資本主義対芸術
これはこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
朝の光が、長野の街並みにやわらかく差し込んでいた。
秋広あきひろは、今日も仕事へ向かうため、いつものようにアパートを出た。冷たい空気を頬に感じながら、自転車にまたがり、市の中心部へとペダルをこぎ出す。
彼の職場は、市街のビル群の中にある事務所。片道およそ二十分の道のりだった。
そして、その途中。
ふと、いつもの十字路に差し掛かると――あの香りが、風に乗って漂ってきた。
トマトと香辛料、鉄板で焼かれるトルティーヤの香ばしさ。
「おーい! アキヒロ!」
手を振るのは、ラウラだった。
カラフルな屋台の前で、エプロン姿の彼女は、今日も変わらず明るい笑顔を見せていた。
「おはようございます、ラウラさん。仕込み中ですか?」
「うん、でも最近、ちょっと調子が悪くてさ……」
彼女は、軽く笑ってみせながらも、その表情には疲労と不安がにじんでいた。
ラウラはメキシコ系の家系で、代々続くストリートフードの家系の出身だという。ナチョス、カルニータス、サルサの味は本物で、市の中心部でも評判の屋台だった。
しかし――
「今月も赤字続きでさ。材料費も上がるし、客も減ってる。正直、もう少しで限界かも」
アキヒロは言葉を失った。
この街に来て以来、何度もラウラの屋台に救われてきた。その温かさと味は、彼の中で“家庭”の記憶とすら重なっている。
「……他のみんなも、似たような感じなんだ」
ラウラは静かに、周囲の仲間たちの話をし始めた。
ヒナタ――衣のサクサク感が絶妙なエビフライと、出汁のきいた牛丼が看板の、和風の屋台。
ワンユー――本格中華料理を小さな屋台で振る舞う、腕の確かな中国出身の女性。小籠包、麻婆豆腐、チャーハンなどが人気。
セリーナ――アフロカリビアン系の料理を出す陽気な女性。ジャークチキン、豆の煮込み、スパイスのきいたスープは街の隠れた名物だった。
しかし今、そのすべてが――消えかけていた。
「再開発の話、聞いた?」
「……再開発?」
「このエリアを全部買い取って、大きなモールにするってさ。もう、いくつかの店は退去通知をもらってるらしい」
「そんな……!」
「うちらの店は、みんな小さくて、古くて、地味だけど――でも、味だけは、誰にも負けないって思ってる」
言葉にはできない誇りが、ラウラの声の奥にあった。
アキヒロは、自分の胸の奥で何かが熱くなるのを感じていた。
(どうして、こういうものが、いちばん最初に消されていくんだ……?)
自転車のハンドルを握りしめながら、彼はその場を離れられずにいた。
そして、心のどこかで確かに感じていた。
――このままじゃいけない。
このエピソードを楽しんでいただければ幸いです。次のエピソードは明日アップロードします。