一幕《化け猫》①
秋。
木々は鮮やかに赤く色付き、乾いた風にススキが揺れる。
骨が浮き出るほど痩せ細った一匹の猫は、当てもなく、ふらふらとある遊廓に迷い込んだ。
茂みの近くで力尽き、動けなくなっていた猫を、一人の遊女が拾い上げる。
「お主、よう頑張ったのぉ」
抱えた猫の背中を優しく撫で、遊女は自分の寝床へ連れて行った。
共に寝床へ潜り、その猫の最後の一瞬まで、遊女は静かに、優しくその体を撫で続ける。
息を引き取るその直前、うっすらと開けた目に写ったのは、美しく微笑む女の姿だった。
――――
「駄目です。拾った場所に返してらっしゃい」
「えぇ!? 何で? ちゃんと面倒見るからー。いいでしょ? 母上ー」
まるで捨て猫でも拾ってきたみたいな親子のやり取りを、狂士はジトっとした目で見つめていた。
「あのー、別に面倒見てもらわなくていいんすけど……ここって、何処なんですか? 住所だけ教えてくれれば」
「……あなた、江戸も知らないの?」
「は? え、江戸? あ、あぁ! もしかして、時代劇の撮影所?」
「……さつ、えいじょ? 一体何の事だい?」
母親は首を傾げ、訝しげに狂士を見る。
見かねた周三郎は、そんな二人の間にすかさず割って入った。
「は、母上! 狂士は海で溺れてて、まだ混乱してるんだ! せめて今日だけは家に泊めてあげてよー」
周三郎の必死の訴えで、母親は諦めたようにため息を吐いた。
「はぁ、わかりました……ずいぶん汚れているようだし、とりあえず二人とも、風呂に入ってきなさい」
「ありがとう、母上! さ、狂士、風呂はこっちだ」
「あ、ああ……」
狂士は考えがまとまらない中、周三郎に背中を押されながら歩く。
(江戸……江戸ってまさか、本当に? でも、騙しているような雰囲気じゃなかった……)
考え込んでいると、下の方でガチャガチャと音が聞こえる。
「なぁ、狂士ー。この袴、どーやって脱ぐんだ?」
下を向くと、周三郎が熱心にズボンのベルトをいじくり回していた。
「おい」
「ん?」
周三郎が見上げると、強烈な肘鉄が降ってくる。
「いっでー!」
「気色悪いことしてんじゃねー」
周三郎は頭頂部に大きなたんこぶを作ったまま、膨れっ面で湯船に浸かる。
「狂士はすぐに手が出るな」
体を洗う狂士を、周三郎は恨めしそうな顔で睨んでいた。
「……お前がおかしな事ばっかするからだ」
仕上げにお湯を頭から被り湯船に入った狂士は、周三郎の体を見てぎょっとした。
何故なら、近くで見る周三郎の体には幾つもの傷が付いていて、前髪で隠れていた目元にもアザのようなモノがあったからだ。
「お前、その傷……」
「あぁ、これか? この前、狸を追いかけて藪に入ったときに引っ掻いたんだー」
「なんだ……ってどんな状況だよそれ」
狂士は呆れつつも、予想していた理由とは違ってホッとしていた。
「はは、ワシは絵を描くのが好きだからな! 生き物を見つけたら、とりあえず後を付けることにしてるんだ」
「いや何でだよ」
「観察だ! 生き物の形、動き、毛の質感……あらゆるモノを観察しまくる。それが出来んと、生きた絵は描けないからな」
ざばっと湯船から立ち上がり、拳を握った周三郎は、生き生きとした表情で語った。
「観察ねぇ……なんか、いいな。楽しそうで」
そう言うと、狂士はバシャバシャと顔にお湯をかける。
周三郎はその様子を静かに見つめ、再び湯船に浸った。
「……狂士は、どこから来たんだ? 異国の者かと思ったが、言葉は通じとるし」
「俺は……東京の海に落とされ、死んだはず、だった。けど、目が覚めたら……」
何と説明するべきかわからないまま、狂士は覚えていることを話した。
「とうきょう? 聞いたことがない」
周三郎は腕を組み考え込んでしまう。
「東京は、遠い、将来の江戸の場所? って感じかな。うーん、何て言えばいいかわかんね」
今度は狂士の方が考え込んでしまった。
「それは……江戸の後の世、ということか!? なんて摩訶不思議な」
「だいぶ先の後の世、だけどな。ほんと、俺の方が訳わかんねぇよ……」
風呂から上がると、着ていた服は無くなり、代わりに格子柄の着物が置かれていた。
「これ、俺の?」
「きっと母上が置いてくれたんだな。狂士の着物は汚れていたから、今ごろ洗ってくれてると思うぞ」
「なんか悪いな。ところでコレ、どうやって着るんだ?」
狂士が着物を広げて難しい顔をしていると、周三郎は得意気な顔でニヤリと笑う。
「ワシに任せろ! 見事に着付けてやるぞー」
周三郎はウキウキとした表情で、手際良くふんどしを巻き付けだす。
「ちょ、お前、いてぇって! もっと、やんわりしろ!」
「ん? これでもゆったりしとる方だが? ほれ、腕を広げろ」
狂士はすっかり周三郎のペースに巻き込まれていた。
何故かはわからないが、江戸時代にタイムスリップしてしまった事実。
これからの事を思うと、漠然とした不安が無いわけではなかったが、その日は疲れていたのか、狂士は周三郎と共に早々に眠りについてしまっていた。
――――数日前 吉原遊郭 とある妓楼
「夜光、グズグズせんと、早うこっちに来んか」
「……はい」
「全く、無愛想な女子よ。ほら、来い!」
「痛いっ、お止めください……」
卑しく笑う男は、遊女の腕を強く引き、乱暴に押し倒す。
しかしその瞬間、遊女の頬にポタポタと生暖かい雫が落ちた。
「ひっ」
「あ? な、なんじゃこれは!? 体に勝手に……!」
男の身体中には、あっという間に引っ掻き傷のようなものが無数に現れ、ボタボタと血が滴り落ちていた。
「い、痛い、痛い痛い痛い! うわぁぁぁ!」
男は裸のままバタバタと走り部屋から出ていく。妓楼からは悲鳴が聞こえだし、瞬く間に騒ぎは大きくなった。
「また、同じ……」
部屋に一人残された遊女《夜光》は、窓の外をぼんやりと見つめ呟いていた。