二幕《狐と狸の馬鹿試合》⑧
その日、夜中から続いた雨は明け方には上がり、暖かい日差しに照らされ、雨に濡れた神社の屋根がキラキラと輝いていた。
湿気った土や草木の匂いが鼻をくすぐり、庭の掃き掃除をしていた狂士は大きなくしゃみを爆発させる。
「ぶぇ、ぶぇっ……くしょーーん!!」
山の麓の閑静な神社に響き渡るくしゃみに、木々は揺れ、小鳥たちはバサバサと飛び立っていった。
「だ、大丈夫ですか?」
屋根の雨漏りを直していた成弥は、あまりの大声に顔をのぞかせる。
「うー、悪い。ムズムズしてつい……鼻弱いんだよなー」
狂士は勢い良く鼻をすすりながら答える。
「うーん……あ、台所に手拭いがありますよ。お辛いなら、それを巻いてはどうですか?」
「いや、そこまでは大丈夫だよ。てゆーかお前、そんなとこで立ち上がって大丈夫か?」
「え?」
成弥は屋根の斜面に直立で立ち上がっていた。どうやら無意識だったようで、狂士に指摘されて不思議そうに足元を見る。
「わわ、はわわわっ、いやぁぁー……」
気づいた瞬間、成弥の足はぶるぶると震え、悲しい叫び声と共に彼は屋根の奥に消えていった。
〈――ドンッ!〉
「……落ちたか。ま、成弥の事だし大丈夫だな」
狂士は特に心配する様子もなく、庭掃きを続けるのだった。
そんな時、バタバタと慌ただしく石段を駆け上がる足音が聞こえてくる。
参拝者にしては騒がしいその足音を不審に思い、狂士は訝しげに石段の方を見る。
すると、見慣れた顔が姿を現した。
「狂士ー! 遊びに来たぞー!」
大手を振りながら駆けてくる姿に、狂士は呆れた声を出す。
「なんだよ、お前かよ……って、今日は画塾は休みか?」
「なんだとは失礼な。せっかく遊びに来たのに! なぁ、それより今日の昼飯はなんだ? やっぱり秋はサンマじゃないか? 七輪で焼いて……大根おろしなんか乗せちゃったり!?」
周三郎はよほど腹が減っているのか、よだれを垂れながらグイグイと近づいてくる。
「あぁ? そんなのねぇよ。ってか、お前……なんか臭うな」
普段も時々泥で汚れた身なりをしているが、今日はそれとは別に、どこか獣臭いような気配を狂士は感じとっていた。
怪しむように顔を近づけると、周三郎はダラダラと冷や汗を流し出す。そして……
〈ドロロン〉
間抜けな音と共に、見覚えのある丸い耳とフサフサの尻尾が飛び出した。
「あーーん! ダメだぁ! やっぱり狂士の前じゃ変化が解けちまうよぉ」
「……やっぱり。くせぇと思ったんだよなー」
「ぶー、おいらちゃんと水浴びしてるのに」
見破られて悔しかったのか、玉太郎は腕組みをして頬を膨らませた。
「つーかお前、子供以外の姿にもなれんだな……さすが狸」
いつもの子供の姿に耳と尻尾が飛び出た玉太郎を見て、狂士は感心するように話す。
すると玉太郎は急に鼻を高くして自慢気に語り出した。
「当たり前だろ? おいら500年も生きる化け狸だ、一度見た相手なら誰にだって姿を変えられんだよ!」
〈ドロン、ドロロン――ドロロロン!〉
玉太郎は次々とポーズを決めながら、その度に煙に包まれ、侍や商人、老婆や翁、そして遊女の姿に変化していく。
呆然と眺めていた狂士だが、突如大きな声をあげる。
「ちょ、ちょいちょいちょい! ちょっと待てぇい!」
「えー? なんだよ、いい所だったのに」
「い、今の女の子! お前、見たことあんの!?」
狂士は身を乗り出して玉太郎に詰め寄った。
玉太郎はニヤリと笑い、再びドロンと煙に包まれる。そして、目の前に見慣れた遊女の姿が現れた。
「……ふふーん。夜光ちゃん、健気で可愛いよなー。おいら、ファンになっちゃいそう」
「お前、何で知って……」
夜光の姿でくねくねと体を動かす玉太郎に、狂士は唖然とする。
と、その時、神社の奥から禍々しい気配がもわりと沸き起こった。
「……狸、狸くさい……狂士さん? もしかして……狸、来てませんか?」
枯葉や泥にまみれた成弥は、狸臭を察知したのか、邪気を放ちながらユラユラと近づいてくる。
「ひ、ひぃぃ! お助けぇぇーー!」
成弥の姿に怯えた玉太郎はボワンと元の姿に戻り、全速力で去っていった。
