おまけ《宴と別れ》
ある意味白熱した墨合戦が終わり、狂士たちは洞和に連れられ、画塾の生徒たちと湯屋を訪れた。
現代の銭湯とは違い、大きな湯船は無く、洗い場と大きな樽のような湯船がいくつかある程度。
まだ日中だったからか他に客はおらず、ほとんど貸しきりのような状態に、生徒たちも賑やかに騒いでいた。
玉太郎と成弥も人の姿ですっかり周囲に溶け込み、呑気に湯船に浸かる。
「はぁー……久しぶりに来ましたが、賑やかなお風呂もいいものですねぇ」
長い髪を上げて手拭いを巻き付け、成弥は極楽と言った様子だ。
傍で体を洗っていた洞和は、ザバっと頭から湯を被り犬のようにフルフルと頭を揺らし一息つく。
そして、同じ男と思えぬ程肌の白い成弥の姿をまじまじと観察する。
「……あんた、えらい綺麗な体してんなぁ。まるで、人間じゃねぇみたいな」
洞和の鋭い指摘に成弥はギクリと顔をひきつらせる。
「え、えーっと……」
困惑していると、真っ裸で近づいて来た狂士が冷静に話に割って入った。
「妖怪だよ」
「へぇー、そうか妖怪か……妖怪!?」
洞和は一呼吸置いて大袈裟に両手を上げて驚いた。
「あ、あはは、どうも」
目を丸くしている洞和の前で、成弥は恥ずかしそうにモジモジと笑っていた。
「はぁーー、信じられねぇな。けど、あの跳躍力、人間とは思えねぇし……世の中不思議なこともあるもんだ」
洞和は感心したような感嘆のため息をもらすも、難なく妖怪の存在に納得したようだ。
「悪い、騙すつもりは無かったんだけど」
謝る狂士に、洞和は清々しい笑顔を見せる。
「いいって事よ! 生きてるうちに妖怪さんにお目にかかれるなんて、絵師冥利に尽きるわ。あ、もしかしてあの狸もそうなのか?」
そう言うと、洞和は玉太郎に目線を移した。
「見て見てぇー、クラゲー!」
「ぬほほほ! スゴいぞ玉太郎! 見事じゃー」
「ははは! いいぞぉ、もっとやれぇ!」
隣の湯船での異常な盛り上がり。狂士と成弥は冷ややかな目でそれを凝視する。
玉太郎は湯の中で逆さになり、大きな玉袋を浮きのように膨らましてプカプカと浮かんでいた。その様はまるで海を漂うクラゲそのもの。
人間には不可能な芸当に気付いているのかいないのか、周三郎と生徒たちは大喜びで拍手を送っていた。
「まぁ、見ての通り」
「同族の恥さらしです」
狂士と成弥の態度に何かを察したように、洞和はそれ以上は何も突っ込まなかった。
「あ、あぁ……ま、なんだ、おもしれぇヤツだな」
――――湯屋の後、とある鍋料理の店
賑やかな湯屋を後にし、生徒たちの希望である鍋料理を食べに、ある煮売り屋(飲食店)を訪れた。
それは今にも潰れそうな店構えで、時折吹く北風にガタガタと軋むような音を立てている。
〈鍋、酒あります〉
傾いた看板には、店名なのか何なのかわからない言葉だけ書かれていた。
「鍋……酒……なんとわかりやすい。先生、ここで良いのですか?」
周三郎に聞かれ、呆然と店を見上げていた洞和はハッと我に返った。
「お、おう! なんか空いてるし、安そうだしな! さ、入ろうぜ」
皆は不安な表情を浮かべながらも、後に続き謎の店へと入っていく。
店内には老夫婦が二人、活気の無い「いらっしゃいませ」の声が妙に不安を煽る。
5、6人の席に別れて座り、狂士と周三郎は洞和と同じ席についた。
「すみません。年寄り二人だけなもので、お時間がかかると思いますけど」
「いやいや、構いません。こちらこそ、大勢で押し掛けちゃって」
老婆は穏やかにペコリと頭を下げ、調理場へ戻っていく。
「大丈夫か? 20人前の鍋なんて、突然頼んで」
「だな……ちょっと悪いことしたなぁ」
狂士と洞和は老婆を気にかけ、心配そうに調理場を覗いた。
「ん? あのお婆さんなら大丈夫だと思うが?」
周三郎は茶をすすり何食わぬ顔で言う。
「え?」
間抜けな声で聞き返した瞬間、調理場から凄まじい気迫の叫び声が響く。
〈ちょあーーーーー! うおりゃーーーー!〉
「な、何ぃ??」
バキバキと何かをへし折るような音と、老婆の声と思われる声。
狂士が驚いていると、周三郎が話を続ける。
「着物で隠れてはいたが、上腕の筋肉が異常に発達しておったからなー。20人前くらい軽く用意できるはずじゃ」
すらすらと解説する周三郎に、狂士は驚き顔をひきつらせる。
