柱が鎮まる社──尾張戸神社。

その穢れを祓えと告げる声は、運命の扉を静かに開き始めます。


物語は、ここから大きく動き出します。

 放課後の剣道場──

 竹刀の音、踏み込みの衝撃、汗のにおい。秋になってもなお、道場の中は暑苦しい熱気に満ちている。稽古の熱気がまだ残る空間で、義輝は胴着の袖口を緩めながら深く息を吐いた。


「今日の面、だいぶ切れ味増してたな」


 声をかけてきたのは、大海大琥(おうみたいが)。額に浮かんだ汗を手ぬぐいで拭いながら、いつもの笑みを浮かべている。


「そっちこそ、踏み込み速くなってた」


 義輝は竹刀を片付けながら、視線を横に向ける。179センチの長身に浅黒い肌、稽古で鍛えられた引き締まった体躯──その存在感は、道場の中でもひと際目を引いた。

 大琥は竹刀を担ぎ、少しだけ視線を落としてから言った。


「当たり前だろ、俺はお前に勝ちたいんだよ」


 軽口のようでいて、その奥に競い合う者同士の真剣さが宿っている。

 二人の会話は淡々としているが、息遣いや立ち姿には稽古で培った呼吸が自然に重なっていた。それは言葉にしなくても伝わる、長い時間を共有した者だけの間合いだった。


「お前、昨日また神社行ってたろ? 変なことしてねーだろな」


 義輝は曖昧に笑い、「別に」と答えたが、その声は自分でも驚くほど硬かった。

 大琥はそんな義輝の返答に右の眉をわずかに上げたが、その事には触れずにスマホを見せる。SNSの画面に並ぶ『尾張戸神社に行くと別れる』のタグ。


「#尾張戸神社に行ったら彼氏と3日後に別れた」


 そこには、恋人同士の喧嘩や破局を嘆く短文が次々と投稿されていた。

 義輝は画面から視線を逸らし、胸の奥で何かが小さく軋むのを感じた。


「恋愛成就どころか、逆効果じゃん。まぁある意味『オワリ』が叶う神社、てか?」と笑う大琥。

 義輝は冗談に笑い返したはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残った。




 二人は帰り道でくだらない話を交わす。

 幼い頃の肝試しや、試合の代理出場、誰にも言えない小さな秘密。そんなやり取りの途中、道端で女子二人が口論しているのを見かける。

 一人は顔を赤くし、手を振り上げながら「…なんであの神社に行ったのよ!」と声を荒らげていた。

 秋の空気が冷えているはずなのに、その場だけ夏の湿った暑さが取り残されたかのような熱気が漂っていた。


 その瞬間、道端の喧騒が遠のき、その言葉だけが耳に残った。聞こえた一言が、義輝の胸の奥をざわめかせる。

 耳の奥に、かすかな声


 ──「……尾張戸…」


「おい、どうした? 顔色悪いぞ」と大琥が覗き込むが、義輝は曖昧に笑ってごまかす。




 夜。部屋の灯りを落とし、布団に入った義輝は、微かな疲労感とざわつきを抱えたまま眠りに落ちる。

 夢の中、朧げな神社の鳥居の前に立っている。朱塗りは色褪せ、空気は重く澱んでいる。湿った土の匂いが重くまとわりつき、どこからか水の滴る音が途切れ途切れに響いていた。

 遠くの木々は、風に吹かれても貼り付けた写真のように微動だにしない──まるで何かに絡め取られているかのように…。

 神社とは別の方から、白拍子の影が見えた──どこかで会ったような…


 ──(来て…あの場所が…)


 胸に直接響く声。


 重く淀んだ空気に潰されそうな圧迫感──息が詰まったように目を開けると、そこはもう夜明け前の静けさの中だった。


 胸の鼓動が妙に速く、酷く汗ばんでいた。夢の名残りがまだ皮膚の内側に貼りついている。

 枕元には夜明け前の淡い闇が沈み、カーテンの隙間から街灯の橙が細く差し込んでいる。外は静まり返っているはずなのに、耳の奥には、さっきまでの声の余韻がかすかに響いていた。

