二幕《狐と狸の馬鹿試合》④
「狂士、石井殿に迷惑かけるんじゃないぞ! では石井殿、狂士のこと、よろしく頼みます」
話がまとまると、周三郎はペコリと頭を下げ、走って神社を出ていった。
「周三郎さん、なんだか急いでましたね」
「うーん、そうだな」
周三郎は目も合わさずに去っていった。
不自然なその態度に、狂士はぼんやりと首を捻った。
(あの玉袋に巻き込まれて忘れてたけど……そういやあいつ、なんか様子変だったな)
――――
ある日の午後。
昼飯が終わり、画塾の生徒たちは庭で竹刀の打ち合いをしていた。
基本机に向かうことが多い為か、休憩時間は皆わりと活発に体を動かすことが多い。
しかし、周三郎はその輪に入ることはなく、いつも一人机の前で絵を描いていた。
「おい、画鬼。どした? しけた面して」
「……洞和先生」
周三郎の通う画塾の師匠、前村洞和は、着物の胸元をだらしなく広げ、ボリボリと腹を掻きあくびをこぼした。
洞和は齢30ほどの男だが、髪は全て真っ白な白髪で、伸びた前髪をいつも紐で結んでいる。
なぜか周三郎の事を画鬼と呼び、からかうように声をかけるのが彼の日課であった。
「なんか、いつもより元気がねぇな?」
「……また、父上に逆らえなかった」
浮かない表情でしょりしょりと墨をすりながら、周三郎はぽつぽつと話す。
「親父さんに? どうせまた、くだらない事やらかしたんだろ」
洞和はドカッと机の前に腰を降ろし、周三郎の顔をにやにやと見つめる。
「やらかすなど失礼な。わしはいつも、信念を持って生きておるのに……」
周三郎は不貞腐れるように口を尖らせた。
「んー? じゃあ、その信念とやらを言ってみろ」
「それは……何と言うか、説明が難しいが……とにかく! わしは自分の思いに素直に生きておるのです。狂士の事だって、本当に助けてやりたかっただけなのに……」
「そりゃあ結構なことで。ほんで? その狂士ってのは、誰の事だよ」
洞和は頬杖をつき、興味があるのか無いのか、適当な物言いで返す。
「狂士は、海岸で倒れていたんじゃ。江戸の事も知らなくて荒っぽい変な男だが、あいつ、どんな状況でも泣き言を言わんのだ。知らない場所でも、いつも堂々として。だから……わしは助けになりたかったのに、父上が追い出してしまった」
周三郎は墨をするでもなく、いじいじと動かしていた手をピタリと止め俯いていた。
すると、洞和は突然「ぷっ」と吹き出した。
「な、何が可笑しいのですか」
「いやよ、画鬼にもそんな感情があったんだなーって。お前が他人の内面に関心を示すなんて、初めてじゃないか?」
「内面、ですか?」
周三郎は顔を上げ、キョトンとして師の顔を見る。
「お前、今まで動物や人間、自然の風景――あらゆるものに興味を示して、観察してきただろ?」
洞和の問いに、周三郎はコクンと頷く。
「だがよ、そこに潜む感情や想いを視ようとしたことは、案外無かったんじゃねぇか?」
「……感情」
「何を考えているのか? 自分の事をどう思っているのか。その狂士ってのと出会って、そう思うことは無かったか?」
――〈わしは、狂士の友ではないのか?〉
周三郎は、ふとあの時の会話を思い出した。
心にぽっかりと穴が空いたような、薄ら寒いような気持ち。そんな時、ぽろりとその言葉が出た。
(あの時……なぜか急に突き放されたような気がした。あんな気持ちは、今まで感じたことがない)
「画鬼、お前はもっともっと人と関われ。人の感情、自分の気持ちに向き合えば、画鬼の絵は更に人々を魅了する力を持つぞ?」
「洞和先生」
洞和はポンと周三郎の頭に手を置くと、髪の毛をグシャグシャに撫で回す。
「まずは、その狂士ってヤツ。そいつととことん関わってみろ。お前が大人しく親父に従うようなタマか? さっきの信念がでまかせじゃないってとこ、俺に見せてみろ」