「おぉー、さすが画鬼。見事な観察力」
「いや……どんな婆さんだよ」
呆れていると、奥から老婆が清々しい顔で出てくる。
その姿に、狂士たちは再び言葉を失った。
「「えーーーー!?」」
老婆は左右の腕で小鍋を10個は持ち上げ、満面の笑みで近づいてくる。
捲り上げた袖からは血管が浮き出るほどの隆々とした筋肉がむき出し、圧倒的強者感を醸し出していた。
「お待たせしてすみませんねぇ。うちの自慢の気まぐれ鍋です。あら、いけない……手が塞がって、どうやって置こうかしら」
老婆は両手に持った鍋を交互に見て、大して困ってなさそうに声をあげる。
「……あ、手伝うよ」
しばらく呆然と口を開けていた狂士だが、配膳を手伝おうと立ち上がる。しかしその時、突如奥から一人の老人が現れた。
「おいおいおい! 何やってんだお前は! お客さんに手伝わせてんじゃねぇぞ!」
つるりと光る頭部に、長く延びた髭をひとつに結んだその老人。おそらくこの店の主人は活気よく声を張り上げる。
そしてこの老人も同様に、異常な筋肉を見せつけていた。
「はぁ、文句ばかり言ってないで、はなから手伝えばいいだろう? ほら、お客さんがお待ちだよ、早く手伝いな」
「はん! しょーがねぇなー!」
口喧嘩をしながら、老夫婦はあっという間に料理を並べていく。
「こ、これは……」
目の前に置かれた鍋には、真っ赤な体に大きなハサミを持つアレが中央に陣取っていた。
「今朝捕れたカニですよ! うちはその日に捕れたものを鍋にするのが売りなんです。では、ごゆっくり召し上がれ」
一仕事終え、老夫婦は調理場に戻っていった。
「カニ」
「カニじゃ」
「蟹、だな」
それぞれが呟き、狂士たちはしばらく湯気の中の蟹を凝視する。
そして静かに手を合わせ、黙々と蟹の足をむさぼった。蟹を食べる時、人は皆無言になる。それは江戸時代から変わらないらしい。
「ふぅーー、満腹だ」
カニ鍋を食べつくし、狂士はポンと腹を叩いた。
「うむ、実に美味かった! 先生、今日はご馳走になってありがとうございます」
「おう、気にすんなって。しかし、意外といい店だったなー」
洞和は片膝を立てて酒を呑み、ご機嫌な様子だ。しかし、周三郎は彼の器を見て心配そうな顔を見せる。
「先生、あまり食べていないようだが……」
洞和の器にはカニの殻が2本入っているだけで、他に何かを食べた形跡も無かった。
「あ? あぁ、呑む時はあんま食えないんだよ。それより画鬼、今日は楽しかったか?」
「え……はい、こんなに楽しいのは初めてです」
突然の問いかけに、周三郎はキョトンとした顔で答える。
「へへっ、そうかい。そりゃあ、良かったな」
洞和は満足そうな笑みで、周三郎の頭をくしゃくしゃに撫で回した。
「わわ、先生! は、恥ずかしいです!」
皆の前で子供のように撫でられ、周三郎は恥ずかしそうに狼狽える。
そんな姿を、洞和は笑い声を上げながら、愛おしそうにいつまでも撫で続けていた。
「はは! なんか、親子って感じだな」
「先生! そんなに撫でたら、周三郎の頭が禿げてしまいますよー」
「ははは、それは愉快だ!」
狂士と他の生徒たちは、そんな二人の様子を微笑ましく眺めるのだった。
――――
前村洞和、享年32歳
幼い頃から病弱だった彼は、病により若くしてこの世を去る。
彼の最後の表情は、生前と変わらぬ軽薄な笑顔だった。
画塾を離れ床に伏せてからは、ある一人の生徒が毎日見舞いに訪れていた。
それはほんの数日の間だったが、彼はいつも笑顔でその生徒が来るのを心待ちにしていたそうだ。
「……画鬼……お前は将来、唯一無二の、絵師となる……己の目と頭で物事を捉え、信念と理想を描き続けろ……」
「せんせぇ……」
「お前はもう、ひとりじゃない……大切な友の存在、それが、お前の人生を豊かにする……何物にも変えられない、大切な宝なんだよ」
「……はい……はい」
「画鬼、世間の意思に流されない……反骨の精神を、忘れるな」
布団に横になる洞和の傍で正座した生徒は、口元をぎゅっと結び、声を出さずに何度も頷いた。
彼の膝に置かれた震える拳に、洞和はゆっくりと手を伸ばす。
ヒンヤリと冷たくなったその手には、まるで雨漏りのように、ポタポタと涙が滴っていた。




