序幕《奇縁》前編
――――20XX年、8月
蒸し暑いある夏の夜、高校2年生の緋山狂士は、今まさに、常闇の海に放り込まれんとしていた。
「おい、一応聞いといてやる。思い残すことはねぇか? ってな」
ニタニタと卑劣な笑みを浮かべ、いかにも柄の悪そうな男達は狂士を岸壁に追い詰める。
「……ねぇよ、そんなもん」
狂士は暗い海を背に、男を睨み付けた。
「ははっ、そういやお前、家族もダチもいねぇんだったな……まぁいいや。おい、落とせ」
「うっす。じゃあな、ガキ」
《バシャン》
後ろ手に腕を縛られた狂士は、最後の足掻きと一心不乱にもがき続ける。
しかし、いつしか息も限界を迎え、開いた口から海水が容赦なく流れ込んでくる。
(あぁ、なんて呆気ない……くだらないな、俺の人生)
真っ暗な海の底から月明かりを見上げ、狂士は遠のく意識の中で、微かな幼少期の記憶を思い返していた。
――――10年前 児童養護施設
「狂士くん、向こうで皆と遊ばないの?」
「……いい」
「だけど……ずっと一人で、寂しいでしょ?」
物腰の柔らかい女性職員は心配そうな表情で、一人でジャングルジムに登る狂士のそばに寄り添う。
「せんせー! そいつ変だから、近寄ったらお化けが出るよー!」
活発な少年は、ドッチボールに精を出しながら大きな声で叫んだ。
「こら! そんな風に言っちゃダメっていつも言ってるでしょ!」
「わー! 先生が怒ったー!」
女性職員は少年を叱りつける。しかしこれといった迫力も無く、少年は笑いながら走り回る。
「ゴメンね。あの子ったら、変な事ばかり言って」
「……こと、だよ」
「え?」
「本当のことだよ。お化けが出るって」
狂士はジャングルジムの上から暗い表情で呟いた。
「な、なに……バカなこと言って」
女性職員がひきつった笑みで見上げると、狂士の背後には巨大な女の亡霊が、じっとりとこちらを見据えていた。
「ひぃぃ! いやぁー!」
悲鳴をあげた女性職員は尻もちを付き、地面を這うようにその場から逃げていった。
再び一人ぼっちとなった狂士は、後ろの亡霊を鋭く睨み付ける。
「急に出てくんなよ、バーカ」
ジャングルジムからヒョイと飛び下り、狂士は何食わぬ顔で部屋へと帰って行くのだった。
狂士は赤ん坊の頃、この施設に預けられた。当時母親はまだ未成年。身ごもった経緯は不明だが、おそらくまともな事情ではないのだろう。
他の身よりもなく、施設で育った狂士は、物心ついた頃から不思議なモノを見るようになった。
この世のものとは思えぬその異形は、彼だけでなく周囲の者をも巻き込んだ。
そう、なぜか狂士のそばに寄ると、霊感の無い者でもその姿が見えてしまうのだった。
――――時は戻り、数ヵ月前
脱色された薄色の髪に、鋭く赤みがかった瞳。
高校生となった狂士は、いまだ友人の一人も居ないまま日々を過ごしていた。
霊の噂だけが周りに広まり、大抵の人間は狂士に関わろうとはしなかったからだ。
そして中学に入った頃から、その目付きと口の悪さから、なにかと絡まれることが増えていく。
売られた喧嘩はもれなく全て買っていた狂士は、意図せず腕っ節だけが強くなっていった。
しかし何故か、一定の女子から人気があったのだった。
「狂士くん! ねぇ、一緒にカラオケ行かない?」
「行かない、興味ないし」
「えー! ちょっとくらいいいじゃん。ねぇってばー」
女子生徒は狂士の腕を引き付け、自分の胸を押し当てる。
狂士は女子生徒の胸を興味無さげに一瞥し、呆れたようにため息を吐いた。
「あのさ……俺、馴れ馴れしい奴嫌いなんだけど」
「はぁ!? 何よ! せっかく声かけてやってんのに、調子乗ってんじゃ……」
「リカ? 何やってんだよ」
「げっ、マサキ!」
激昂するリカの前に、金髪の男子生徒、マサキが声をかける。
一瞬動揺するリカだったが、狡猾な笑みを浮かべると、目に涙を浮かべてマサキに飛び付いた。
「緋山くんが、遊びに行こうってしつこくてっ……私……」
「リカ! てめぇ……なに人の女に手ぇ出してんだ!」
マサキは怒りに任せ、狂士の胸ぐらを掴む。
「はぁ? そんなチャラい女、誰が興味あんだよ」
狂士はあえて、嘲笑うような表情で言い返した。
人間なんて、くだらない……
狂士は心底そう思い、日々を過ごしていたのだった。
「お前、覚悟は出来てんだろうな……ちょっと面かせや」
「は、上等だよ」
自信満々に校舎裏へと狂士を連れ込むマサキだったが、勝負は一瞬、呆気なく終わった。
「ぐ、くそが……」
地べたに腹這いになり、震える拳で砂利を掴むマサキ。
狂士はそんなマサキの背中に跨がるように腰を下ろした。
「うぅっ」
「意気がってたのに、こんなもんか? さすが、あんな女と付き合ってるだけあるわ」
「チッ、てめぇ……地獄に落ちろ」
ギリギリと歯を食い縛り、なけなしの気力でマサキは言い返す。
その時、目の前にモヤモヤとドス黒い雲のようなものが立ち込めてきた。
「な、なんだ!?」
驚き狼狽えるマサキの耳元に、悪魔のような笑い声が響く。
「くくっ、あはは! 地獄って、もしかしてこんなやつかぁ?」
狂士の指差す方を見ると、おぞましい生首が数体、ゆらゆらと宙を漂っていた。
「ひぃっ、ひぃぃぃ!?」
マサキは腹這いのまま壁際に逃げていき、尻を付き出して震えている。
そして、地面はホカホカと温かいもので濡れ広がっていく。
《カシャ、カシャ》
「これ以上俺に関わったら、この写真アップするからな。あの女にも言っとけよ」
マサキの返事は無かったが、その情けない姿に呆れて、狂士はその場を立ち去る。
後を追うように着いてくる生首を裏拳で軽く消し去り、スタスタと歩く後ろ姿を、マサキは恨みを込めた瞳で睨み付けていた。
「バケモンが! 絶対に許さねぇ……」
マサキはスマホを握りしめ、ある番号へ電話を掛けた。
「もしもし、先輩……ちょっとシメて欲しいヤツ、いるんすけど」