婚約の儀 1
その日から木戸明日斗の災難は始まったといえよう。町中の人たちが知る婚約の話に明日斗の母親も対応に追われ、紗々音もちょっとした有名人気取りで周囲の質問に答えていく。とはいっても、これといった詳しいことなどわからない。そういった話は聞いていないからだ。だから、親友であるサクラの質問にも満足に返事できず、ここは情報収集が必要であると踏んで、ある作戦を実行することに決めたのだった。
*
「なんだそれ?」
自室で漫画を読んでいた明日斗が紗々音の言葉に身を起こした。
「だからさ、親交を深めたいのよね、未来の義姉さんとさ」
「その呼び方はカチンとくるからやめてほしいよ紗々音ちゃん」
何故か一緒にいるりんごの言葉に苦笑し、紗々音はため息をつく兄の顔を見やった。
「で、懇親会?」
「そそ!おにぃもよく知らないんでしょ?瀬音さんのこととか、婚約の儀式のこととか」
「謎だよね?だいたい、なんであっくんなのかもさ」
「強いから、でしょうけど・・・・それに関しちゃ納得いかないのはこの紗々音ちゃんも同じなのである」
「まぁね」
勝手に話して勝手に進める2人にうんざりしつつ、明日斗は頭を掻いた。確かに知らないことが多すぎる。婚約者になって2週間だが、デートらしいデートもなく、ただ一緒に登校し、下校し、最後にさよならのキスをするだけ。その柔らかい感触が徐々に明日斗の心を掴んできている、とはいえないものの、そういう関係であることを認識させるには十分だ。自分は瀬音の婚約者である、そういう認識を。
「確かに、な」
呟く兄の言葉に目を光らせたのは紗々音か、りんごか。
「とにかく!一度ちゃんと話をしたいわけ!将来、家族になるんだし!」
「家族って定義は違う気がするけど・・・まぁ、な」
「あっくんに乗り気がないなら断れるしね!」
「いやぁ・・・相手はあの石垣家だぞ・・・・」
どうにもお互いに好意が見えないりんごの言葉にそう返す明日斗もどこか曖昧なままだ。瀬音を好きかと聞かれれば、答えはわからない。向こうからの愛情もそう感じない。キスはすれど、それ以上の関係になりたいとも思わない。元々、恋愛感情というものが薄いせいだろうが、心の奥底にある違和感が原因であるとも気づいている。
「まぁ、はっきりはさせたい、な」
だからこそそう口にする。何故自分なのか、そもそも目的が何なのか。
「じゃ、決まり!さっそく!」
そう言い、紗々音はポケットから取り出したスマホを操作し、瀬音の電話番号を表示させると発信ボタンを押す。
「紗々音ちゃん、会長の番号知ってたんだ?」
「そこはほれ、将来のおねぇなんだし」
「・・・・その表現、やめて」
心底イヤそうな顔をするりんごを見つつ、紗々音がピクリと反応した。どうやら瀬音が電話に出たようだ。
「ども!紗々音です!今、お時間いいですか?」
「意外と礼儀正しい・・・・」
紗々音の言葉を聞いてそう呟くりんごを見つつ、明日斗は瀬音との婚約を断った際のことを考える。瀬音との婚約がなければ、順当にいけばりんごとそういう関係になっていたのだろうか。想像するが、想像できない。りんごとキスをする自分、愛を確かめ合う自分、結婚式を挙げる自分、子供を抱く自分、どれも現実的ではない。そもそも、リンゴに対しては家族のような感情しかないからだ。いや、誰に対しても同じだ。
『あんたに欠けているものは1つじゃないしね』
笑いながらそう言った母親の言葉を思い出し、顔を伏せた。そう、自分には欠けているものが多い。その自覚があるだけに、明日斗は今も流されるままに生きている。自分は出来損ないだと思う。人として不完全であり、欠陥品であり、そしてそれを補う気もない。壊れているのかもしれない。
「そうです。で、私と、りんごちゃんと、私の友達のサクラちゃんの5人で!」
「5人?」
ふと我に返った瞬間に聞いた紗々音の声に疑問が頭をよぎった。懇親会というのは家族でするものだと思っていたからだ。
「じゃぁ、それで。はい、場所は川沿いのロールロールで!はい、では、お願いしまーす!!」
そう言い、その後は二言三言話しをして電話を切った紗々音がピースサインを2人に向ける。
「明日の午後一、ロールロールのケーキ屋さん!」
頷くりんごの目に闘志が宿る。その目を見てどこか意味ありげな顔をした明日斗は再びベッドに寝転がった。
「おにぃ!よろしく!」
「へいへい」
「じゃぁ、サクラに連絡、っと」
