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一幕《化け猫》⑧

――――戌の刻(20時ごろ) 河鍋家


 夕食の後、さっさと風呂も済ませた周三郎は、慌てて母トヨに声をかける。

「母上、母上!」

「なんですか騒々しい」

 トヨは着物を畳みながら、周三郎の顔も見ず呆れた声で返した。

「わしは今、絵に対する熱意が無性に溢れております! 朝まで一人で集中したいゆえ、絶対に部屋を覗かないでほしいのです!」

「……朝まで、徹夜ですか?」

「は、はい!」

 トヨの突き刺さるような視線を、周三郎は負けじと見つめ返す。


「……ようやく、やる気になったのね! わかりました、頑張るのですよ」

 しばしの沈黙の後、トヨはにっこりと笑い周三郎を励ました。

「も、もちろんです。素晴らしい絵を仕上げて見せます!」


 周三郎はぐっと腕まくりをして気合いを入れる。

 そう、もちろん彼に絵を描くつもりなど更々無いのだ。部屋を抜け出し、こっそりと遊廓へ行くため、すでに草履も懐に忍ばせている。

 母を出し抜く罪悪感など、周三郎は微塵も感じていない。そしていそいそと部屋に入り、物音を立てないようゆっくりと窓を開けると、悪びれる様子もなく夜の街へ駆け出していった。


「むっふふ……会えるかのー、化け猫」

 まだ見ぬ妖怪との出会いに心躍らせ、走りながら思わずムズムズと口元が緩む周三郎だった。


 

――――椿楼


「……夜光、参りました」

 

 指名の客の待つ部屋の襖をゆっくりと開けると、中にいたのはやはりあの侍だった。

 粗暴で、いつも乱暴に夜光を扱う。

 呪われた遊女の噂のせいで、夜光を指名するのは現状この侍しかいない。

 予想していた事だが、今まで受けてきた扱いと、これから何をされるかを思うと、夜光の表情は暗く、その瞳は光を失っていった。


 (やっぱり……私にはこのお客さんしかいないのか)


「げふぅー。おいっ、夜光! 相変わらず辛気臭い顔してるじゃねぇか! おら、早く酒を注げ」

 男はすでに相当酔っぱらっているようで、隣に座る夜光に向けて盛大なゲップを吐き出した。

 しかし夜光は表情を変えること無く、淡々とお酌をする。


「……あまり飲みすぎると、体に障りますよ」

「あぁ? ふっははは! えらく言うようになったじゃねぇか……前は怯えて一言も喋らなかったくせによぉ!」

 酒を煽るように飲み干し、男はお膳を勢い良く蹴り飛ばした。


 ガシャンと大きな音を立てて、飛び散った器は夜光の腕に当たった。

「くっ……」


 夜光は痛めた右腕を庇い、じりじりと襖のそばに寄る。


「……お前、あの男とデキてんのかぁ?」

「えっ?」

「見てたんだよ……楽しそうに二人で歩きやがって。俺にはあんな顔、一度だってしたことねぇよなー」

 そう言って男はゆらりと立ち上がると、そばに置いていた刀に手をかける。


「いつもいつも高い金払ってお前を買ってるっていうのによぉ……当のお前は、どこぞの馬の骨みたいなヤツとよろしくやってるなんて。俺も馬鹿にされたもんだぜ」

 喋りながら、男は徐々に夜光に近づき、手にかけた鞘をゆっくりと抜き始める。

 スラリと抜かれた刀の刃は怪しく光り、夜光は底知れない恐怖を覚えた。


 (怖い……いやだ! 死にたくないっ)


 体中が氷のように冷たく、手足が震えあがる程の死の恐怖。それに呼応するように、帯にしまった先程の鈴は、焼けるような熱を帯びていく。


「せめて最後くらい、イイ声で楽しませてくれよなぁ」

 男が刀を振り上げたその時、カタカタと音を立て、襖や部屋に置かれた装飾品が不気味に揺れ始めた。

「あぁ? 何の音だ」


〈グギャーーーーーー!!〉


 部屋が地震のように揺れ、内臓に響き渡るほどに大きな獣の声。

 突然の轟音に、夜光はうずくまり耳を塞ぐ。


「う、うるせぇ! 何なんだ、この声は!!」

 男も刀を握ったまま、片手で耳を塞ぎ体を屈める。


 その時、揺れる襖がドンドンと激しく叩かれた。

「夜光! おい、何があった! ちょ、開かねぇんだけど!?」

「あぁ……狂士! 助けて!」

 狂士の声に、夜光はハッと顔を上げ、精一杯の声で助けを求めた。

 

