三幕《破戒僧と地獄の花魁》⑭
「ね、猫又!? 助かったんじゃな!」
周三郎は嬉しそうに大きな口を開けて、夜空に浮かぶ猫又を見つめる。
「おう……けど、起きて早々面倒な事に巻き込みそうだ」
「ん? 面倒とは?」
歯切れの悪い狂士の視線の先には、未だ倒れたままの地獄太夫の姿があった。
周三郎はようやくその存在に気付いたのか、急にわたわたと慌てふためく。
「だだだ、誰じゃこのお方は!? もしや、わしがぶつかったせいで命を!?」
周三郎は激しく動揺しながら、生死を確認しようと地獄太夫に近づいた。
「おい、やめろ! そいつは地獄太夫だ! 今は話が通じる相手じゃねぇ!」
「な、地獄太夫!?」
狂士たちの声で目を覚ましたのか、地獄太夫は突如飛び上がり、そばにいた周三郎を蹴り飛ばした。
「ぐわぁ!」
「周三郎っ!」
狂士は慌てて駆け寄り、周三郎の体を支える。
「ぐっ……いってぇ〜……」
周三郎は脇腹に手を当てて痛がってはいたが、怪我はしていないようで、狂士はひとまずホッと息をつく。
一方、目を覚ました地獄太夫は何故か動きを止め、静かに夜空を見上げていた。
「もしかして……猫又の事がわかるのか?」
猫又は紙風船のようにゆっくりと舞いながら、地獄太夫の前に降り立つ。
地上に降りた頃にはいつもの白猫の姿に戻っていた猫又は、ゆっくりと顔を上げ、目の前の地獄太夫を見つめた。
『……』
二本の尾をピンと立て、時が止まったように固まる猫又。その表情は次第に涙に歪んでいく。
地獄太夫は無表情のままだが、その反応はこれまでと違い、ただじっと猫又を見つめていた。
『最期、あなたに拾われた時から……どうしても、もう一度会いたかった……あの時、ありがとうと言えなかったから』
溢れる涙と絞り出すような猫又の声に、地獄太夫の体は一瞬ピクリと跳ねる。
そして、今まで一言も発さなかった口元が震えるように動き出した。
「……ね……こ」
戸惑いの混じる小さな声。まるで自分の声に驚いたように、地獄太夫は目を見開く。
その頭の中には、数百年前の記憶が甦っていた。
――――
秋の空、干からびた土の上を歩く、今にも死にそうな痩せ細った白い猫。昼間たまたま外を眺めていたら目について、気まぐれで拾い上げただけ。
目元は爛れ、体には小さな虫が飛び回っていた。それしきの事、共に布団に入ることには抵抗はない。
今、この子を一人にしたくない。何となく、そんな思いに駆られたんだ。
「お主……よう頑張ったのう」
床に入り猫の背を撫でていると、勝手にそんな言葉がついて出た。
わたしも、こんな風に誰かに見守られて死ねるんだろうか……
不意に沸き上がった自分でも驚くほど甘い考えに、わたしは思わず自嘲するように笑った。
あの時、山賊に襲われた時に悟ったではないか。全ては決まっていた運命。突然日常が奪われてしまったのも、きっとわたしの前世の行いのせい。
そう割りきって、ここまで生きてきた。誰に看取られずとも、死ぬ時は一人きりで野を彷徨い、動物たちに腹を満たしてもらえば良い。
こうして悟りを得られたのも、あの破戒僧、一休と出会えたお陰かげか。
こんなこと、気恥ずかしくて面と向かっては言えぬがのぉ。
「? どうした?」
ふと、猫が何か言いたげに必死に目を開けて見つめていた。
でも声が出ないのだろう、ただ口をパクパクとしているだけだった。
「ふ……もう良い。そばにおるから、安心せい」
その後しばらくして、猫は冷たく、動かなくなった。
何の思い入れもない、突然現れただけの猫との僅かな時間。なのにその日の出来事は、何故かわたしの心にぽっかりと薄ら寒い穴を開けていた。
――――
「うぅ……うあぁ」
立ち尽くしていた地獄太夫は、突如頭を抱えて呻き声を上げる。
「う……ど、どうしたのじゃ、地獄太夫は」
周三郎は痛みに耐えながら、苦しむ地獄太夫の様子に戸惑っていた。
「たぶん……猫又のことを思い出してるんだ」
「猫又を? し、しかし、相当苦しんでいるようじゃが……」
地獄太夫はうずくまり、激しく頭を掻きむしる。ほとんど叫び声のような、異常な声を上げていた。
状況を見守る狂士も、その様子に不安を滲ませる。
そして、それは猫又も同様だった。
『……ど、どうしたのじゃ……しっかりしてくれ、地獄太夫!』
猫又の呼び掛けに益々乱れていく地獄太夫は、再び暴れだし手当たり次第に棍棒を振り回す。
「うあああー!」
『や、やめろ、やめるんじゃ! 落ち着いてくれ!』
攻撃を避けながら、猫又は呼び掛け続ける。
しかしついに、猫又は何かを決意したような表情で、再び大きな化け猫に姿を変える。
そして棍棒を大きな口で咥えて受け止め、そのまま地獄太夫の動きを止めた。
「乙星! 早く逃げるのだ!」
一休は叫びながら、地獄太夫の元へと走る。
「成弥っ、一休が!」
狂士は慌てて成弥を呼ぶ。しかし成弥は狐の姿のまま、荒い息を繰り返していた。
「す、すみませんっ……さっきの狐火で、力が……」
動けない成弥と周三郎、そして狂士自身も、地獄太夫との対峙でほとんど動ける力が残っていない。
それでも一休を止めるため、狂士は走り出していた。
狂士は息を切らして走り、迫る一休の前に立ちはだかる。
一休は走りながら飛び上がり、蹴りを繰り出そうと狂士の首もと目掛けて足を振り回す。
「どけっ、小僧!」
「どくわけねぇだろ、くそじじぃ!」
一休の気迫に狂士は体をこわばらせるが、猫又たちの前から逃げず、覚悟してその場にとどまる。
その瞬間、何故かその場に聞こえるはずのない声が響き渡った。
「テンちゃん!」
声と同時に、一休の股間目掛けて小さな狐が物凄い速さでぶつかる。
一休は空中でバランスを崩してドスンと地に落ちると、うずくまって声もなく小刻みに震えていた。
いったい何が起きたのかわからずに呆気に取られていた狂士のもとに、パタパタと駆ける足音がする。
狂士はその姿を見てハッと目を見開いた。
「や、夜光!?」
「へ、へへ……ごめん、来ちゃった」
夜光は後ろに手を組み、恥ずかしそうに体を揺らし、困ったように笑っていた。




