栗毛橋
煌めく瞳、蓮のように透き通った唇、澄んだ黒髪の少女。
夏の日の暮、橋の上にただ一人女あり。
若き女、黒い衣を纏い、欄干に身を預ける。
夕暮れが紅く染める水面は流れ、
夕陽は石橋の上のほこりを焼き付ける。
女、見つめる先には何もない。
その様子、見つける男あり。
若き男、未だ女を知らず。
ただ、眩しき夕陽に時折目を逸らす。
川辺の湿り気は、男を憂鬱にさせる。
草の蒼さは、暑さに嘆く。
闇も近くなると、女は、垂れた髪を振り上げる。烏が声を上げるのも知らず、じっとしていた。
男は対岸へ行こうとし、橋の脇に添えてある階段を駆け上がる。どうして対岸へ行くのか。対岸には、町がある。こちら側には、花街がある。
橋の上、ちょうど中程を男、通り過ぎようとする。
「あの……」
女は、男に声をかけゆく。男は聞かぬふりをして通り過ぎようとしたが、それは恥じらいというものからであることを男は知らない。
「もし……」
女の声が再び聞こえると、男はやっと振り返った。男の頬は、やや紅潮していた。いや、それ以上に女はそれであったのかもしれない。
女は、男の立ち止まったのを見て、語りかけた。
「わ、わたしは、花街で生まれ育ったの。16になって、1週間後に、店に出ることになるの。」
男は、胸の鼓動を聞く。
「それで、物思いに橋から川を見下ろしていたの。」
「そ、そうですか。」
男は女の悲しい運命を知り、少し同情する。
男は新聞配達をしながら、大学で学ぶ。男は、この花街の生まれであった。6年前花街を離れてからは、対岸の町の中で暮らしてきた。
女は、幼き頃に二つほど歳の離れた男児が、隣の家に住んでいた話をした。
男は、他人事と聞いているふりをした。男が案ずるのは、寮の門限である。必死に話をする美しき少女をよそに、その向こうの水面を見ている。
急に女の目が変わった。男は、しかと話を聞いていないことが悟られたと思い身を縮めた。
女は、男が話に耳を貸したのを黙認すると、少し笑みを作って見せた。
男は、頰の下辺りにととっとできたえくぼに見覚えがあった。昔あったその少女は、自分が引っ越すときに、簪をひとつ手渡したのだった。その簪は、寮の机の中にしまっている。
漆塗りの簪であった。そして、彼女が今つけているものも漆塗りである。そのような漆塗りの簪は、花街の人がよく使っていた。そして、見た目のよく似た簪を取り違えないように、確か各々の家紋がついていた。
(…家紋……!)
確か、机に入っている簪には、源氏香の家紋が入っていた。
そう、源氏香の紋が。
今彼女がしている簪には、雪や牡丹の紋様が入っている。そして、家紋は……。
源氏香だった。
もうすぐ、夜の客でこの栗毛橋にも人が通るだろう。男、女の手を握り、寮の方へと歩き出す。
1957年に売春防止法が施行されるまでは、多くの花街が日本各地に存在した。芸妓と娼妓の両方がいたのが、本来の花街だった。今日、祇園や金沢などに見られる花街は、伝統的な芸を引き継ぐ芸妓がいる街である。