序幕《奇縁》後編
(はぁ……やっぱあの時、漏らした写真撮ったのがマズかったな。ま、今さら後悔しても後の祭り……もう、死ぬんだから)
薄れていく意識。
しかし何故か、気を失ったはずの狂士の耳元に、ガヤガヤとざわめく人々の声が微かに届いた。
「なんだ? 土左衛門か?」
「可愛そうに、まだ若い男の子よ……」
「あの髪、それに変な着物、この国のもんじゃねぇぞ」
(……ん、なんだ? なんか、騒いで……あーもう、うるせぇーなー)
意識を取り戻した狂士がカッと目を見開くと、人々は「ひぇー」と声を上げて瞬く間に散っていった。
ただ一人の少年を除いて。
着物姿の少年は、何故か砂浜に紙を広げ、熱心に何やら描き写していた。
狂士は何とか体を起こそうとすると、突然つっかえていた海水が口からあふれでる。
「がっ、ごほっ!」
「あぁ、駄目だよ! 動かないで! もう描き終わるから!」
(なんだ……コイツ。てか、こっちは死にかけてんのに、なんでコイツの言うこと聞かなきゃなんねーんだよ!)
「……だぁ、くそ!」
やっとの思いで体を起こした狂士は、夢中で何かを描いている少年の元へ近寄る。
その紙を覗き見ると、そこにはまるで死体のように無惨な自分の姿が描かれていた。
狂士は少年から無言で絵を奪い取ると、それをビリビリと破り裂く。
「わ、わぁぁぁ! なんて惨いことを!」
泣き叫ぶ少年に、狂士は怒りに任せて言い放つ。
「惨いのはてめぇだろーが! 人の事、死体みてぇに描きやがって!」
「だ、だって、死体なんて滅多にお目にかかれないし」
「死んでねーし! ってか、こんなん描く前に助けろや!」
「あぁ! 確かにそうだ」
少年は今気づいたような反応で言うと、恥ずかしそうにバリバリと頭を掻いた。
(な、なんなんだコイツは……変な格好してるし、死体なんか、普通じっくり見ねぇだろ)
少年に気を取られてしまったが、周囲の異様な雰囲気に気づき、狂士は改めて辺りを見渡す。
すると、そこは自分が突き落とされた海岸ではなく、見たこともない場所であった。
町の方には民家のような平屋の建物が見えるが、どこか違和感を覚える。
(なんか、京都? みてぇな場所……けど、ビルが一つもねぇ)
古風な町並みだが、それはこれまでの見慣れたものではなく、まるで本格的な時代劇ドラマのよう。
そして何より、そこにいる人々は全員着物姿で、普通の服装をしている者は誰一人いなかった。
狂士は口を開けまま立ち尽くし、町の様子を食い入るように見ていた。
「んー? ほぉー、ふんふん。ん? これは……」
呆然としていた狂士だが、ふと妙な声が聞こえ下を見る。するとさっきの少年がまるで珍獣でも見るみたいに自分の体を舐め回すように観察していた。
少年は「ふんふん」と声を洩らし、狂士の服を捲りあげる。
狂士はイラついた表情でワナワナと震えると、その少年の頭に思いきり拳を振り下ろした。
「いっでぇぇ! いきなり何すんだよぉ!?」
少年は頭を押さえ、その場にうずくまる。
「それはお前の方だろ! だいたい、何処なんだよここは! 変な、時代劇みたいな」
「変? わしから見たら、お前の方が妙ちくりんだが?」
「……はぁ!?」
「こーんなピチッとした着物、見たことない。それに、変な下駄履いて」
さっきまでしゃがみこんでいた少年は、再び狂士のそばににじり寄る。
そして再び、狂士の着ていたTシャツを捲りあげた。
「おまえ、何言って……」
少年は目が隠れるほど延びた前髪の隙間から、鋭い眼光を覗かせている。
日に焼けた肌にボサボサの髪。だらしなく着た着物もよく見ると所々破れている。
そんな格好の少年にも関わらず、狂士は妙に威圧感を感じ、思わず後ずさった。
すると少年は突然、ニヤリとギザギザの歯を見せて笑う。
「なぁ、お前、なんて名前だ?」
「え……ひ、緋山、狂士、だけど」
狂士は戸惑いながらも、辿々しく名を名乗る。
「きょうじ……なぁ、どんな字書くんだ?」
何が嬉しいのか、少年はキラキラと目を輝かせた。
「は? どんなって言われても」
「……ここ、ここに書いて!」
困惑する狂士に、少年は笑顔で砂浜を指差した。
「はぁ……わかったよ」
深いため息を吐き、狂士は渋々砂浜に自分の名前を書いた。
「狂……狂士」
少年は書かれた文字をまじまじと見つめる。
「これで満足か?」
「狂士! いい名前じゃなか! 気に入った!」
「いや、お前に気に入られようが別にどうでも……」
「わしは周三郎! 河鍋周三郎だ! お前、困っているならわしの家に来い!」
「はぁ!? なんでお前んちに」
「はっ、母上にも事情を説明しなくては……何をしている、早く行くぞ、狂士!」
「おま、人の話聞けや! おい、待てよ周三郎!」
狂士は猛スピードで駆けていく周三郎を必死で追いかける。
息を切らしながら、周三郎の背を追う狂士の胸は、何故か少しわくわくしていた。
周りから疎外され、これまで他人に関心を持たないようにしていた狂士。
だが、見知らぬ場所で出会ったこの怪しげな少年は、己の好奇心を素直に現し、見ず知らずの自分に純粋な興味を示している。
そんな少年に、狂士は初めて他人に興味を抱いていた。