スマホをいじる紗々音を横目にりんごは明日斗のベッドに腰かけた。紗々音は電話をしながら部屋を出ていく。それを見たりんごは漫画を読む明日斗の横に寝転がった。いい香りが鼻をくすぐり、そっちを向けばすぐそこにりんごの顔があった。可愛いその容姿は学校でも人気があり、何人からも告白をされているのを知っている。それこそ、中学の時からだ。けれど、りんごはそのすべてを断っている。その理由として彼女が好きなのが自分だと知ったが、だからといって明日斗の中のりんごへの感情に変化はなかった。
「あっくん」
そう言うりんごがそっと明日斗の頬に触れた。暖かいその手の温もりを感じても、どこか潤んだ瞳を見ても、艶やかな唇を見ても何の欲望も沸いてこない。性欲もない、そんな感じで明日斗はじっとりんごを見つめていた。そのりんごが不意に距離を縮め、明日斗の唇に自分の唇を重ねる。とっさに身をよじろうとした明日斗だが、体を寄せて顔を手で掴んだりんごはキスを止めようとしなかった。これまで想い続けた日々を、時間をそこに込めたように何度もキスをし、舌を使ってくる。明日斗はどうするかを悩みつつその行為を受け入れていた。ただ漠然と瀬音のキスとは違うと思いながら。かといってそれ以上の感情はない。
「あっくん・・・・このまま・・・・・赤ちゃん、作ろっか?」
潤む目で見つめられ、そう言われて断れる男がいるのだとしたら、それはこの明日斗だけだ。いつの間にか密着していたりんごの柔らかい身体を感じる。大きな胸も明日斗の体に当たってその形を変えているというのに、そういう気持ちが出てこない。
「無茶言うなよ」
優しい動きでりんごを引き離すとベッドの上に座り込んだ。同じように身を起こすりんごの目を見れず、明日斗は大きなため息をついた。
「俺は人として欠けているものが多い・・・・お前にこうされても、こっちは無反応」
そう言い、明日斗は自分の股間を指さした。恥ずかし気に視線を落とすりんごは思い切ってそこに触るものの、知識の中にある男性のそれが反応していないのはわかった。なんというか、漫画や雑誌で知る形状にはなっていないとわかる。
「言っとくけど、彼女とキスしても同じだからな」
彼女というのが瀬音を指すと知っても、りんごの中のショックは消えなかった。なんであれ、羞恥心を殺してまで迫った自分に対して何の反応も見せなかったというのは自分を女と見ていないからだろう、そう思ったからだ。涙ぐむりんごの頭をそっと撫でる明日斗は小さな笑みを浮かべていた。
「でもなんか嬉しかった・・・・・お前のその、キスも・・・・」
上手く言葉に出来ないが、明日斗という人間をよく知っているりんごにすればそれが本心であることはわかる。だいたい、木戸明日斗はこういうセリフを言う人間ではないからだ。
「結局、俺は・・・・欠けてるんだと思う・・・・恋とか愛とか・・・」
「おばさんが言ってた・・・明日斗は・・・・壊れているって」
「木戸としても、人としても不完全、いや、欠陥品」
「そうだね・・・・でも、それでも・・・・・会長と結婚してほしくない」
「今のままじゃ出来ない。けど、流されてる・・・・嫌だとも思ってないし、してもいいと思っているのも確かだ。でも、彼女の真意を知らないと結婚は出来ない。明日はそれを伝えるよ」
「うん」
明日斗は微笑み、そっとりんごを抱きしめた。それは彼女が泣いている時にいつもしているもの。大粒の涙を流すりんごを抱きしめ、優しく頭を撫でる。
「私・・・あっくんが好き・・・・・あっくんと結婚したい」
「・・・・ありがとな」
そう言うのが精いっぱいの明日斗はりんごの頭を撫で続ける。声を出して泣く幼馴染を抱きしめ、ただ頭を撫でることしかできない自分を歯がゆく思う。瀬音とは結婚しない、お前とする。そう言えない自分が怖い。
「ごめんな・・・・優柔不断で」
謝る声にも泣くことでしか返せないりんごは、これが明日斗なんだと再認識した。そう、明日斗は決断できない人間だ。だからこその欠陥品。人として壊れていると思う。それでもそんな明日斗を好きになった。それはりんごにとっての試練なのだろう。
*
部屋の外でトレーにジュースを乗せた母親は苦笑していた。女の子にああまで言われて決断できない息子を情けなく思う反面、そう産んだ自分もまた呪う。
「産みそこなったんだよね・・・・・心を、さ」
明日斗に欠けたものはもう自分の中にはない。それは全部、紗々音が拾って産まれてきた。
「業の深さが出たのかなぁ・・・・私と、父さんの」
自虐的な笑みを浮かべ、母親はそっと明日斗の部屋のドアをノックするのだった。