「……く、逃がしましたか。狂士さん、あの腐れ外道、何か悪さはしませんでしたか?」
「い、いや、大丈夫だけど」
ひきつった顔で答えると、成弥は「そうですか」と穏やかな笑顔に戻った。
「……なぁ成弥、お前ら妖怪って、いろんな姿に化けれんの?」
「変化ですか? そうですねぇ、妖怪と一括りで言えるかはわかりませんが、少なくとも私のような妖狐や、あの阿保狸は、一応変化を得意としています。ま、私はこの姿以外にはなりませんが」
「どうして? もっと色々化けた方が便利じゃねぇの?」
狂士の問いかけに、成弥は困ったような笑顔を向ける。
「変化って、姿を変える度に力を消耗するんですよ。だから、あまりコロコロ姿を変える者は少ないですね……あ、一人忘れていました」
成弥はハッと何かを思い出すと、大きなため息を吐いた。
「あの阿保狸……玉太郎は様々な者に姿を変えます。狂士さんも気をつけてくださいね」
「……あいつは、力を消耗しないのか?」
成弥は困ったような表情で続ける。
「あやつ、馬鹿デカイ玉袋をぶら下げているでしょう? あれには霊力がたんまりと貯まっているのですよ。なので力の消耗もなく、自在に変化を操る。ほんと、下品で節操のない阿保狸です」
「そっか……あの玉袋に……ふむ」
狂士は何かを考え込むように顎を擦っていた。
――――
ある日、画塾の帰り際、洞和は皆を集め何やら深刻な表情で話を始める。
「みんな、帰る前に少し話がある。大事な事だからよく聞いてくれ」
いつもいい加減な洞和が珍しく改まっていたので、周三郎含め他の生徒たちも息を呑んで注目する。
「ついに……あの日が決まった」
「あ、あの日とは?」
周三郎は意味深な言葉に戸惑いを浮かべた。
「画鬼……わからねぇか?」
すると洞和はフッと怪しく笑い、バンと勢いよく両手で机を叩く。
「町の噂で聞いたときから、いつも憧れが胸の中にあったんだ……いつか皆で、墨合戦をやりたいと!」
キメ顔で言い切った洞和を、生徒たちは真顔で見つめる。
そしてしばしの沈黙の後、各々帰り支度を始め出した。
「さ、帰ろーぜ」
「今日は帰りに顔料を買いに行かねば」
「あ、俺も、足りない色があるんだ」
全く話を聞いていないような素振りに、洞和は急にオロオロと慌て出した。
「え、ちょっと待てよー、まだ話は終わってないだろー?」
慌てて呼び止める洞和に向かい、一人の生徒が冷ややかな声で話す。
「先生、墨合戦なんて汚れるし嫌です。私たちも子供じゃありませんし……そんな事より、普通に絵を学ぶ方が有益です」
生徒の的を射た正論に、洞和は不服そうに唇を尖らせる。
「えーー、いいじゃんやろーよー。皆でやったら楽しいよ!?」
洞和は諦めきれないようで、子供のように駄々をこね出した。
傍目にはどちらが先生かわからない光景だ。
「嫌です。だいたい、もう寒いのに冷たい墨にまみれるなど、考えるだけで風邪を引きそうです」
生徒に正論を突きつけられる度、洞和の体は怒りでぶるぶると震え出す。
「……わかった。お前らがその気なら、こっちにも考えがある」
「な、なんですか?」
洞和はニヤリと薄ら笑いを浮かべ、大きな声で全員に向けて言い放つ。
「墨合戦は3日後、この前村の画塾で行う! 欠席者は問答無用で破門! 必ず、全員が参加するように! では、解散!」
「「えーーー」」
生徒たちはどよめき、ブツブツと文句を言いながら教室を後にして行くのだった。
しかし、周三郎だけはボケッとした顔で教室に残っていた。
「……先生、どうしてそんなに必死になっているのですか?」
やりきった表情で立っていた洞和は、周三郎の問いにようやく我に返る。
「あん? そんなの、やりたいからに決まってんじゃん」
「それだけ?」
「あぁ……俺はよ、自分の画塾の生徒たちが、団結したり競ったり、そんな姿を見たい。まぁなんだ、皆でわいわいやりたいのよ!」
洞和は窓の外を眺め、少年のような笑顔で語っていた。
その姿はまるで、もう時期旅立ってしまう渡り鳥のように、周三郎には見えたのだった。




