コーヒーは思い出と呼ばれる異世界への魔法の入り口です
これはこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
その日の午後、アキヒロはノムヴラの両親から連絡を受け、彼女の家を訪れていた。
理由は単純で、「コーヒーでも飲まない?」という、どこにでもあるような誘いだった。
テーブルの上には、南アフリカ風の素朴な焼き菓子と、日本の菓子屋で買ってきたらしい饅頭が、特に意味もなく並べられている。
文化の違いを意識する者は、ここには誰もいなかった。
「遠慮しないで、アキヒロ君。若者さんは、こういうのたくさん食べなきゃ」
ノムヴラの母はそう言って笑い、父は静かにコーヒーを注いだ。
その様子を見て、アキヒロはいつもと同じ、安心するような気持ちになる。
――だが、今日は一人多かった。
「やあ、久しぶりだね」
そう言って部屋にいたのは、白髪混じりで、穏やかな笑顔を浮かべた男性だった。
丸い眼鏡、少しよれたジャケット。
どこにでもいそうな大学教授の風貌。
「ミマロ先生……?」
「うん。今日はお邪魔させてもらっているよ」
ノバヤシズキガミ・ミマロ。
東京大学の物理学教授で、学生からの評判は非常にいい。
質問すれば必ず答えてくれる、説明は丁寧、しかも怒らない。
――完璧な“いい先生”。
「先生と……知り合いだったんですか?」
アキヒロの問いに、ノムヴラの父が少しだけ懐かしそうな表情を浮かべた。
「もう、ずいぶん昔からだよ」
「この人には、本当に世話になったんだ」
ミマロは軽く手を振った。
「いやいや。私はただ、声を上げただけさ」
そして、コーヒーを一口飲んでから、淡々と話し始める。
「クラフティヒが現れて、人類がほぼ壊滅した頃の話だ。
日本も、余裕があったわけじゃない。
それでもね……」
彼は窓の外を一瞬だけ見た。
「生き残った人たちを“客人”として扱うのか、
それとも“仲間”として迎えるのか。
それが問われていた」
ミマロは、当時の政府に対して行われた市民運動について語った。
難民受け入れ反対の声。
治安悪化を恐れる声。
文化が壊れるという不安。
「でもね、世界が終わりかけていたんだ。
そんな時に、国籍だけを理由に線を引くのは……
あまりに、人間らしくないと思ってね」
彼は笑った。
あくまで、学者らしい、理屈の通った笑みだった。
「だから、抗議した。
受け入れるだけじゃ足りない。
“市民”として迎え入れるべきだ、と」
ノムヴラの両親は、何も言わずにうなずいた。
その沈黙が、言葉よりも多くを語っているように見えた。
アキヒロは、ミマロという人物を、改めて見つめる。
――正義感があって、穏やかで、頭がいい。
――多くの人を救った人。
「先生は……すごいですね」
思わず出たその言葉に、ミマロは少し照れたように肩をすくめた。
「いや、結果論だよ。
人はね、あとからなら、何とでも美しく語れる」
その言葉の奥に、ほんのわずかな影が落ちた気がした。
だが、それはすぐに、午後の光に溶けて消えた。
テーブルの上では、コーヒーの湯気が、ゆっくりと立ち上っている。
何気ない午後。
何気ない会話。
――この時、アキヒロはまだ知らない。
この穏やかな男が、
世界の運命と、ノムヴラの存在に、どれほど深く関わっているのかを。
コーヒーは、少し苦かった。
このエピソードを楽しんでいただければ幸いです。次のエピソードはすぐにアップロードします。




