一幕《化け猫》②
明け方、町中では昨夜の吉原の騒ぎの噂が早速広まりつつあった。
「おい、聞いたか? 隣町の喜兵衛、昨晩吉原でえらい目にあったらしいぞ」
「あぁ、あの好き者で有名な。で、今度はいったい何をやらかしたんだ?」
「なんでも、お楽しみの最中、急に身体中から血が吹き出して、妓楼の廊下を奇声をあげて暴れまわったらしいぜ」
「げっ、そりゃあひでぇ……しっかし嘘くせぇ話だが、本当なのか?」
「本当だって、昨日吉原に行ってたヤツに聞いたんだから」
「怪しいもんだな……けどなんか、前にも似たような話を誰かに聞いたような……」
男達の噂話には多少の尾ひれが付いてはいたが、人々の娯楽にはそれくらいが都合が良いようだ。
その奇妙な噂は人を伝い、瞬く間に広まっていく。
《吉原の呪われた遊女》それが夜光の二つ名となり、以降、妓楼の客足は目に見えて減っていくのだった。
――――
朝日が昇る頃、差し込む日差しに周三郎はパッと目を覚ました。
勢い良く飛び起き、布団を乱暴に畳んだ周三郎は、隣で大の字で眠る狂士を困った顔で見下ろす。
「まだ寝とる……おい、狂士! 朝だ、起きるぞ!」
肩を揺さぶり、大声を出すが、狂士は未だ大きなイビキをかいたままだ。
「ふむ、困った……」
胡座をかき、腕を組む周三郎の目の前に、ふと絵筆が1本転がっていた。
絵筆を手に取り、怪しい笑いを浮かべる周三郎は、その筆で狂士の鼻の穴をくすぐる。
「……ふ、ふぁっ、ぶぇっくしょい!」
強烈なクシャミで狂士はようやく目を覚まし、むくりと体を起こした。
「やっと起きたか。さ、顔を洗って朝飯にするぞ」
狂士はボケッとした顔で、キョロキョロと部屋を見回す。
「……ここ、どこだっけ」
「はぁ、もう忘れたのか? ここは江戸。このわし、河鍋周三郎の家だ!」
呆れた周三郎は、自信満々に名乗りを上げた。
それでようやく思い出した狂士は、どんどん不満気な表情になり頭を抱える。
「あぁー、そうだ江戸だ……はぁ」
「全く、ため息なぞ吐いて……それより朝飯だ! 今日はめざしの匂いがする。さ、早う行くぞ」
「……元気なヤツ」
狂士はのっそりと布団から出て着崩れた着物を直すのだった。
狂士は昨夜、母のトヨから河鍋家のことや江戸の町のことについて、簡単に説明を受けた。
周三郎の家、河鍋家は幕府の火消組に仕える屋敷で、比較的裕福な家庭だということだ。
絵の才能があった周三郎は、幼い頃から日本画や浮世絵を学び、今は幕府のお抱え画家の塾に通っているらしい。
狂士はトヨにも、自身の事情を簡単に説明した。
だが、その経緯を聞いたトヨは、半信半疑で怪しんでいるようだった。
タイムスリップなど、現実味の無い話では無理もない。
それでもトヨは、身寄りの無い狂士を可哀想に思い、しばらくこの家に置くことを許すのだった。
ただし、それには一つ条件があったようだ。
「ふぃごふぉ(仕事)、でふか?」
めざしを口に入れたまま、狂士は面倒くさそうに聞き返した。
「えぇ、そうよ。残念ながら、ウチにはただで面倒を見るほどの余裕はないの。だからせめて、どこか働き口を見つけてもらわないとね」
トヨは表情を変えず、スラスラと話す。
「えぇー……でも、どうやって」
「周三郎。今日は狂士さんに町を案内して、一緒に仕事を探して差し上げなさい」
急に話を振られ、米をかき込んでいた周三郎はグッと喉を詰まらせた。