 夢の内容は、白い霧に包まれたように遠ざかっていく──掴もうとした指先から零れ落ちる砂のように。



 学校では普段通りの時間が過ぎるが、授業の合間や窓の外の空に、夢の情景が重なる。


 夕暮れ、放課後の校門を出た義輝の足は、ふと昨日と違う方向へ向かう。西日を浴びて輝く道標──『尾張戸神社』。


 立ち止まり、息を吸い込む。

 沈む夕陽のその赤さは、美しさよりも不吉で、血がゆらめくように空気を染め上げていた。

 その赤が、自分を呼んでいるような錯覚を──義輝は振り払えなかった。

 その時、胸の奥にふと温かい気配が宿った。


 ──(……義輝)


 凛とした女性の声。聞き覚えがある。


天雅(あまのみやび)……?」


 振り返っても、そこに人影はない。声は風に溶け、空の奥から降りてくるようだった。


 ──(私はそこに入れぬ。この社は、二柱の神が鎮まる場所ゆえ……)


「二柱?」


 ──(伊邪那岐と伊邪那美。創世の神にして、この地を遥か太古より見守る存在)


 穏やかな声の奥に、張り詰めた気配があった。

 ──(だが今、穢れに覆われている。私からは触れられぬ。……義輝にしか頼めぬ)


 その切迫した響きに、義輝の胸の奥で何かが脈を打った。

 言葉を返す前に、彼は無意識に頷いていた。


挿絵(By みてみん)


 石段を一歩踏みしめるごとに、空気は湿りを増し、夕闇は急速に濃くなる。

 鳥居に張られたしめ縄は切れて落ち、紙垂しでは千切れ、泥にまみれていた。


 鳥居をくぐると、境内は闇と黒いもやに覆われている。灯籠はすべて消え、黒い染みがこびりついていた。中央の社殿は影に沈み、絵馬掛けには黒ずんだ絵馬が幾重にも垂れ下がっている。

 もやの奥から、低く湿った声が響く。


 天雅ではない──重く、鈍く、耳の奥を圧する声だった。


 社殿の正面に立った瞬間、境内の空気がふっと変わった。

 風は止み、木々は葉の一枚まで動きを失う。遠くの虫の声さえ途絶え、世界が水底のように静まり返った。


 視界の端に淡い光が揺らめく。

 やがて光は形を成し、霧のように広がりながら、社殿の奥からゆっくりと流れ出てきた。

 その霧の中に、二つの影が浮かび上がる。


 一人は天を衝くような長身、白く輝く衣が夜明け前の空のように淡く揺らぎ、瞳は深い海の底を思わせる青。

 その歩みで足元から波紋のような光が広がっていく。


 もう一人は月光を抱くような女性神。

 黒髪は夜空のように深く、金の簪が流星の尾のような光を散らしている。

 その微笑みは大地を育む春の陽だまりのようでありながら、自然と頭を垂れて敬う程の威厳を秘めていた。


 ──(我は伊邪那岐)

 ──(我は伊邪那美)


 二柱は声を重ね、しかしその響きは空からも地の底からも同時に届くようだった。

 義輝の胸が、見えない圧力で締め付けられる。その表情には苦悶の色があった。


 ──(この地は穢れ地となり、縁が歪み、願いは呪へと堕ちた)

 ──(我らは直接、穢れに触れられぬ。契りがある)


 言葉と共に、義輝の掌に温かな光が宿る。それは心臓の鼓動と同じ速さで脈打ち、血潮に染み込むように広がっていった。


 ──(お前の祈りをもって、ここを浄めよ)


 境内の隅に、もやの届かぬ一本の古木があった。根元には、艶やかな榊の葉と、ひとつだけ落ちたドングリ。

 義輝はそれを両手で包み込み、目を閉じた。胸の奥で、二柱と天雅の声が重なる。


 ──(祈れ)


 義輝はただ、二柱を助けたいと願った。

 ここに訪れた人々の願いが引き裂かれた無念を晴らしたいと、強く思った。




 だが、心の中に黒い霧が広がる。

 ──(…オマエニ、カカワリナキコト)

 ──(…イノッタトコロデ、ナニモカワラヌ)


 否定の声が胸を締め付け、光を覆い隠そうとする。その時、胸ポケットの奥から温もりが滲んだ。


 天雅の神社で祈った時のアベマキドングリ。義輝の脳裏に、安堵の表情を浮かべた天雅の顔がよみがえる。

 祈りは無駄ではない──その確信が、光となって心の中に広がっていく。


 ──(…クッ、ヤメ…ロ…)


