三幕《破戒僧と地獄の花魁》⑮
「お、お前……何で」
唐突に現れた夜光に、狂士は驚きと混乱で言葉に詰まっていた。
「ごめんなさい、外出ちゃいけないのに……でも、どうしても心配で」
俯いて話す夜光を見て、狂士は大きなため息を漏らす。
「ご、ごめんね! せっかく、みんなが私のために考えてくれてたのに……」
狂士のため息に慌てるように、夜光は言葉を取り繕った。
「もういいって……おかげで、助かった。ありがとな」
「狂士……ふふ、うん!」
頭を掻き、照れながら話す狂士に、夜光は明るく笑い返した。
しかし、一瞬の和やかなひと時は長くは続かず、緊迫した叫びによって破られる。
「狂士! 夜光殿を守るんじゃ!」
周三郎の叫び声で振り返ると、地獄太夫が宙を舞い、夜光に狙いを定めるように棍棒を振り上げていた。
「くそっ!」
「ひゃ、狂士!?」
狂士は咄嗟に夜光に覆い被さり、身を呈して守ろうとする。
「テン! 夜光さんを守りなさいっ!」
成弥は足を引きずりながら必死にテンに呼び掛ける。
しかし、テンは金的で倒れた一休の下敷きになり気絶してしまっていた。
「やだ! どいてよ狂士! わたしの事はいいから!」
「うるせぇ、黙ってろ!」
夜光は狂士の胸を必死で押し返そうとする。
それでも狂士はその場に止まり、意地でも動こうとしない。そしてついに地獄太夫は狂士たちに迫っていた。
〈ドスン〉
確かに響いた衝撃音。しかし、狂士と夜光の身には何も起きていない。
狂士はゆっくり後ろを振り返ると、そこには何故か倒れる猫又の姿があった。
猫又は小さな白猫の姿に戻り、地面に力なく倒れていた。
まるで自分の行動に驚く様に、地獄太夫は脱力して棍棒を落とす。棍棒はガランと大きな音を立て、跡形もなく消えていった。
「猫又!」
「いや……猫さん、しっかりして」
二人は猫又のもとへ駆け寄り、夜光は優しく猫又を抱き上げる。
猫又は目を閉じたまま動かず、夜光はその体を労るようにゆっくりと撫でていた。
「……!」
その光景を目にした地獄太夫は動きを止めて大きく目を見開く。
夜光の姿はいつかの自分と重なり、両目からは涙が溢れだしていた。
「お主……あの時の」
初めて耳にした地獄太夫の言葉に、狂士はハッと顔を上げる。
そこにいたのは、ボタボタと涙を流し、悲しそうな瞳で猫又を見つめる女の姿。
今まで対峙していた無感情で鬼のような姿とは、明らかに違っていた。
地獄太夫は猫又を抱える夜光のそばで両手をついてしゃがむ。
夜光はそんな彼女の姿に戸惑うが、何かを察したように声をかける。
「……お願い、猫さんを抱いてあげて?」
夜光の真っ直ぐな目と、差し出された猫又の体を戸惑うように見つめ、地獄太夫はおずおずとその両手を伸ばした。
何百年ぶりに抱き上げたその猫の体はほんのりと暖かく、あの時と同じように、徐々に冷たくなっていくようだった。
「猫、猫……お願いじゃ、目を開けてくれ……わたしは、お主になんと酷い事を……」
震える涙声は途切れ途切れに、その場に居る者の心を締め上げるように響く。
溢れ落ちた涙は猫又を濡らし、目元に溜まり、まるで共に泣いているようだった。
そして、その涙に反応するように、猫又はうっすらと目蓋を持ち上げる。
「猫!? すまなかった……わたしは、どうして」
猫又は地獄太夫の顔を見上げると、笑うように目を細めた。
『……なぜ、泣いておる?……ほら、笑っておくれ……あの時のように……』
「お主……」
大きく開かれた目は戸惑いに揺れる。それでも、地獄太夫はぎゅっと口を結ぶと、涙を堪えて懸命に笑ってみせた。
猫又は満足そうに笑うと、体に添えられた地獄太夫の手に頬をすり寄せる。
『ありがとう……あなたと出会えて……わたしは、幸せじゃ……本当に、ありがとう』
振り絞るように言い終え、猫又は再び目を閉じる。
猫又の体は暗闇でぼんやりと光り、綿毛のように夜空に舞い上がり消えていく。
その最後の光が空に消えるまで、誰一人言葉を発さず、そうしなければいけないように猫又の最期を見守っていた。
――――
猫又が消えてから、森の中は驚く程に静まり返っていた。
地獄太夫は猫又を抱いていた格好のまま俯き、未だ微動だにしていない。
「……猫又は、ずっとあんたを探してた」
狂士の声に、地獄太夫は一瞬肩を震わせた。
