一幕《化け猫》⑨
――――数年前 ある日の椿楼
その日、遊廓に一人の幼い少女が売られていった。
「……小夜、です」
少女は父親の借金のかたとして、吉原の妓楼《椿楼》に売られてきた。
ここ椿楼で、身を削るような生活が始まることを、まだ8つの幼い少女は知るよしもない。
小夜は、目の前に座した華やかな着物姿の女性に深々と頭を下げて名乗る。
女性の傍らには、自分と同じ年頃の少女が静かに座り、穢れのない真ん丸な瞳で小夜を見つめていた。
「小夜、ですか。可愛らしい名前……ねぇ、華?」
女性は傍らの少女に優しく微笑みかける。
「うーん、なんだかノロマそうな子。大丈夫かしら」
華と呼ばれた少女は、しかめっ面で腕組みをする。
「ふふふ、華ってば、本当に口が悪いんだから。あなただって、まだ三月ほど前に来たばかりでしょうに」
女性は口元を袖で隠し、クスクスと笑い声を上げる。
「むっ、わたしはもう立派な禿として、桜花太夫のお役に立っております!」
華は腰に手を当て、自信満々に言ってのける。
「あらまぁ、この前私の部屋の花瓶を割ったのは、どこのかわいこちゃんでしたっけ?」
「うぅ……」
ジロリと視線を送る桜花太夫に、華は急に元気を無くして小さくなった。
「あっはは……小夜、話が飛んでしまってごめんなさいね。私は桜花。ここで遊女として働いてるわ」
「桜花、太夫?」
「そう。今日からあなたには、ここで私の身の回りの手伝いをしてもらいます。詳しいことは、華に教えてもらいなさい」
「華、ちゃん」
小夜は心配そうに華の顔をうかがう。
「あんた、ちゃんと私の言うこと聞きなさいよね」
「こら! 偉そうにしないの。優しく教えてあげなきゃ」
威張るように言う華の頬を、桜花太夫はチョンとつついて優しく叱る。
「はぁい……」
むくれた顔の華を見て、小夜はクスクスと笑う。
コロコロ変わる華の表情は、小夜の不安な気持ちを和らげてくれるようだった。
「もぅ小夜、笑わないでってばぁー」
「ふ、ふふ……ごめん、華ちゃん」
最初こそ生意気な事を言っていた華だったが、同い年の二人はすぐに打ち解け、次第に心を通わせていく。
自由の無い、狭い妓楼での生活も、お互いがいれば毎日が楽しかった。
些細なことで、喧嘩をしたこともあった。
小夜が大切に隠していた一粒の金平糖を、華がこっそり食べてしまったり。華が寝坊したせいで、小夜も一緒に桜花太夫に怒られてしまったり。
それでも、お互いを嫌いになったことは一度もなかった。
友情なのか、それとも、もっと深い愛情か。小夜には華が、華には小夜が、お互いがいるだけで毎日が幸せだった。
しかし、いずれは大人になる身。
楽しかった禿としての生活も、やがて終わりが近づいていた。
――――それから7年後
「うん、綺麗だよ……華世ちゃん」
「ふふっ、ほんと?」
華は今日、水揚げを向かえる。
椿楼で客をとる、遊女《華世》として初めての夜だった。
華世はその場でくるくると回り、綺麗な赤い牡丹柄の着物姿を眺める。
初めて着る美しい着物に喜んでいた華世だが、その顔にふと不安の色が混じっていた。
「なんか……ちょっと怖いな」
「華世ちゃん?」
いつも強気で明るい性格の華世は、この時はじめて弱音を口にした。
「……ごめん! 私らしくないよね、こんなの」
無理に笑顔を作る華世を、小夜は優しく抱きしめる。
「怖いよね……当然だよ、初めてなんだもん」
「……小夜っ」
華世の背中を擦りながら、小夜は優しく語りかける。
「でもね、私もすぐに後を追うんだ。だから、華世ちゃんだけに辛い思いはさせないよ」
「うん……ありがとう、小夜」
華世は鼻をすすりながら、振り絞るように言葉を返す。
華世が弱音を吐くのを、小夜は初めて見た。
どうして、こんな辛い思いをしなければいけないのだろう。
神も仏もない無慈悲なこの世、なんの力もないけれど、自分だけは華世の支えであり続けたい。
すすり泣く華世の姿を見て、小夜は固く心に誓うのだった。
――――水揚げの夜
「心配しなくて大丈夫。僕に身を任せていればいい」
共に床に入り、男は耳元で囁くように言葉を吐いた。
まだ蒸し暑さが残る秋の夜。小窓は開け放たれ、外から虫の鳴き声が優雅に響いている。
男は武士だが、物腰が柔らかく、これまでも初めて客をとる華世のことを気遣ってくれていた。
不安な気持ちはあるが、粗暴な客でない事だけは救いだった。
「……はい、よろしく、お願いします」
華世は恥じらいながらも、男の肩に腕を回す。
(どうせ、逃げ場なんてないんだ……えぇい、どうにでもなれ!)
