二幕《狐と狸の馬鹿試合》⑥
「あ、狂士さん、おかえりなさい」
狂士が神社に帰ると、玄関口で心配そうに外を見つめていた成弥が笑顔で出迎える。神社は町の外れの山の麓にあり、夜になると明かりもなく真っ暗で、時折獣の遠吠えのようなものも聞こえる。そんな環境もあって、成弥はまだ江戸に慣れない狂士の事をとても心配していた。
それは狂士にとって逆にむず痒く、戸惑いを感じるものであった。
「あ、あぁ……ただいま」
成弥は狂士の顔を覗き込むと、不思議そうに首を傾げる。
「なんだか……元気がないですね。やはり、遊廓の事が気になりますか?」
「別に、そんなに思い入れもねぇよ。働いてたっても、一月もないんだし」
「ですが、そんな風には……」
そんな風には見えない、そう言おうとした成弥を遮るように、狂士は大きな声で話し出す。
「なんかさ、身体中が焼き芋臭いんだよなー。成弥、風呂入れる?」
「え、えぇ。少し前に沸いたところですよ」
「マジ? じゃあちょっと入ってくる」
狂士は嬉しそうにその場で帯を緩めながら、さっさと風呂場に向かってしまった。
「……なかなか本心を話しませんね、あなたは」
それとも、自分でも気づいていないのか……成弥は消え入りそうな声で一人呟いた。
神社に住まう者が遊廓のような場所に出向くことは、道徳的に許されることではない。身分を偽り遊ぶ物好きも中にはいたが、成弥にとってそれは譲れないこと。
しかし、自分が出した条件に素直に応じる狂士の姿に、成弥は少し申し訳なさを感じていた。
――――数日前 椿楼
「え……今日で、最後?」
夕暮れ時、まだ客のいない椿楼。
夜光は力無くポツリと呟き、腕の中にいた猫又をぎゅっと抱き締めた。
「周三郎の家を出ることになってよ。今はなんやかんや、神社に住まわせてもらってるんだ。そんで、何て言うか……あんまこういう場所には行けなくなって」
夜光を前にして、遊廓を否定するような事を言いたくはなかったが、狂士は気まずさを感じながら事情を説明した。
「……そうなんだ」
夜光は俯いたまま答えた。猫又は彼女を案じるように頬をペロッと舐める。
『夜光……あんた、泣いてるの?』
猫又の体を借りた華世は、心配そうに声をかける。
「な、泣いてないよ? そっか、神社に住むことになったんだね! そりゃ、遊廓なんて来れないよ、うん」
夜光はハッと顔を上げると、わざとらしい程に明るく話し出した。
「あ、あれからね、優しいお客さんばかりなんだ! だから……狂士がいなくても、大丈夫だよ」
「そっか……安心した」
その言葉とは裏腹に、狂士は寂しげな顔で笑っていた。
「……私、もう行くね! それじゃ」
夜光はくるりと体を返すと、小走りで去っていく。
猫又はヒョイと夜光の腕から抜け出し、狂士のそばに寄る。
狂士はその場にしゃがみ込み、真面目な顔で猫又を見つめた。
「華世。あいつ……夜光の事、よろしく頼む」
『えぇ、任せて。でも……あんたはそれでいいの?』
華世は首を傾げ、上目使いで狂士を見上げる。
「いいも何も……ここで生きてくには、仕方ねぇじゃん? それに……俺がいたって、夜光がここを出られる訳じゃない。俺には、何もしてやれないんだ」
『狂士……』
「だからさ、ずっとあいつのそばにいてやってくれ、華世」
――――
狂士は眠れずに、布団の中でモゾモゾと体を動かす。あたりは真っ暗で、小窓からは月明かりだけが僅かに差し込んでいた。
現代で慣れ親しんだテレビやスマホ、いつでも手軽に正確な時刻を知る手段。当然そんなものはここには無い。なので眠れない夜は、無限に朝が来ないのではないかと錯覚するほどだった。
成弥はいつも、夜になると稲荷像に変化し、神社の定位置に戻る。
そうやって他の妖怪や怨霊が神社に寄り付かないようにしているのだ。
「あいつ、寝ないんだな。ほとんど人間みたいだから、妖怪だって忘れちまう……」
布団に寝転がったまま小窓に目をやり、狂士はぼんやり呟く。
成弥のことはまだわからない事も多い。しかし、自分を住まわせてくれた事や、何かと世話を焼いてくれるところに、狂士は本心から素直に感謝していた。
借りた恩は返したい。頭ではそう考えていたが、椿楼の人々、特に夜光の事が心から離れることはなかった。
そしてこんな眠れない夜には、必ずといっていいほど頭に浮かぶ。その度に、狂士は自分の無力さを痛感するのだった。
「夜光、どうしてるかな……」
良客が増えたといっても、夜光は遊女。客と夜の相手をする、そういう仕事だ。
狂士がそばにいてもいなくても、それだけは変わらない。
しかしいつからか、狂士はその事に対し、苛立ちややりきれなさを感じるようになっていた。
その日も、狂士は目が覚める度そんなことを考え、気が付けば部屋は朝の薄明かりに包まれていた。
――――数日後 河鍋家
ある日、父と母が寝静まった後、周三郎は家を抜け出した。
以前にも嘘を付き遊廓に出向いた彼だが、実はこういったことは何度かやらかしている。
夜にしか見れない動物の生態の観察や、酔いつぶれた住人を見つけたり、夜は興味深い発見に満ちているのだ。
普通なら両親に対し後ろめたさや罪悪感を感じるところだが、周三郎にはそういった感覚が少し、いや異常に抜け落ちているようだった。
コソコソと静まり返った町を抜け向かった先は、夜中でも華やかに賑わう遊廓。
周三郎は周囲に目もくれず、小走りである場所を目指す。
その時……
「……わぁ!!」
「ぎゃーー!!」
突然耳元で聞こえた大声に、周三郎は驚きその場で大きく跳び跳ねた。
キョロキョロとあたりを見渡すと、後方からケラケラと楽しそうな笑い声が聞こえる。
勢いよく振り返ると、見知った顔がそこにあった。
「玉太郎!?」
「へへーん! 驚いた?」