「むぐっ……でも、わしは洞和先生のところに行かなくては……」
「あなたが、拾ってきたんですよね?」
「うぅっ……はい」
静かに問いただすトヨの迫力に負けて、周三郎はぶるぶると震えながら頷いた。
狂士はその様子をまるで他人事のように眺めながら、ばくばくと米を頬張る。
トヨはそんな狂士を見逃さず、ジロリと睨みつけ言い放つ。
「狂士さん? 仕事が決まらなければ、ここには置いておけませんからね?」
「は、はい……」
にっこり微笑むトヨの目は、全く笑っていなかった。
――――
「仕事ったってなー。俺バイトもしたことねぇし」
周三郎に連れられ、狂士は江戸の町をふらふらと歩く。
町は朝から賑わいを見せて、あちらこちらで商人たちの活気のある声が聞こえていた。
「ばいと? また良くわからぬ言葉を使うなぁ……とりあえず、目についた店に声をかけてみよう。あ、あそこの茶屋なんかどうだ?」
周三郎は茶屋ののぼりを見つけると、興奮気味に走り出した。
「お、おい! 待てって」
「ごめんください! 団子を二つ!」
「はいよー」
周三郎は茶屋に入るなり、迷うことなく団子を注文する。
「……あのさ、目的が違くねぇか?」
「はっ、ついいつもの癖で……」
狂士は向かいの席に腰を下ろし、呆れたように頬杖を付いた。
「お待ち、いつもの醤油団子二つね!」
ドンと机に置かれた団子からは、香ばしい醤油の匂いがふわっと立ち込める。
「おぉー、来た来た! 狂士、熱いうちに食べよう!」
(こいつ、常連かよ……はぁ、まいっか)
「……うまっ!」
「だろ? ここの醤油団子、ちょっと甘口で美味いんだー。あ、狂士がここで働けば、友人特権で格安で食べれるかもしれんぞ?」
「そんなわけねぇだろ。もっと真面目に探せよな」
客足が落ち着いたからか、茶屋の店主が狂士らの話に加わる。
「なんだ、あんた仕事探しかい?」
「え? あぁ、まぁ」
曖昧に答えると、店主は狂士の姿を上から下まで品定めするように見ていく。
「な、なんですか?」
「……変な髪に、目付きの悪い人相……ふむ、これは打ってつけかもしれんのぉ。お客さん、腕は立つ方かい?」
「う、腕?」
「むぐ、強いかどうかってことだ」
周三郎は団子を頬張りながら、適当に相づちを打つ。
「あぁ、まぁ喧嘩は得意だけど」
「そりゃあいい! いやね、最近遊廓の方で騒ぎが続いてるってもんで、腕の立つ妓夫を探してるって、常連の番頭さんが困ってんだよ。あんた、仕事探してんなら、頼まれてくれないかい?」
「ぎゅう? 何だそれ」
聞いたことの無い単語に、チラリと周三郎の方を見る。
「たぶん、遊廓の雑用とか、面倒な客をこらしめる仕事だな。あっはは! すぐに手が出る狂士にぴったしだ」
説明し終えると、周三郎は腹を抱えて笑いだした。
「む、なんかバカにされてるみてぇだけど……ま、それなら出来そうだ!」
「そりゃ有難い! 早速伝えとくよ、どうせ今日も来るだろうからな。明日、遊廓に行ってみな? 俺の名前を出せばわかるから」
「はい、とりあえず行ってみます」
「良かったな、狂士!」
「はぁ、まぁな」
茶屋の店主から妓楼の場所を聞いた狂士は、無事仕事が決まったことにホッと胸を撫で下ろした。
(ふぅ……これでなんとか、追い出されずに済むか。江戸時代に一人放り出されちゃ、流石に生きてけねぇしな……)
トヨの静かな迫力のある声と、全く笑っていなかった目を思い出し、心底良かったと思う狂士だった。