【A】メビウスの少年
この小説は【対戦カードA】の組み合わせです。
対戦相手は『プール×いもうと』となります。
以下企画サイトのルールの項目から抜粋。
もっと詳しいルールは企画サイトか目次欄最初にある『ルール詳細』のほうにあります。
【投票方法】……必読!
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(もちろん投票だけでも構いませんが、感想なども作者の方も喜ぶと思います)
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(加点方法の詳細は【投票に関するルール】を参照してください)
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むせ返るような満員電車の中に、くたびれたスーツを着た一人の男が立っていた。その窓から、力強く自転車を漕ぐ少年の姿が見えた。
時間にすれば一秒にも満たない、ほんの一瞬のすれ違いだった。それでも少年の横顔に垣間見た眩しい笑顔は、あまりにも鮮烈に男の心を灼いた。
片手でハンドルを繰りながら、もう片方の手には虫取り網。部屋遊びに慣れ親しんでしまった今の子どもでも、夏の楽しみを知らないわけではない。大人がとやかく言わなくたって、少年たちはいつだって遊ぶことに全力なのだ。
しかし、それはもうずっと前に過ぎ去ってしまった昔日の記憶。いまや男にとっての夏は炎天下の営業回りと得意先への謝罪の文句を考えることだけで塗り重ねられている。
電車が止まる。これから始まる、そしてこれからも続いていく長い一日を思うと、溜め息ばかりが男の喉元を通り抜けていく。
人波に流されるまま改札を出て、変わらない町並みを眼下に収める。見飽きた景色はもう、男の心に何の感動も与えてくれなかった。昔はもっと目に見えるものすべてが輝いていたような気がする。けれど、それは決して錯覚などではなかったはずだ。
会社までの短い道程。額に汗を浮かべながら、男は空を見上げてふと思う。
「おまえさんも、あの頃に戻りたいのか?」
「え……?」
心の声が現実に響き、男はぎょっとしながら声のしたほうを振り向く。そこに立っていたのはみすぼらしい格好をした老爺だった。古びた杖を握り締め、今にも崩れ落ちてしまいそうな痩せこけた体を寸前のところで支えている。
「おまえさんも、あの頃に戻りたいのか?」
ふるふると体を振るわせて、しわがれた声で先程と同じ問いを投げかけてくる老爺。最初は面食らうばかりだった男も、やがて事を正しく理解するに至る。
焦点の定まらない老爺の視線は、きっと自分には見えないものを追いかけているのだろう。
居住まいを整えて、男は静かに口を開く。
「ええ。叶うのならば戻りたい。三十年前、昭和五十四年の夏休みに、もう一度」
「その願い、叶えてやれるとしたら、どうする?」
「……それはすごい。それならば、ぜひとも叶えていただきたいものです」
何の根拠もない、荒唐無稽な老爺の言葉。もっと若い頃の自分であれば、その言葉を真正面から受け取ることもできたのかもしれない。
過去に置き去りにしてきたものを取りに戻ることはできないことを、男はよく知っている。人間の可能性はいつだって未来にのみ開かれている。
過去は決して帰らない。そんな諦念と折り合いをつけて生きていける程度には、彼は世の中を知っていた。
それでも。いや、だからこそ。男には、目の前の老人の心が痛切なほどに理解できた。自分がかつて少年だったように、彼もまた、かつては少年だったに違いないのだから。
長く険しい人生のすべてをやり終えて、大人である義務を終えた老人の行き着く先。
「良いだろう。その願い、わしが叶えてやろうとも」
にっこりと相好を崩す老爺は、まるで少年のようだった。そんな彼の笑顔に、男はふたつの姿を連想した。
ひとつは、三十年前の自分。
もうひとつは、三十年後の自分。
自分もいつかはこんな風に屈託なく笑える日がくる。そう思うと、なんだか嬉しくもあり、悲しくもあった。
「目を閉じなさい。わしがおまえさんを昔に連れていってやる。さあ、さあ」
「……わかりました。では、よろしくお願いします」
うむ、と満足げに頷く老爺を前に、男はそれ以上何も返すことができなかった。
棒切れのような手が男の両肩に置かれる。言われるがままに目を閉じると、当然のように暗闇ばかりが男の視界に広がった。
「さあ、あの頃に帰ろうじゃないか。日が暮れるまで遊ぼう。いつまでも、いつまでも終わらない夏を」
弾むような、歌うような口調で、決して叶わぬ妄言を語る老爺。終わらない夏などないというのに。
しかし、その言葉は男の心に柔らかく溶け込んでいった。ほんの一瞬、いつか見た夏の夕焼け空が脳裏をかすめていった。
もしも願いが叶うなら――彼と一緒に、日が暮れるまで遊んでみたい。
同情や悲哀の情念抜きで、男は心底からそう思った。そんな優しい世界があるのなら、ぜひとも連れていってほしいと願った。
*
夏をひとつ重ねるごとに、少年の体はひとまわりずつ大きくなっていった。
セミやカブトムシを捕まえて、友達と互いに大きさを比べ合って。
日が暮れるまで泳いで、真っ赤になるまで日焼けして。
冒険と称して隣町まで繰り出して、帰り道がわからなくなって両親にこっぴどく叱られて。
ずっと育ててきた淡い想いを、赤々と焼ける夕焼け空に散らして。
そして、三十年。
いつしか少年は、大人になっていた。
*
むせ返るような満員電車の中に、くたびれたスーツを着た一人の男が立っていた。その窓から、力強く自転車を漕ぐ少年の姿が見えた。
時間にすれば一秒にも満たない、ほんの一瞬のすれ違いだった。それでも少年の横顔に垣間見た眩しい笑顔は、あまりにも鮮烈に男の心を灼いた。
片手でハンドルを繰りながら、もう片方の手には虫取り網。部屋遊びに慣れ親しんでしまった今の子どもでも、夏の楽しみを知らないわけではない。大人がとやかく言わなくたって、少年たちはいつだって遊ぶことに全力なのだ。
しかし、それはもうずっと前に過ぎ去ってしまった昔日の記憶。いまや男にとっての夏は炎天下の営業回りと得意先への謝罪の文句を考えることだけで塗り重ねられている。
電車が止まる。これから始まる、そしてこれからも続いていく長い一日を思うと、溜め息ばかりが男の喉元を通り抜けていく。
人波に流されるまま改札を出て、変わらない町並みを眼下に収める。見飽きた景色はもう、男の心に何の感動も与えてくれなかった。昔はもっと目に見えるものすべてが輝いていたような気がする。けれど、それは決して錯覚などではなかったはずだ。
会社までの短い道程。額に汗を浮かべながら、男は空を見上げてふと思う。
「おまえさんも、あの頃に戻りたいのか?」
「え……?」
心の声が現実に響き、男はぎょっとしながら声のしたほうを振り向く。そこに立っていたのはみすぼらしい格好をした老爺だった。古びた杖を握り締め、今にも崩れ落ちてしまいそうな痩せこけた体を寸前のところで支えている。
「おまえさんも、あの頃に戻りたいのか?」
ふるふると体を振るわせて、しわがれた声で先程と同じ問いを投げかけてくる老爺。最初は面食らうばかりだった男も、やがて事を正しく理解するに至る。
焦点の定まらない老爺の視線は、きっと自分には見えないものを追いかけているのだろう。
居住まいを整えて、男は静かに口を開く。
「ええ。叶うのならば戻りたい。三十年前、平成二十一年の夏休みに、もう一度」
了