その時、半ばやけくそのような心持ちの華世の耳元に、小さな猫の鳴き声が聞こえた。
〈ニャーン〉
「はっ! い、今、猫の鳴き声がしなかったかい!?」
男は突然ガバッと布団から飛び起きる。
「は、はい……あ、そこの窓から入ってきたみたいです」
華世は男の行動に驚きつつも、布団を体に巻き付けて、入ってきた白猫を抱きかかえる。
「ふふ、可愛らしい」
猫の頭を優しく撫でていると、突然カチャリと不穏な音が耳に入った。
「……畜生の分際で、いいところを邪魔しやがって。僕はなぁ……昔っから猫だけは死ぬほど嫌いなんだよ!」
男は人が変わったように猫を睨み付け、己の刀を躊躇無く抜く。
「な、何をするのです!?」
華世は猫を隠すように背を向ける。
しかし猫は暴れだし、華世の腕から飛び出していった。
「逃がすか!」
興奮した男は刀を大きく振り下ろした。
「やめて!」
〈ブシュッ〉
血に塗れた刀は、力の抜けた男の手からボタリと落ちた。
言葉にならない叫び声を上げ、男は我を忘れたように髪を掻きむしる。
騒ぎの中、猫はいつのまにか窓から逃げ、残されたのは鮮やかな赤に塗れた華世の亡き骸だけだった。
――――
夜が明け、椿楼は騒然としていた。
他の遊女たちは恐怖に怯え、華世の死は瞬く間に妓楼中に知れ渡る。
男は錯乱していたが罪を認め、罪人として然るべき処置を受けた。
しかし、華世が帰ってくることはない。
「う、うそ……嘘よぉ!! だって、だって昨日まで一緒にいたのよ!? ねぇ、どうして……どうしてぇ」
死の知らせに、小夜は嗚咽を洩らし泣き崩れる。
小夜の悲痛な声をただ受け止める事しか出来ず、桜花太夫は悔しさの滲む表情で小夜の背中を撫で続けた。
「ごめん、ごめんねぇ。守ってあげられなくて、何もしてあげられなくて……せめて、涙が枯れるまで、ここで泣きなさい」
桜花太夫の言葉をきっかけに、小夜は声をあげてひたすらに泣き続けた。
その日、椿楼は店を閉め、皆で華世の死を悼んだ。
そして遺体を見送った後、桜花太夫が小夜に声をかける。
「小夜……これ、持っていてくれないかい?」
桜花太夫は袂から小さな鈴を取りだし、小夜に手渡した。
小夜は赤く腫らした目で、力無く鈴を見つめる。
「……華世ちゃんの、鈴だ」
華世は、この鈴をいつも帯留めに付けていた。
鈴の音がチリンと聞こえると、いつも元気な華世が駆けてくる。そしていつの間にか、小夜はこの鈴の音が大好きになっていた。
小夜は鈴を握りしめ、肩を震わせ再び大粒の涙を流した。
――――
それからしばらくして、椿楼ではある噂が流れ始める。
「この前さ、小夜の部屋から喋り声が聞こえてきたんだよ」
「あ、それ私も聞いたわ。楽しそうに笑ってさ」
「おかしいよね。だって、華世が居なくなって、あの部屋は今、小夜だけだよね?」
華世の死から一月。
この日、小夜は遊女《夜光》として、初めて床に入る。
ぼんやりと鏡を見つめる夜光の元に、明るい少女の声が聞こえてくる。
『ふふ、やっぱり不安そうな顔してる』
振り向くと、綺麗な赤い牡丹柄の着物を纏った、一人の遊女の姿があった。
「ちょっと、緊張しちゃって」
不安を口にする夜光を、遊女は優しく抱き寄せる。
『大丈夫、何があっても、あんたは私が絶対に守るから』
「……ありがと、華世ちゃん」
鏡に映る夜光の肌は青白く、ひどく痩せ細っている。
しかし彼女に抱かれるは夜光は、とても幸せそうに笑っていた。