ボサボサになった髪もそのままに、周三郎はじっと見上げる。
洞和はにっと口角を上げ、挑発的に笑うのだった。
洞和が去った後、周三郎は窓の外から聞こえる生徒たちの声に顔を向ける。
「人と、関わるか」
わーわーと活気のある声。気持ちのいい秋晴れに、パシンと竹刀の音と皆の笑い声が混じる、のどかな昼下がりの風景。
周三郎はその風景を、どこか寂しそうな表情で見ていた。
――――
画塾の帰り、周三郎は成弥の神社を訪れた。
狂士が成弥の神社に住みだして、すでに一週間ほどが経っていた。
(わしがいなくても、狂士はきっと大丈夫……)
あれから何度かここに出向いたが、そう思うとなぜか周三郎の足は止まった。
〈お前はもっと、人と関われ〉
洞和の言葉が甦り、立ち止まる周三郎の背中を押す。
「……よし!」
一歩踏み出し階段を数段昇ると、ドドド……と何かが勢いよく走ってくるような音がする。
何事かとあたりを見渡すと、聞きなれた怒鳴り声が聞こえてくる。
「おらぁ! 待てコラ玉袋ー!」
「なんだよー、1個ぐらい貰ってもいいだろー!? ケチー!」
「何が1個だ! 5、6個くすねてんだろーが!」
突然の事にポカンとしていると、奥から玉太郎が大きな芋を咥えて走ってくる。
子供の姿の玉太郎は、周三郎に気づかぬまま階段の一番上から勢いよく跳び跳ねた。
「ぬおっ!?」
「ん? わー! どいてどいてー!」
二人はドンと派手にぶつかり合い、周三郎はゴロゴロと後ろ向きに階段を転がり落ちた。
「ぐへぇ……いってぇ」
あまりの痛さに頭を抱え、周三郎は地面をのたうち回る。
「あぁ、クソ! 逃げやがったか」
階段をかけ下りてきた狂士は、憎らしそうに文句を言うと、ようやく地面に転がる周三郎に気づいた。
「あ」
「きょ、狂士! は、ははは、元気そうじゃな」
周三郎がわざとらしく笑って誤魔化すと、狂士の顔はみりみる不機嫌な表情になっていった。
「周三郎ー、お前なー」
「ひぃ」
周三郎は条件反射で、思わず逃げるように背を向ける。しかし、簡単に首根っこを捕まれてしまい、狂士に捕獲された。
「す、すまん狂士! 何を怒っとるのか知らんが、許してくれー」
「……お前、あれからろくに顔も見せずに何やってたんだよ。まさか、毎晩遊廓に出入りしてんじゃねーだろーなー」
「そ、そんなことするわけないじゃろー!? わ、わしはただ……」
「ただ? なんだよ」
「た、ただ……狂士の住む場所も決まったし、わしはもう、いなくても大丈夫だと思って」
しょぼくれた顔でブツブツと話す周三郎に、狂士は大きなため息を漏らす。
「はぁ……薄情なやつだなーお前は」
「わしは決して薄情などではっ」
「……友達」
「え?」
「俺のこと、友達じゃねーのかよ。前に、そう言っただろ?」
周三郎が恐る恐る顔を上げると、照れ臭そうにポリポリと頬を掻く狂士の姿があった。
「おい、何黙ってんだよ。どーなんだ、友達じゃねーのか? えーおい」
ボケッとしていた周三郎は「はっ」と我に返り、その顔はみるみる笑顔になっていく。
「も、もちろん! 友達じゃ! 狂士はわしの、一番の友だぞ!」
それを聞き、狂士も満足げにニヤリと笑う。
「ふふん、まいいや。おい、焼き芋食うだろ? 半分玉袋に取られたけどさ、いい感じに焼けたとこだぜ?」
「おぉ! 焼き芋は大好物のひとつじゃ! たんまり食べて、放屁合戦といこう!」
「きったねぇな。食う前から屁のこと言うな」
生まれた時代と環境は違えど、二人はお互いに初めての友が出来た。
夕暮れに染まる寂れた神社。普段は静かなその神社に、この日は夜になるまで、賑やかな笑い声と屁の音が響き渡るのだった。




