滑落
どうして死んでしまうのですか。
なぜかそんな言葉が、思い浮かんだのだ。
心臓がどくりと跳ねる。
額に冷や汗がにじむ。
きっと怖い顔もしていたと思う。そんな俺を心配してか、目の前に座る王女様は俺の顔を恐る恐る覗き込んでいた。
「リック? 大丈夫ですか?」
「ええ……平気です」
「なんだか体調が優れないようですけど、もしかして馬車に酔ってしまわれたかしら」
「まあ、そんなところです……」
王女・アンネマリー様の言葉に乗っかり誤魔化したが、本当の原因は乗り物酔いではない。
なぜか想像してしまったのだ。不意に脳裏に浮かんだのだ。アンネマリー様が、「死」を迎えることを。
これから幸せになろうという彼女の身に、そんなことは起こるはずないのに。どうやら俺は、俺が思っているよりアンネマリー様とのお別れが口惜しいようだ。
俺とアンネマリー様が乗っているこの馬車は、オストリヴェン帝国の王家であるヘルツブルク家の宮廷を出発し、隣国ヴェルシエールへと向かっている。この度、ヘルツブルク家の第七皇女であるアンネマリー様は、ヴェルシエールの王子と婚約が決定したのだ。
そして、執事であり家庭教師でもある俺は、ヴェルシエール行きの馬車に同行することとなった。数年仕えたアンネマリー様の元での仕事は、これが最後だろう。
山間の道を進む馬車は、一定のリズムを刻んでいる。
道の片側は岩壁で、もう片方は切り立った崖である。
小山の頂にある宮廷から出かけるには、必ずこの道を通る必要があるため、定期的にメンテナンスが行われている。
「リック。今日は暑いかしら」
「ええ。お嬢様は、相変わらずですか?」
「ふふ、そうね。相変わらず私は、暑さに強いみたい。今日も心地よいと感じるのだけど……馬車は空気がこもるし、揺れも強いものね。リックの気分が悪くなるのも仕方ないわ」
「いえ、別に私は大丈夫ですよ」
「……そうだわ! リックの風の魔法でそよ風を起こせば、少し涼しくなるんじゃない?」
「いや、だから……」
俺は言いかけた言葉を飲み込む。向けられた期待の眼差しを無下にはできない。幼い頃から魔法が好きなお方だったが、それは今も変わらないようだ。
「では、少しだけ……」
俺は手のひらを上に向け、霊力を込める。ぐるぐると弱い風が起こり、馬車の空気を混ぜていく。
「ほら! 涼しくなったわ。ふふ、リックはやっぱり魔法が上手ね。完璧な風加減だわ。さすがは魔法学院百年に一度の天才ね」
「それはおやめください。私はそんな肩書きより、あなたの執事であることに誇りを持っていますから」
「まあ。嬉しいわ。ありがとう」
「それよりお嬢様は? 火の魔法は出せるようになりましたか」
「うー、リックのいじわる。マッチの火より弱い火花しか出せないことは、知っているでしょう!」
「あはは、申し訳ありません」
「それに、人類の魔法の力は弱まっているし、魔獣も減っているから、これからの時代は魔法が全てではないって。これはあなたが教えてくれたことですわよ、リック先生」
「……その通りです。お嬢様は本当に勉強熱心ですね。あなたならきっと、隣国に嫁いだあとも上手くやれる……」
俺は目を閉じて、これからアンネマリー様が生きる未来を想像してみようとする。が、車輪の音に違和感を覚え、すぐに目を開く。
「なんだ……? 車輪が軋んで……いや、これは地面の方か!」
俺は慌てて御者に声をかける。
「おい! 一旦馬車を止めてくれな……ッ!?」
しかし声と同時に、馬車が大きく傾き、馬のいななきが響く。
「地面が崩落した!? お嬢様!」
俺は咄嗟にアンネマリー様を庇うように抱き寄せる。
ごっそり抉れた地面と共に、馬車はゴロゴロと崖下へ落ちていく。
「うぐっ……!」
経験したことのない強い衝撃に耐えきれず、俺は馬車から振り落とされる。
音が止む。
何もかも、真下の森林へと落下してしまったようだ。馬車も、馬も、御者も、俺も、アンネマリー様も……。
「お嬢様……っ」
俺はすぐにアンネマリー様のところに駆け寄ろうとする。
「なんだ……立てない……」
地面に倒れ伏した俺は、ゆっくりと頭を上げて、自分の脚を確認する。
右の太ももに、折れた木の幹が突き刺さっていた。
「お嬢様……」
見たくない。見てはいけない。自分の足から目を逸らす。足の痛みも、頭痛も、寒気も、真っ赤に染まった自分の体も、叫びたくなるこの気持ちも、全て無視する。今はただ、主のもとへ。
しかし前を向いた俺の目に映るものは、同じだった。いや、もっと酷い。大破した馬車の端材が、アンネマリー様の胸を刺し貫いていたのだ。大地は鮮血で赤く染め上げられている。
「ぁぁ……ぁぁああ!」
俺はアンネマリー様の方へ手を伸ばした。
そして、その手が届くことは、なかった。