二幕《狐と狸の馬鹿試合》⑪
――ショリショリショリ……
午後の静かな教室では、何かをひたすらに擦る音だけが響いていた。
画塾の生徒たちは嫌そうな顔をしながら、一言も発さずに黙々と墨をすり続ける。そう、2日後に行われる墨合戦に向けて。
「どうだー? いっぱいすれたかー?」
無言の教室に、洞和はいつもの呑気な様子で入ってきた。
それに対し、一人の生徒がプルプルと体を震わせ、ついにその怒りが爆発する。
「先生! いくらなんでも、桶30杯分の墨なんて馬鹿げてます! 墨汁でも用意すればいいでしょ!?」
ボケッとした表情の洞和は、生徒の文句を全く気にしていない様子で言い返す。
「だって、墨汁もったいないしよー。多少薄くてもいいからさ、もうちっと頑張ってくれや」
洞和がにっこり微笑むと、生徒はバンと机を叩き立ち上がる。
「こんなこと、やってられません!」
出ていこうとする生徒に、洞和はニヤリと笑い小声で耳打つ。
「……破門?」
生徒はピタリと体を止め、不機嫌そうに早歩きで席に戻っていった。
「もう! 次は墨代ケチらないでくださいよ?」
「はは! 心配すんな、もうこれっきりだ」
豪快に笑う洞和の事を、周三郎はじっと見つめ、墨をする手を止めて俯いた。
そしてなぜか、少し昔の事を思い返すのだった。
――――数年前
父の薦めで入門した洞和の画塾。
初めは絵の勉強が出来ると喜んでいた周三郎だが、彼はそこで浮いた存在として扱われることになる。
周三郎は幼少期から、不気味でこの世のものとは思えぬモノに大変興味を示していた。
勘違いとは言え生首を持ち帰ったり、刑場に出向き、人間の断末魔や苦悶の表情、それを観察することもあったという。
周三郎からすれば、それは単なる純粋な好奇心。しかしそれは周囲から見れば異端で、さぞ気味が悪く見えたのであろう。
画塾でもそんな噂はすぐに広まり、他の生徒は彼を疎外するようになった。
「おい。あいつ、昨日も刑場にウキウキと出掛けてたらしいぞ。処刑の様を観察するなんて、頭のネジが2、3本飛んでるんじゃないのか?」
「はは、言えてる。死体好きの変人だな」
生徒たちは周三郎がいる教室でも、聞こえるような陰口を日々話してた。
そして次第に、それだけでは収まらなくなる。
ある日の帰り道、周三郎の目の前に、蛙の死骸が投げつけられた。
「お前好きだろ? こういうの」
顔を上げると、数人の生徒がヘラヘラと笑いながら次々と死骸を投げつける。
周三郎はムッとし、生徒たちを睨んで言い返す。
「この蛙たち……頭を潰されとる。こんな事のためにわざわざ殺したのか?」
「はは、何を怒ってるんだ? 死体好きのお前のために用意したのに。なぁ?」
生徒は悪びれるようすもなく、顔を見合わせて笑っていた。
周三郎はその姿に怒りを露にし、夢中で一人の生徒に掴み掛かった。
「命を粗末にする者に、絵師になる資格などない! それどころか、人間失格――今すぐ地獄に落ちてしまえ!」
勢いよく掴み掛かったところで多勢に無勢。喧嘩もろくにしたことがない周三郎に勝ち目などなかった。
「くそっ……変人が偉そうな事を言いやがって。おい、もう行こうぜ」
顔や身体中を傷やアザまみれにし、土の上に倒れた周三郎は、悔しさの滲む顔で地面に転がる動かない蛙たち見つめていた。
悪意ある人の手で奪われた小さな命。
それは僅かだが自分にも原因がある。そう考えると、周三郎は胸が締め付けられる思いだった。
ふらつきながら立ち上がり、周三郎は着物の袖で目元を拭う。
そして蛙の死骸を一つずつ丁寧に拾い集めた。
しばらくして、画材道具の買いに出ていた洞和は、道中に地面にしゃがみ込む周三郎を見かける。
「なんだ? 土いじりなんかして」
近づいていくと、こんもりと盛られた土の山がいくつか出来上がっているのが見える。
「おい、何してんだ周三郎……砂遊びか?」
背後から声をかけられ、ビクリと肩を揺らした周三郎は、アザまみれの顔でゆっくりと振り返った。
「お前っ、その顔」
洞和はギョっとし、痛々しいアザや傷に思わず顔をしかめる。
そして、泣くまいと必死に堪えているような周三郎を見て、はぁっと短く息を吐いた。
「……何があったか、話してみろ」
周三郎は隣に座り込んだ洞和に、事の顛末を説明した。
「わしは、確かに不気味なものが好きだ……鬼や妖怪、刑場に行ったのも事実じゃ。それは、未知のものに、無性に興味をそそられるからで。生き物を無闇に傷つけてまで見たいと思うた事はない。でも、わしのせいで、蛙たちは意味もなく殺されてしまって」
周三郎は震えた声で話し、チラリと土の山を見る。
それは彼が作った、蛙たちの墓だった。
洞和はそんな彼に、ただ静かに耳を傾けていた。
「先生、わしは変人なのでしょうか」
俯いたまま、周三郎は最後にポツリと呟いた。
「ん? あぁ、変だぞ」
「えぇ!?」
まるで考える様子もなくさらりと言う洞和に、さすがの周三郎も驚きの声を上げる。
「そ、そんなすぐに言わなくても良いのでは!?」
「えー? だってよ、刑場に死体を見に行くなんて、そんなやついねえって」
抗議する周三郎を、洞和は豪快に笑い飛ばした。
そして、シュンと俯いてしまった周三郎に、変わらぬ笑顔で語りかける。
「世の中な、変じゃないヤツなんていないんだよ」
「え?」
「誰しも、自分だけの拘りや譲れないもんが一つや二つあるもんだ。ほんで、お前のその変わった趣向は、全ては絵を描くために繋がってるんだろ?」
洞和の問いかけにしばし考えを巡らせ、周三郎は静かに頷いた。
その様子に、洞和は不適な笑みを浮かべる。
「はは、まさに絵の鬼――画鬼ってとこだな!」
「……画鬼?」
「おう! いいじゃねぇか。変人上等! 生き物の生に対する純粋な興味、何も恥じることなどない」
そう言って、洞和はポンと周三郎の頭に手を乗せる。
初めて人に自分の存在を受け入れられたような、そんな思いを、周三郎は感じていた。
その後、洞和が叱責したのか、あの時のような仕打ちは減った。
それでも、疎外される環境は変わらず、時々石を投げられたりすることはあった。
悩むことはあったが、洞和が自分を理解して受け入れてくれたことが、周三郎の支えになっていたのだった。
――――
障子窓の隙間から吹き込む冷たい風で、周三郎はふと我に返った。
最近の洞和の様子を見ていると、なぜかよく思い出を振り返ってしまう。
(以前より少し、肌の色が白い……けど、いつも通りの先生じゃ。なのに、どうしてこんなに心細くなるのだろうか)
周三郎は笑う洞和を見つめ、力無く墨をすっていた。