「妖怪になって、何百年もずっと、名前も知らないあんたの事を……もう死んじまってるってのに、それでも会いたかったんだよ」
「……どうして……そんなにも」
地獄太夫は小さく声を発すると、涙に濡れた瞳で狂士を見上げた。
「さぁ……でも、嬉しかったんじゃねぇの? 最期をあんたに見つけてもらえて」
その言葉に、地獄太夫はまた涙を溢し出す。
「地獄太夫さん……」
夜光は涙する地獄太夫を悲しそうに見つめ、震える肩に手を伸ばそうとする。
その時、ようやく目を覚ました一休は、フラフラとおぼつかない足取りで歩み寄る。
「ふん、あの猫又は消えたのか……地獄太夫、早くそいつらを片付けてしまおうぞ」
「お前……」
事態を理解しようとしない一休の不遜な態度に、狂士は怒りを露に睨み付けた。
しかし一休は気にもせず言葉を続ける。
「どうした? 地獄太夫、わしの声が聞こえぬか?」
一休の声にピタリと動きを止めた地獄太夫は、下を向いたままゆらりと立ち上がる。
「うぅ……狂士、だ、大丈夫かの?」
周三郎は心配そうに狂士を見る。
しかし狂士は表情を変えずに地獄太夫の動向を見守っていた。
「ん? どうした?」
ゆっくりと歩み寄る地獄太夫を、一休は満足げに笑いながら見つめる。
そして次の瞬間、パーンと大きな音が辺りに響く。
「あ!」
「な、なんと!」
周三郎と夜光は突然の事に驚きの声を上げる。
「……乙、星?」
平手打ちで赤く腫れ上がった頬に手を当て、一休は驚いた表情で地獄太夫を見返した。
地獄太夫は悲しみと怒りを滲ませて一休を睨みつけ、静かに口を開く。
「自分のした罪がわからぬか、一休宗純……人に取り憑き姿を変え、関係の無いものを傷つける……それが、僧侶のすることか!」
地獄太夫は次第に声を強くする。
そして、一休は徐々に顔を歪ませて声を荒げる。
「仏の道に反することなど、とうに覚悟の上。それでもわしは、乙星……お前に会いたかった! 死の直前に痛感したのだ、わしにはお前しかおらぬと……ただもう一度愛したいと、そう思うことの何が悪い!」
一休の威勢のいい告白に、狂士と周三郎、それに成弥は気まずそうに目を逸らし、夜光は何故か頬を赤らめていた。
しかし当の地獄太夫は、一休の告白に全く表情を変えていない。
「……阿呆」
「なっ!?」
拍子抜けしたように口を開けた一休の頬を、地獄太夫はもう一度スナップを効かせて力強く叩いた。
「ぶふぅ!」
今度は反対側の頬に平手打ちを食らった一休は、勢い余って地面に倒れ込む。
地獄太夫はそれを見下ろし、一休の体を足で踏みつけた。
「ぐっ……何をするんじゃ乙星!」
「憐れな男……今のお主は、ただ自分の欲望を押さえられない化物……奢り高ぶり、世の中を嘲笑い、自分の信念を貫き通す……わたしが愛していたのは、そんな男。こんな化物ではない」
「乙星……」
その言葉に一休は表情を変え、ゆっくりと体を起こす。
「だが、同じ化物同士……共に地獄に堕ちようぞ」
地獄太夫は目を閉じて念仏を唱え出す。すると、一休の体は青白く光り、半透明の霊魂が抜け出した。
依代の体は力なく倒れ、一休の霊は生前の無精髭でボサボサ頭の姿に戻っていた。
地獄太夫は狂士たちの方を見つめ、そして深く頭を下げた。
「すまなかった……この者はわたしが連れて行く。もう、お前たちの前に現れることはない。本当に……世話をかけてしまった」
そう言うと、地獄太夫は一休の袖を強く引っ張る。
「お主も謝らんか!」
「うぅ……す、すまなかった」
「もっと頭を下げろ!」
地獄太夫は鬼の形相で一休の頭を押さえつけた。
「なぁおっさん、椿楼の人たちは本当に大丈夫なんだろうな? それによっちゃ、許さねぇぜ」
狂士は一休をじっと睨みつける。
一休は頭を押さえられたまま顔だけを見上げ、これまでと違い真剣な表情を向ける。
「……あの者たちなら、そろそろ目覚める。本当に、申し訳ない事をした」
その言葉に偽りはなく、狂士はそれが本心の謝罪のように感じられた。
「では、失礼する……もしも地獄に堕ちたなら、その時は案内して差し上げようぞ」
地獄太夫は哀しみの混じる笑みを浮かべ、一休を引きずるように闇の中へと消えていく。
引きずられながらも何故か幸せそうな笑みを浮かべる一休の姿に、狂士たちは呆れつつホッと胸を撫で下ろしていた。




