雨の日には素敵な出逢いが
それは生憎のどんよりと重い曇り空で、もしかしたら雨が降るかも……という予感が当たった日のことだった。
「あーあ、せっかく傘を準備してたのに」
家に傘を忘れてきてしまっては元も子もない。仕事からの帰り際に突然降り出した雨に打たれ、私は市場のテントで雨宿りをしていた。市場に来ていた買い物客は、傘や雨避けの護符を使って足早に去っていく。
(こんな時に、素敵な恋人が傘をさして迎えに来てくれたらなぁ)
しかし残念ながら恋人はいないし、魔法使いでもない。秋の始まりの雨は冷たく、雨とともに吹く風にぶるりと震える。このままでは確実に風邪を引くので、諦めて走って帰ろうかと考えていたその時だった。背後から誰かが近づいてくる気配を感じ、私は邪魔になると思って一歩だけ横に避けた。
「お嬢さん、風邪を引くぞ」
しかしその気配は立ち止まり、色気を感じさせる低い声と共に、私の肩にはふわりと何かがかけられる。それは人の温もりを残したままの上着だった。私の身体をすっぽり包み込む、男性ものの上着。すっかり濡れた服により、体温を奪われていた私には、この服はとても有り難いものだけれど。
「あ、ありがとうございま……」
優しい誰かに礼を言おうと振り返った私は、そのまま固まった。
「どこまで? 送ろうか?」
凄く好みの渋い声の男性は、何故か上半身裸であった。私は思わず、その裸の上半身から目を逸らす。意外と、いやかなり筋肉質だ。あまりジロジロ見るわけにもいかず、私は視線を彷徨わせる。下半身はきちんと穿いているけれど、ソコを見ているわけにもいかない。でも結局のところ顔を見るしかなく、思い切って顔を上げた私は、パカリと口を開いた。
(超絶好み! ど真ん中!)
男性の短めの硬そうな黒髪は無造作にかきあげられ、太く凛々しい眉はキリッと上がっている。その深い赤茶色の鋭い眼が、私をジッと見つめていた。しかし、微妙に視線がそれているというか、私の胸元を見ているような気が……?
「あぁ……もう少しきちんと羽織った方がいいぞ」
私が視線の意味に気づいた瞬間、その男性は断るでもなく、いきなり手を伸ばしてきた。そして手早く、ダボダボの上着のボタンを太い指でとめていく。濡れたシャツが隠れていく様を、私はボーっと眺めていた。男性の魅惑的な首筋に、意図せずして鼻先が掠める。身を屈めて小さなボタンをとめることに集中している男性は、私の挙動不審な動きに気づいていないようだ。
(いい匂いがする)
まるで蜜に吸い寄せられる羽虫のように、私はふらふらと顔を近づけた。首筋から立ち上る男らしい香りを思いっきり吸い込むと、水気を含む濃厚な香りにくらりと傾きそうになる。
(いい匂い、何これ、この匂いに包まれたい!)
もしかしたら、その心の声が漏れ出てしまったのかもしれない。匂いを嗅ぐことに集中し過ぎて体勢を崩しかけた私の腰に、筋肉質な太い腕が素早く回される。それから重力なんかものともせずに、ヒョイっと抱え上げられた。
「ひゃあっ」
「危ないぜお嬢さん。雨の日は滑りやすい」
私は咄嗟に男の頭を胸に抱え込んでしまった。男性の声が、私の胸元からくぐもって聞こえてくる。濡れた胸元に男性の熱い息がかかり、どうしてだか、私のお腹の真ん中がキュンと甘く引きつれた。
「お嬢さん。あんた、いい匂いがするな」
「い、いい匂い⁈」
「ああ、雨の匂いの中に、あんたの匂いが混じってる」
抱え上げられた状態なので、若干私の顔の位置が上にある。瞬間、慌てて男性の頭を離した私と、胸元から顔を上げた男性の視線が交わった。
(あ……)
何故だかわからないけれど、私はどうしても視線をそらすことができなかった。とても素敵で、危険な瞳。でも、頭の片隅で駄目だという声が聞こえる。ドキドキと心拍数が上がってきて、私吸い寄せられるように顔が近づいて――――
「ジュスト! 何してんだ、召集かかってるぜ! 」
「……ちっ」
男性を呼ぶ声に、この場所には私たち二人しかいないような、そんな雰囲気が台無しになる。ジュストと呼ばれた男が舌打ちをして眉をひそめた。私もはっと正気に戻り、今にも重なりそうだった顔を離す。それから慌ててジタバタともがくと、男性――ジュストに降ろしてもらった。