 黒い霧が裂けた瞬間、柔らかな突風が境内を駆け抜けた。

 風は冷たくも温かく、胸の奥に染み入り、早春の陽だまりのように広がる温もりを残していった。

 白銀の露は舞いながらほどけ、一片一片が小さな祈りの形となって消えていった。

 露の煌めきが黒ずんだ絵馬をそっと撫で、呪の色をやわらげるように溶かしていく。

 黒いもやが声にならぬ悲鳴をあげ、渦を巻きながら天へ消えていった。境内に立ち込めていた湿りは晴れ、威圧するかのような気配は消えた。

 光が境内を満たす中、伊邪那岐の瞳がわずかに細まり、深く頷いた。




 穢れが払われた後、二柱は再び社殿の前に立っていた。


 ──(よくぞ穢れを祓いし。我らが見守るはここまで──されど、汝の血脈は未だ眠る)


 伊邪那岐の声が静かに響いた後、伊邪那美が続ける。


 ──(次に試されるは、汝の縁──その結びが、真か偽か…)


 義輝と伊邪那美は一瞬目が合う。その瞳は、深い湖の底で静かに波が広がるように、何かを託す光を帯びていた。

 伊邪那美は柔らかな微笑みを向け──光と共に静かに消えた。

 二柱は薄靄のように淡く溶け、境内には静寂が戻った。




 義輝は深く息を吐き、ドングリを握りしめる。その瞬間、視界がふっと揺らいだ。




 気がつけば、義輝は雲海の上に立っていた。

 眼下には、黄金に輝く巨大な龍が横たわっている。その體はやがて大地へと変わり、鱗が山脈となり、川が血潮のように流れ出す。

 龍の腹のあたり、翠の光がひときわ強く脈打つ場所がある。そこから天に向けて、まっすぐに伸びる光の柱が立ち上る。


 ──『我は彼の地より降り、この地を創造するもの也』


 声と共に、遥か彼方にひときわ明るく光る星が浮かび上がる。龍はその星を、親を意味する「親星」と呼んだ。

 光の柱はその親星へと伸び、無数の芽吹きが雲を突き抜け、世界へと広がっていく。


 ──(ここが……尾張)


 ──『尾張とは、龍の尾にあらず。龍の體のまんなか──生命の蔵なり』

 ──『ましてや終わりの地にあらず。全ての始まりの地なり』


 龍の體が淡く輝き、「尾」の字が空中に浮かび上がる。


『尸』は龍の屍

『王』は親星・天・大地を結ぶ柱

『L』は神


 形が変わるたび、言葉の意味が義輝の胸に染み込んでいった。


 ──『この地は、龍が遺した“千種”を抱く場所。あらゆる草木の種、食を醸す菌までもが眠り、列島の息吹はここを起点に巡る。』

 ──『尾張の穢れは、やがて国全ての衰えとなる』


 翠の光が脈を打つたび、芽吹きが勢いを増す。だが、光の輪の端から黒い染みが滲み、若芽をひとつ、またひとつと枯らしていく。


 ──『…守れ。この地の巡りを断たせるな』




 次の瞬間、境内の薄明かりが戻った。義輝は手の中のドングリを見下ろし、その温もりを確かめるように握りしめる。

 遠く、天雅の声が再び響いた。


 ──(ありがとう、義輝……)


 その声は秋の夜風に溶けた。

 空を見上げると、黒雲の切れ間から月がそっと顔を覗かせ、その光は澄みきっていた。

 義輝はその光景をしばらく黙って見上げていた。

 胸の奥にひそやかな春の息吹が、灯火のように静かに残っていた。夜の空気は澄み、どこかの梢がひそやかにさざめいた。




お読みいただきありがとうございます。

第一話では、義輝が「尾張戸神社」で二柱の神と邂逅し、この地に秘められた役目を託されるまでを描きました。

序幕での出来事が彼の心に静かな火を灯し、今回でその火が「使命」として形を取り始めた……そんな回だったと思います。


尾張という地名の語源や、神社にまつわる伝承は実際の史実や伝承を一部モチーフにしていますが、物語の中ではフィクションとして大きく脚色しています。

また、二柱(伊邪那岐・伊邪那美)の登場シーンや龍のビジョンは、今後の展開で大きな意味を持つ重要な要素です。


次回は、義輝の周囲の人物たちや、彼を取り巻く「縁」の在り方が少しずつ明らかになります。

物語はまだ静かな始まりですが、これから少しずつ、不穏と希望が交差していくはずです。


最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。

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