 その瞬間、部屋中にドス黒い瘴気が立ち込め、天井に頭が擦れるほどに巨大な、白い獣が姿を現す。

 神々しい程に純白の毛並みは、怒りに震えるように逆立ち、揺らめいている。

 見開かれた金色の目は、男の姿を捉えると、まるで獲物を狙うように瞳孔を縮ませる。

 鋭い牙を光らせ、耳元にまで裂けるように開かれた口から漏れる、ゆっくりとした獰猛な息遣い。

 それはまさに、《化け猫》と呼ぶに相応しかった。


「ひ、ひぃぃぃ! またっ、あの時の!! くそっ、く、来るなぁぁ!!」


 錯乱した男は手当たり次第に刀を振り回し、壁や襖を斬りつけていく。


「ひぃっ!」

 刀の切っ先が、夜光の足に当たった時、化け猫は逆上したように、さらに大きな鳴き声を響かせた。

 その鳴き声と共に、男の体からは突如無数の裂傷が現れ、鮮やかな血が体中から吹き出していく。

 

「がはっ! な、んだ、こりゃ……ぐふぅ!!」

 男は強烈な痛みに言葉も出ず、白目をむいてバタリと倒れ込んだ。

 

 力の限りガタガタと襖を動かしていた狂士だが、らちが明かず、一旦大きく深呼吸をする。

「……おらぁ!」

 襖をぶち破るように体当たりで中に入った狂士は、巨大な化け猫の姿と血塗れで倒れる男に一瞬怯んだ。

 しかしすぐに、うずくまる夜光を見つけると、彼女のそばへと駆け寄っていく。


「夜光! お前、足が……」

 斬りつけられた夜光は、足首がぱっくりと切れ、傷口からは多量の血が流れていた。

 狂士は自身の着物の裾を裂き、急いで夜光の足首に強く巻き付ける。


「ぐっ」

「……我慢しろよ。とりあえず血を止めないと!」

 体を起こした夜光は、倒れる男に再び襲いかかろうとする化け猫の姿を目撃する。

「いや……やめてっ、駄目よ……殺さないでっ」


 夜光の振り絞るような声に、狂士はスッと立ち上がり、臆する様子もなく化け猫を睨み付ける。

「いい加減に……しやがれぇ!」

 思いきり振りかぶった拳は、化け猫の顔面にめり込み、巨大な体は勢い良く壁に打ち付けられた。


〈グルルルル……〉  


 低い獣の唸り声が響き、しばしの膠着状態が生まれる。

「ち、しぶといヤツ」


 もう一発決め込もうとした時、バタバタと聞きなれた足音が聞こえる。


「こ、これは一体、何事じゃー!」

「げっ、周三郎!?」

 部屋に走ってくるなり、仁王立ちで大口を開ける周三郎。

 『面倒なヤツが来てしまった』と、狂士は素直にそう思わざる終えなかった。


「これが……化け猫とな」

 周三郎は巨大な化け猫の姿を凝視し、開いた口からはたらりとヨダレが流れていた。

「はぁ、お前、ちょっと大人しくしてろ」

 気を取り直し、肩を回して化け猫に狙いをつける狂士を、周三郎は突如呼び止める。


「きょ、狂士!」

「はぁ……なんだよ」

 ガックリと肩を落とす狂士に、周三郎は続けて話す。

「あの猫……一匹じゃないぞ」

「あぁ!?」


 周三郎は鋭い瞳で化け猫を睨む。

「猫の奥に……女がおる。赤い、着物の女だ……」

「お、女?」

 周三郎の言葉に困惑する狂士は、再び目を凝らして化け猫を睨む。


 すると、唸り声を上げ続ける化け猫の透けた体の奥に、着物姿の女の霊が浮かび上がった。

 狂士がその存在に気づいた時、女の姿はよりくっきりとなっていく。


「お前、あの時の!」

 それはさっき廊下で出会った、猫の面を付けた女の霊そのものだった。

 そして、白い猫の面は剥がれ、女の顔が露となる。


「うそ……どうして」

 夜光の瞳は大きく開かれ、ぽたぽたと大粒の涙が流れ出した。

 

「……華世ちゃん」


 涙声で呟いた言葉に反応するように、化け猫の霊はスゥっと消え去り、華世と呼ばれた女の霊だけが、その場に立ち尽くしていた。

 


 

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