「邪魔が入って残念だ」
「え、あ」
「オルフェ、今行く!」
名残惜しいとでも言うように私の頬をさらりと撫でたジュストは、呼ばれた方を見て肩をすくめて見せた。
「あの、この服……」
よく見ると、私が羽織ったダボダボの上着は帝国軍人の制服だった。オルフェという人も、軍服を着ている。軍人さんの制服のすぐ下が裸だったのには驚きだ。というか、このままでは色々とまずいのではないだろうか。私がボタンを外そうともがいていると、ジュストがそれを止めた。
「まだ雨はやまない。それを着て帰るといい」
「でも、貴方の方が……その、裸ですし」
「残念ながら魔法使いではないが、俺は鍛えているからな。それに、あんたの服もかなり濡れている。見えると厄介だろ」
「あ、はっ、はい」
ジュストはやんわりと私の服が濡れていることを指摘した。そうだった。濡れたシャツから下着の色がはっきりわかるくらい透けていたんだった。確かに、それで歩くには少しばかり恥ずかしい。
思わず上着の前をギュッと握った私に、ジュストはこくりと頷いた。向こうでは「おい、まだかよ!」と同僚の軍人が叫んでいる。
「静かにしてろ、聞こえている!」
そんな軍人に向かって、ジュストは親指を下に向けると、キリリと顔を引き締めた。その表情は任務に向かう軍人のそれで、私はその凛々しさに見惚れてしまう。
「制服は濡れても大丈夫なようにできている。気が向いたら駐屯地の受付に渡してくれ」
「すみません、見ず知らずの私のために」
制服の下が肌着ではなく裸だったのには色々と衝撃を受けたけれど、その上半身裸の状態で任務に向かわせるのは忍びない。召集と言っていたので大丈夫なのだろうか、と心配になる。
「見ず知らずのじゃないさ。あんたの名前を教えてくれ」
「あ、はい。メロディといいます。メロディ・ロロット、海岸通りの本屋の店子です」
「よしメロディ。これでもう俺たちは知り合いになったな」
「知り合い、なんでしょうか」
「おう、知り合い。俺はジュスト・ベランジェ。ご覧の通り駐屯地の軍人だ。あんたのことは受付に伝えておく」
にかりと笑い、そう言い残したジュストが、去り際に素早く身を屈めてきた。私はそのあまりの素早さに、なすすべもない。
「気をつけてな、メロディ」
事もあろうに、ジュストは無防備な私の唇に、掠めるような口づけを落とすと、こちらをずっと見ていた軍人の方へ駆け出した。
(く、口付けられた……)
今しがた起きた衝撃的な行為に、私は立ち尽くした。奇跡、いや、何が起きたの⁈
(素敵な軍人さんに、口付けられた!)
背中の筋肉も素晴らしいジュストを見送りながら茫然とする。頭の中はパニックだ。確かに、素敵な恋人が迎えに来てくれたらとは妄想していたけれど。これは都合のいい夢なのかとすら思えてくる。
(あ、あの匂いがする)
制服は温かいけれど、軍人らしく色々な記章がついていて布も分厚いので結構重い。制服に染みついているらしい、先ほど胸に吸い込んだ魅惑の香りが鼻腔をくすぐる。私の顔が、今さらながら熱くなった。少しだけしか触れていないのに、唇の温かさがまだ残っているようだ。そっと自分の唇を触って確認してから、私は恥ずかしくなって両手で顔を覆う。
(初対面でいきなりだったけど、嫌じゃなかった……うん、嫌じゃなかった)
私は指の隙間から、ジュストが駆けて行った方向を見て、奇跡のような出来事に胸をときめかせた。
(お礼、しなくちゃ)
制服は受付に返してくれと言われたけれど、もし、次に出逢えたときは、運命かもしれない。
(口付けの意味を、聞かなくちゃ!)
ダボダボの制服を羽織ったまま、私は周りの視線を物ともせずに、家に向かって走り出す。
(ジュスト・ベランジェさん……駐屯地の軍人さん)
雨はまだやみそうにない。
「神さまっ、雨を降らせてくれてありがとうございます!」
靴の中までずぶ濡れになっても、冷たい雨が気にならないくらい、私の気分は高揚していた。
この後、制服を綺麗にして駐屯地を訪ねて行ったメロディが、素敵な軍人と運命的な再会をすることになるのだが――その話はまた次の機会に。