表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/24

知識の神殿を訪れる

これはこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。

秋広は、東京大学へ向かっていた。


彼には、いわゆる「決まった仕事」というものがない。

コンビニの短期バイトをする日もあれば、屋台の手伝いをする日もある。

引っ越しの荷運び、掃除、雑用、誰かの代わりのシフト――声がかかれば、できる範囲で引き受ける。


理由は単純だった。


できるだけ多くの人を助けていたかった。

そうしていないと、自分がここに生きている理由が、分からなくなってしまうからだ。


幼いころに起きた、あの事故。

自分だけが生き残ったという事実は、時間が経っても薄れることはなかった。

だから秋広は、何かを「欲しい」と思う前に、誰かの役に立とうとする。


今日も、その延長だった。


東京大学の正門をくぐると、広いキャンパスに柔らかなざわめきが満ちていた。

学生たちの話し声、自転車のブレーキ音、遠くで鳴るチャイム。


「……すごいな」


思わず、秋広は呟く。


この場所には、知識が、歴史が、人類が積み重ねてきた時間が、静かに沈殿しているような気がした。


「やっぱり、最初はそういう反応になるよね」


声をかけてきたのは、アグネス・アンジェロプロスだった。


ギリシャ系の血を引く彼女は、快活で、どこか哲学的な目をしている。

ノムヴラの親友であり、東京大学の学生でもあった。


「ノムヴラの仕事、もう始まる時間か?」


「ううん。まだ一時間あるよ。だから、急がなくて大丈夫」


アグネスはそう言って、軽く手を振った。


「せっかくだし、キャンパス案内してあげる。迷路みたいな場所も多いから」


二人は、講義棟の一つに入った。


中では、ちょうど講義が終わるところだったらしく、学生たちが一斉に立ち上がっている。


教壇に立っていたのは、五十代ほどの日本人男性だった。

頭は薄く、眼鏡をかけ、穏やかな笑みを浮かべている。


「こちら、物理学科の誇り」


アグネスが小声で言う。


信林月神のばやしづきがみミマロ教授。

東京大学で一番人気の先生よ」


ミマロは、学生一人ひとりの質問に丁寧に答え、最後にはこう言った。


「分からないことは、恥ではありません。

分からないままにしておくことの方が、ずっと危険ですからね」


学生たちは、感心したように頷いていた。


講義が終わり、教室が空き始めたころ。

数人の学生が、机の上に紙切れを置いていくのが、秋広の目に留まった。


白いメモ。

びっしりと書かれた数式、記号、図。


気になって、秋広は一枚を覗き込む。


――まったく、分からない。


数式の意味も、前提も、どこから考えればいいのかも、何一つ理解できなかった。


ただ、一つだけ。

すべての紙に共通して書かれている一文があった。


「これは、どうやって解決すればいいのですか?」


その言葉だけが、やけに人間的に見えた。


ミマロ教授は、それらの紙を静かに集め、頷く。


「なるほど……これは、面白い問題ですね」


まるで、日常の雑談をするような口調だった。


「さて」


アグネスが、軽く手を叩く。


「そろそろ、ノムヴラの時間ね」


二人は講義棟を後にし、図書館へ向かった。


東京大学の図書館は、外の喧騒とは別の時間が流れているようだった。

ページをめくる音、足音、遠くの咳払い。


そこに、ノムヴラがいた。


整然と本を並べ、静かに利用者へ対応している。

その姿は、まるでこの場所の一部のように自然だった。


「ノムヴラ」


秋広が声をかけると、彼女は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。


「来てくれたんだね」


「うん。今日は何を手伝えばいい?」


「返却棚の整理と、新しく入った資料の運搬かな」


秋広は頷き、袖をまくる。


本を運びながら、彼は思う。


――ここは、守られている場所だ。


知識も、人も、静けさも。

そして、今はまだ、何も壊れていない。


そのことを、なぜか強く意識してしまう自分がいた。


図書館の奥で、時計の針が、静かに進んでいた。


まだ、この時点では。

秋広は何も知らなかった。


この穏やかな日常の裏側で、

すでに「問い」は投げかけられていたことを。


「――どうやって、解決すればいいのか?」

このエピソードを楽しんでいただければ幸いです。次のエピソードはすぐにアップロードします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