一幕《化け猫》⑥
日が暮れた薄暗い遊郭の街中。
カラコロと下駄を鳴らしながら、夜光は楽しげに体を揺らして歩いている。
そんな夜光の姿を、狂士は後ろから微笑ましく見つめていた。
「はは、ずいぶん楽しそうだな」
「だって、外に出れるなんて、凄く久しぶりだから」
夜光の言葉に狂士は首を傾げ、何気なしに問いかける。
「買い物とかで、外に出ないのか?」
すると夜光は目を丸くして、驚いたような顔で聞き返した。
「狂士は、遊廓を知らないの?」
「え?」
振り返った夜光は再び前を向き、ゆっくりと歩きながら、明るい声で話しだす。
「遊女はね、一度売られたら、もう自由に外に出れないの。借金を返し終える遊女なんてそうはいないから、一生遊廓で過ごすことがほとんど」
「……そんな、一生なんて」
狂士は呆然と立ち止まり呟いた。
「ふふ、そんな顔しないで。吉原の中なら、こうやってたまに外に出れたりするんだから。私、それだけでも十分楽しいよ?」
夜光は狂士の顔を覗き込み、純粋な笑顔を向けていた。
狂士には、遊廓は活気ある繁華街のように見えていた。
しかし実際は、夜光のように借金のかたにされた女性たちが、その身をすり減らし働き続ける、まるで豪華な鳥籠のような場所。
時代のせいと言えばそれまでだが、夜光の事を思うと、狂士はやり切れない気持ちだった。
狂士は夜光の笑顔をじっと見つめると、ガシッと両肩を掴んだ。
「きょ、狂士?」
夜光は驚いた表情でビクッと体をこわばらせる。
「夜光! どっか行きたいとこ、ない!?」
「……え?」
「久しぶりの外なんだろ? せっかくだからさ、お使いついでに夜光の行きたいとこ、見て回ろうぜ」
キョトンとする夜光だが、その顔はすぐにとびきりの笑顔となる。
「うん!」
その笑顔はまるで子供のようにあどけなく、どこか儚さが混じっているように見えた。
――――
「この櫛、可愛い……」
頼まれた白粉と紅を買いにきた商店で、夜光は興味津々に色んな商品を手に取り眺める。
その中で、丸みを帯びた小花柄の櫛を手に、キラキラと目を輝かせていた。
(ここが吉原じゃなけりゃ、まるで普通の女の子なのに……)
喜んでいる夜光を見るのは嬉しかったが、狂士はこれからの夜光の生活を考え、心苦しい思いを感じていた。
「はい、これお釣りね」
店の主人からお釣りを受け取り、狂士はしばし考え込む。
「……あ、すみません、これであの櫛って買えます?」
「ん? あぁ、つげ櫛ね、ちょうど買えるよ」
「じゃあ、それも」
「まいどあり」
買い物を終えると、外はすっかり暗くなり、人々に溢れてきた吉原の街は賑わいを見せていた。
「人が増えてきたな」
狂士の前を歩いていた夜光は、その言葉を聞いて不意に立ち止まった。
「……あのね、少しだけ、寄り道してもいい?」
「ん? あぁ、もちろん」
夜光に連れられてた狂士は、妓楼が並ぶ通りを外れ、大きな木と岩のある塀の近くにやってきた。
「……秋だもん、桜なんて咲かないよね」
大きな木を見上げて、夜光は寂しそうに呟く。
「桜、見たかったのか?」
「うーん、そりゃ見てみたかったけど……ちょっと、違う」
曖昧な答えに首を傾げていると、夜光は突然下駄を脱いで、その木によじ登り始めた。
「お、おいおい! あぶねぇって」
「大丈夫、昔はこれくらい登れたし……わぁっ」
得意気に話していた夜光だが、突然ズルリと足を滑らせる。
下で見守っていた狂士は、慌ててその体を受け止めた。
「はぁ……だから言ったろ?」
「うー……残念」
抱きかかえた夜光の体は、その見た目以上に軽い。
着物から見える華奢な腕は、心配になるほど細かった。
狂士は少し考え込んだ後、夜光を下ろして勢いよく木の枝によじ登った。
「……凄い」
スルスルと登る狂士を、夜光はポカンと口を開けて見つめていた。
「ほら、手出して」
「え? あ、うん」
木の上から差し出された手を取ると、狂士は夜光の体を難なく引っ張り上げた。
「わっ」
「よっこいせ……っと。ほら、落ちないように掴まってろよ」
「う、うん……わぁ、外にも人がいる」
真っ暗でほとんど何も見えない外の景色を、夜光は嬉しそうに見つめていた。
「昼間だったら、もっとよく見えたのにな」
「ううん、夜でも綺麗……昔、まだ下働きの時、華世ちゃんと、よくここから外を見てたんだ。だからもう一度、ここに来てみたくって」
「華世ちゃんって、友達か?」
「うん、いつも元気で、世話焼きで……とても優しかった」
遠くを見つめて話す夜光の微笑みは、どこかぼんやりとしたようだった。
「……優しかったって、今は?」
夜光の言葉に、狂士は引っ掛かりを感じて尋ねる。
すると、夜光はハッとしたように我に返った。
「もちろん、今も優しいよ! この前も、傷の手当てしてくれて……私、華世ちゃんのこと大好きなんだ」
「そっか、いい友達じゃん」
「……うん!」
子供のような夜光の笑顔を見ていると、狂士も自然と笑みがこぼれた。
その時、こんな状況にはそぐわない、ゾワリと皮膚が泡立つような感覚が背筋に走る。
(この感覚……)
狂士は辺りを見渡すが、霊の類いの姿は無かった。
「……狂士、どうかしたの?」
「い、いやぁ、別に……そろそろ帰ろう。あんまり遅いと、番頭さんに怒られるし」
「う、うん。そうだね」
嫌な気配から逃げるように、狂士は夜光を連れて椿楼に戻った。
いつもなら、その姿を見ることは容易なはず。しかし何故か姿を見せないその異形に、狂士は妙に引っ掛かりを感じていた。
――――椿楼 丑の刻(午前2時ごろ)
寝付けずにいた夜光は、布団から上半身を起こして、窓の外をぼんやり見つめていた。
「眠れないの?」
隣で眠っていた華世は、布団の中から声をかける。
「華世ちゃん……ごめん、起こしちゃって」
「ううん、私も眠れなかったから……ねぇ、今日なんか良いことあった?」
華世は体を横に向けて、意地悪げな笑みで話す。
「べ、別に……なんでもないよ?」
「えー? 嘘。夜光、嘘付くと鼻の穴ちょっと膨らむんだよねぇー」
そう言うと、華世は夜光の小さな鼻をツンと指でつついた。
「もー、華世ちゃんの意地悪」
「あはは! ごめんごめん、面白くって、つい」
「ふふ、あはは」
男女の営みがなされる真夜中の妓楼。
そんな場所とは思えないほど、少女たちの笑い声は明るく、夜の遊廓に響いていた。